第2話 ラブレター2
次の週の水曜日。
僕は、またお店に寄り道をしてしまう。
「マスター。ビールね。それと、、、アテは何かあるかな。」
「今日は、豚の生姜焼きがありますよ。」
「いいねえ。じゃ、それお願いします。」
ここの店は、定番のメニューもあるのだけれど、日替わりで何種類かを用意している。
それがまた、結構イケル。
アテといっても僕好みの濃い味付けのボリュームのあるおかずだ。
バーと言っても、居酒屋的でもある。
それにしてもさあ、豚肉ってやっぱり、焼いたりカツにしたりするのが美味しいよね。
僕はどうも、あの冷しゃぶという料理に疑問があるんだよね。
「美味い。」と感じたことがない。
たまに奥さんも作ることがある。
御膳に乗った冷しゃぶを見て、「冷しゃぶか。」とココロの中で残念に思っていると、奥さんが「冷しゃぶは、好きじゃなかったよね。」と言った。
奥さんは、僕が冷しゃぶという食べ物を、それほど好きでないことを知っている。
それなのに、わざわざ作って、僕が好きでないことを確認する。
どういうことなの。
たまにこういう無意味なことが起こるのでありますが、僕に料理を作ってくれるなんて人は奥さんしかいないので、まあ、仕方がないということなのであります。
さて、その冷しゃぶだ。
大きめのサラダボウルか深皿に、レタスやキャベツ、玉ねぎなどの野菜をたっぷり敷き詰めて、そこに豚か牛の薄切り肉を沸騰したお湯かだし汁に、まさしくしゃぶしゃぶとくぐらせて、それを冷水で冷やす。
それを先ほどの野菜の上に乗せて、周りにミニトマトなどで色合いを添える。
こんな感じでどこの家庭でも作られているのじゃないですか。
如何にも涼しげで夏の暑い日には、見た目は食欲の出る1品であります。
とはいうものの、その味というか食感が問題なんだ。
風呂上りによく冷えたビールを喉にいっきに流し込んで、さて件の冷しゃぶを箸で摘まみ上げ、ゴマダレかポン酢につけて口に入れる。
「硬い。」
まず、その肉を噛んだ時に、そう思う。
冷水で〆ているので肉が硬くなるのは解る。
それに、肉が硬いのは、僕はそれほど嫌じゃない。
でも、その硬くなった肉を咀嚼しても、焼いた肉を噛んだ時ほどの旨味を感じないのです。
これは僕の味覚が鈍感なのかもしれないけれど。
でも、ここまではまだいい。
1番問題なのは、肉の脂身だ。
これも冷やされて固まっている。
口の中に入れると、その固まった脂身の食感が気持ち悪い。
ややザラッとした固まった脂身が、口の中に入れても、すぐには解けずに暫らく口中にとどまっている。
ナンセンス。
溶けない脂身を口の中に入れたまま、モグモグと口を動かす。
動かすけれども、まだ解けずに口の中にある。
どうも、無意味な時間と行為だ。
仕方がないから、口中にあるゴマダレの旨味を先に呑み込んでしまって、味の無くなった、まだ溶けていない脂身と硬くなった赤身を、どうも納得のいかないまま、モグモグしたあとに飲み込むことになる。
悲しい。
この冷しゃぶを、ゴマダレを絡ませて、電子レンジでチンしたらダメかなという気持ちも出てくるのでありますが、それは言っちゃいけないだろう。
でも、溶けない油は、納得がいかないものであります。
脂もしくは油というものはね、口の中で溶けるから美味しいんだ。
油の旨味を感じるには、液体でなきゃいけない。
その油が、塩や酢、砂糖などの調味料と混ざり合った時に、人に感動を与える食材となるのだ。
高温に熱した中華鍋に、油をたっぷり入れて、包丁の腹で「パン。」と叩いて潰したにんにくを入れる。
食欲の湧く香りが油に移るのが堪らないのよね。
そこへ薄く切った豚肉を投入して、いっきに炒め揚げよう。
仕上げにオイスターソースや醤油などの調味料を回しかけると、「ジャン。」と如何にも元気の出る香りが鼻孔にはいる。
「さあ、たべるぞ。」
そんな勢いが好きだ。
こっちの方が、豚肉を食べるということにおいて、誰でもが好きなはずであり、美味しいと感じるはずなんだ。
夏の暑い日でも、そんな料理の方が、食欲が湧く。
だから、冷しゃぶという豚肉の調理方法は、どうも納得がいかない。
わざわざ、気の抜けた味になるように調理をして、どうするのよ。
料理というものはね、食材をさ、より美味しくする行為であるはずなんだ。
それなのに、どうして冷しゃぶなんて料理が、消えることなく残っているのか。
もっと美味しい調理方法があるのに、わざと気の抜けた調理をするのだろう。
自虐的調理方法。
なのであるのだけれど、今日もどこかの家庭で冷しゃぶが作られようとしているのだ。
みなさん、あれを美味しいと思っているのですか。
それを知りたい。
そして、僕の家庭でも、これからも何度か冷しゃぶが食卓に上るだろう。
そして、奥さんが聞くのである。
「冷しゃぶ、嫌いだったよね。」
どういうことなの。
「ねえ、マスター。冷しゃぶって意味解らへんと思えへん。ねえ、聞いてる?」
「おまたせしました。」
ブタの生姜焼きをカウンターに置いたときに、少しだけマスターが笑った気がした。
十草の柄が渕に染めつけられている素朴な浅鉢に、キャベツの千切りと豚の生姜焼きが盛られている。
タレにすりおろしたショウガが入っているのだけれど、食感に細く短冊に切ったショウガが一つまみ上に添えられていて、咀嚼するときに辛味が増してビールがすすむ。
タレを多めに掛けてくれているので、キャベツを最後に食べることを考えてくれている。
「うん。マスター美味しいよ。それに濃い味付けがいいね。」
マスターは少し頭を下げたようでもある。
この濃い味付けには白ご飯が最高に合うだろう。
でも、ここはバーである。
酒を飲むところなのである。
なので、白ご飯はメニューとしてあるのだけれど、注文すべきじゃない。
とはいうものの、今目の前に豚の生姜焼きを見ながら、白ご飯を食べたい衝動に小さな身悶えする自分がいる。
「ねえ、マスター。やっぱり豚の生姜焼きには、白ご飯も合うよね。」
なんて、言ってみたけれど、それがどうしたんだ。
白ご飯が食べたいという気持ちが増しただけだ。
それにしても、白ご飯とビールを一緒に食べたり飲んだりしてはいけないという理屈は、本来はないだろう。
食べたいものを食べたい時に、飲みたいものを飲みたい時に、好きなように飲み食べすればいい。
でも、僕の子供の頃、僕の家庭では父親が晩酌をするのだけれど、日本酒を飲みながら、おかずを食べる。
そして、お酒が終わった最後にお茶漬けでご飯を食べるというのが習慣だった。
なので、白ご飯とお酒は相容れないものだと教えられたのだ。
白ご飯はお酒を飲んでそのあとに食べるもの。
でも、僕はある時期、数か月だけれど禁酒をしたときがあった。
いつもお酒を飲んでウトウトと寝てしまったりするので、何か人生の何分の1かを損しているのじゃないかって思ったんだよね。
そして、禁酒をした。
でも、実際は何も変わらなかった。
その空いた時間は、何もしないで過ぎて行った。
でも、その時に気が付いたこと。
白ご飯でおかずを食べると最高に美味しいってことだ。
刺身だって、お酒を飲まない人が刺身を食べているのを見ると、それまでは可哀想に、なんて思ってたけれど、これが意外にも白ご飯と刺身の組み合わせが美味しいことを知った。
なら、どうしてお酒を飲むのってことになる。
とはいうものの、最初の1杯のビールは最高に美味い。
これは間違いがない。
じゃ、何故。
「ねえ、マスター。どうしてお酒を飲むんだろう。」
「それは、飲んでる自分に聞くのがいいんじゃないですか。」
「、、、それが、解らないんだなあ。」
そんなことを考えていると、白ご飯を注文する前に豚の生姜焼きを食べてしまった。
「ねえ、マスター。それにしてもさあ。みゆきさんのまゆ毛って可愛いよね。ねえ、マスター聞いてるの?」
マスターは、他の客の料理を作りながら1瞬振り返る。
前に、みゆきさんの白目は絶品だって言ったけれど、まゆ毛には気が付かなかった。
迂闊だった。
それは、みゆきさんの白目があまりにも美しいせいだったのかもしれない。
白目しか見ていなかった。
でも、目というものの近くにありながら、その白目をさらに引き立たせているものを見落としていた。
まゆ毛。
みゆきさんのまゆ毛は、ある時は凛々しく、ある時は切なく、またある時は艶っぽく。
そのステージの登場人物に合わせて、その訴える表情が変わる。
こんな美しいまゆ毛の女性を僕は今までに見たことがない。
そもそも、まゆ毛という顔面に生えている毛というものは、あえてそこに存在させなければならない理由はない。
まゆ毛は、無くて良いものだ。
しかし、人間にはまゆ毛がある。
その存在の意味を説明する人は、汗や異物が目に入らない為の器官だという。
凡は進化論を否定している。
進化論で今の人間にまで到達する過程を説明することは不可能だ。
それでも、まゆ毛じゃなくて、まつ毛なら、頷ける。
瞼の上下についている短い毛。
進化論なんて知らなくても、感覚的にホコリなどの異物が目に入らないようにしているんだなと感じられる。
しかし、まゆ毛はどうだ。
汗などの異物が入らないようにというなら、こんな一文字の線じゃなくて、額全部がまゆ毛であってもおかしくない筈だ。
その方が汗や異物を防ぐ上で、強力だ。
でも、額には毛がない。
毛が生えていないのは額だけじゃない。
顔にはほとんど毛が生えていないのです。
生物が生きていく上で、顔には毛が生えていた方が良い。
女性の1番気になる紫外線だって、毛があった方が影響は少ないし、皮膚ガンなどの病気にもなりにくい。
なので、理屈からいうと顔に毛は必要なものだ。
なのだけれど、人間の顔には毛がないのである。
薄い皮膚が剥き出しだ。
思えば神様も、けったいな仕掛けをしてくれたものだ。
何かの目的というか、何かをさせるために、わざと人間の顔を素っ裸にした。
その理由を考えるに、毛がない方が便利であるからだと思う。
何に対して便利なのか。
自分のこころや体の状態を、他人に見せるためだ。
向かい合った2人は、それぞれの相手の顔の皮膚の色や、皺のいきかたなどを見て、相手の気持ちを察するのである。
少し皮膚が赤くなったから、僕に惚れてるのじゃないだろうかとか。
「だいたいね、女性ってみんな僕を見てるんだよね。へへへ。ほら、あの子も僕を見てる。ねえ、マスター、僕見られてるよ。へへへ。どうしよう。へへへ。」
すると小さい声でマスターが言った。
「ヨダレ出てるから、これで拭いて下さい。それから、椅子をクルクル回転させて回るのは止めてください。」
シマッタ!!!
僕を見ている女性を探すのにクルクル回転ちゃったよ。
バレリーナかって、マスターもツッコミを入れてくれたら僕の失態もカバーできるのにな。
そんな小さな声で言ったら、余計に恥ずかしいじゃない。
僕は、少し落ち着いた表情で、僕を見ている女性に会釈をした。
この会釈をするための1回転は仕方がないだろう。
あ、そうだ。
まゆ毛の話だったよね。
人の顔が素っ裸なのは、人に自分のこころや体の状態を見せるためだって話だよね。
そんでもって、皮膚が赤くなったら僕に惚れてるとか言ったよね。
それとか。
青白い顔の色だから、病気なんじゃないだろうかとか。
眉間に皺がよっているから、難しいことを考えている振りをしているなとかね。
素っ裸の皮膚だけの顔は、相手に、自分の表現したい気持ちや、或いは隠したい気持ちを、意図する、しないにかかわらず、勝手に相手に伝えてしまうものである。
でも、顔に毛が生えていたら、そんな表情を見て察すると言うことはできない。
つまりは、顔に毛が生えていないという事は、人の心を察するという優しさ、そして自分のこころを見せたくないという臆病さを、人間に与えるために、神様なりの人間に対する工夫というか神様のゲームなのかもしれない。
神様も上の世界から、その人間の表情を見て笑っているのだろうか。
これを最大限に利用出来るのが男女関係であって、恋の駆け引きをするための小道具を与えてくれたのかもしれない。
そして、その小道具である顔の皮膚を最大限に駆使できる人が、みゆきさんであるともいえる。
見ている人すべからく虜にしてしまう技。
そして、まゆ毛は、その表情をさらに演出する顔の中の名脇役と言ったところか。
もちろん主役は白目である。
しかし、脇役と言っても誰でもが、というかどんな身体の器官でもなれる訳じゃない。
これは、まゆ毛じゃなきゃ務まらない大切な役なのである。
だって、鼻でこころを伝えられるかっていうと難しいだろう。
じゃ、口ならどうかというと、鼻よりは動かし易いけれど、そんなに口をパクパク動かすのも恥ずかしい。
ここはやっぱりまゆ毛じゃなきゃならないのであります。
そして、そのまゆ毛を自在に操ることができるのが、みゆきさんだ。
みゆきさんなら、まゆ毛をほんの1ミリ動かすだけで、嬉しさ、寂しさ、怒り、切なさ、どんな表情でも作ることができる。
小悪魔だ。
ただ、みゆきさんのような小悪魔なら、いつまでもいつまでも、そのイタズラに翻弄され続けてもいい。
夜会などのDVDを見ても、そこには何十何百ものまゆ毛のみゆきさんがステージに立っている。
そして、そのどれもが素敵なんだなあ。
特に僕が好きなのが、眉尻を下げたまゆ毛だ。
夜会のDVDの「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」の、って題名長すぎるやん。
そのDVDの中のさ、お祭りの衣装を着たみゆきさんのまゆ毛は最高だよ。
みゆきさんの八の字になったまゆ毛。
これは絶品中の絶品である。
普通の人が、この八の字のまゆ毛にしたらなら、「トホホ」という心の感嘆詞がつく顔になる。
それは美とはほど遠い、情けない表情だ。
それを見て感じるのは同情と哀れみと蔑みぐらいなものだ。
実に悲しい。
それがである。
それが、みゆきさんの手に掛かると、というか、みゆきさんのまゆ毛に掛かると、まったく別の表情になる。
見る者を魅了する表情。
ある時は、「しっかし、バカだね。あたしって。」って感じの、開き直った笑顔だったり、
ある時は、「なんで、こんなアホな女が生まれきたんやろ。」っていうような女性の性を受け入れたときの諦めの表情だったり、この女性を抱きしめたくなるような表情なんだ。
どんなシーンの八の字でも、すごく魅力的なんだ。
そこには、共通して「美しさ」が、その表情の底に流れている。
本来ならマイナスなイメージの八の字を、美しいという輝きに変えてしまう。
やっぱり、これは、小悪魔というより、美と愛の女神ビーナスだ。
貝殻の上に立った全裸のビーナス。
そう、みゆきビーナス。
両手で、バストと大事な部分を隠している。
でも、やだ。
みゆきさんが全裸だなんて、ウヒヒヒヒ。
「ねえ、マスター。全裸だって、全裸。ウヒヒヒ。ってさ、全裸だもんね。」
シマッタ!!!
またヨダレが出ていた。
最近は涙腺も弱くなったけど、ヨダレの線も弱くなっちゃったよね。
それにしても、僕の敬愛する岡本太郎さんも、目を意識した作品は描いているように思うけれど、まゆ毛を強調した作品は、知らない。
とはいうものの、僕は岡本太郎さんの考え方生き方が大好きな訳で、絵についてはまったくの素人なので、全部の作品を見た訳じゃないんだけどね。
岡本太郎さんは、美を追求するのに、じっとその対象を凝視して、その中にある美を探ろうとしたのじゃないかと思う。
それには、目が必要であり、目と言う体の器官に興味を持たれたのではないだろうか。
それに比べて、眉毛と言うのは、それ自体何もしない。
ただ、目の上の空間に、とぼけたように、或いは、ひょうきんに乗っかっているだけだ。
だから、岡本太郎さんも、眉毛に目を向けなかったに違いない。
惜しい。
もし、岡本太郎さんが、みゆきさんのまゆ毛の美しさに気が付いていたなら、取りつかれたように、まゆ毛の絵を描き続けていたはずだ。
そして「無意味な美」というものを発見していただろう。
或いは、「余裕の美」とも言える。
真実の美であるとか、究極の美であるとか、そんな探究をも笑い飛ばすような。
すっとぼけた、何となくというあり方の、可笑しみのある美というものもあるのだということに気づいて、歌でも歌いながら絵を描くようになっていたかもしれないと思う。
そして、みゆきさんだ。
その美しいまゆ毛は、どうにも愛おしい。
そして、思う。
みゆきさんと出会うのが、平安時代でなくて良かったということ。
もし、平安時代に、みゆきさんに出会ってたなら、まゆ毛を引っこ抜いて、その上の額のとんでもないところに楕円形の眉を墨で描いたみゆきさんと出会うことになる。
みゆきさんなら何でもいいという僕でも、会えば笑ってしまうだろう。
やっぱり、現代に出会ったからこそ、みゆきさんのまゆ毛から、無意味な美を知ることができたのである。
「おでこにまゆ毛のみゆきさんだって、想像しただけで笑っちゃうよね。ねえ、マスター、聞いてるの?」
シマッタ!!!
あまり笑いすぎたから、両手を上にあげて盆踊りのようにブラブラさせてしまった。
それにしても、僕はみゆきさんに会えるんだろうかね。
そしてデートできるんだろうか。
そうだなあ。
初めてのデートは、やっぱり近くの公園とかがいいなあ。
歩いて30分ぐらいのね。
そんでもって、みゆきさんは僕のためにお弁当を作ってくれてるわけ。
そんでもって、公演のベンチに2人座るよ。
勿論、僕とみゆきさんだ。
みゆきさんとデートしてるのに、知らないオッチャンが僕の隣に座ってたら、おかしいものね。
知らないオッサンの手作りのお弁当を公園で食べるなんて気持ち悪いだろう。
カップルの横に知らないオッサンが座っていても自然なのは、昔のゲートの無かった時の天王寺公園ぐらいだ。
まあ、みゆきさんとのデートに、オッサンが僕の隣に座るなんてことは誰も思わないと思うけどね。
心配性なものだからさ、そんな不自然な偶然も想像しちゃうんだな。
そんでもって、みゆきさんのお弁当だよ。
もう、想像しただけでヨダレを流しながら通天閣の周りをバンザイしながら走り回りそうだよ。
「レレレレーッ。」なんて意味のない言葉を叫びながらね。
きっと満面の笑みだよ。
どんなお弁当なんだろう。
小さなおにぎりに、甘い玉子焼き、厚揚げを甘く炊いたものや、ひょっとしたらフライなんて入れるのかもしれない。
いや、そんな豪華なお弁当じゃなくてもいいんだ。
みゆきさんが作ったお弁当。
よし、これからの目標は、みゆきさんの手作りのお弁当を食べること。
これにしよう。
またハードルが高くなっちゃったな。
こうなったら、もっとハードルを上げて、みゆきさんに食べさせてもらっちゃおう。
「はい、ボンゾウちゃん。あーん。」
みゆきさんが甘い玉子焼きを箸でつまんで僕の口元に持ってくる。
僕は、大きな口を開けて、「あーん。」なんてしたいのだけれど、恥ずかしい。
人に食事を食べさせてもらう時の「あーん。」ほど間抜けな顔はない。
そんな間抜けな顔をみゆきさんに向けるなんて、無理だ。
とはいうものの、みゆきさんに「あーん。」で食べさせてもらいたい。
だから、「あーん。」と言いながら、やや斜めに外側に顔を向けて口を開ける。
箸でつまんだものを、口と言う穴の開いた空間に入れると言う行為は、その穴に直角に箸を向けて入れなきゃいけない。
でも、僕の口は斜めを向いている。
だから、みゆきさんも箸を斜めに向けて、僕の口に入れようとするのだけれど、斜めにした箸は力が入らない。
つまんだ甘い玉子焼きを落としちゃうよね。
僕は口を間抜けに開けたまま、みゆきさんと落っこちた甘い玉子焼きを見つめる。
僕の目標は、たとえ妄想であっても、いつも最悪な状況になってしまう。
「うわーん。ごめーん。みゆきさん、ごめーん。」
「私は、みゆきさんじゃありません。」
シマッタ!!!
僕はカウンターに座っていた知らない女性に土下座をしてしまっていた。
おまけに弱い涙腺から涙まで流してさ。
見上げると、その女性は可愛い。
サラサラロングヘアーで白のニットのワンピース。
ウットリ。
シマッタ!!!
ウットリ見とれていたら、そのまま床に座ったままだ。
もう3分ぐらい経ってしまったのか。
女性は、僕を無視してカウンターで前を見ている。
それにしても、可愛い。
そんでもって、僕の好みである。
「儚げな女性」
僕は、華奢な人が好きである。
そして、儚げな人が好きである。
僕の人間の本能が、優秀な血筋を残そうとするのなら、違う人を好きになっても良さそうなものだと思うのです。
健康で、活発で、頭が良くて、美人で、そんな人を好きになるように遺伝子が組まれている筈なのです。
でも、儚げな人を好きになってしまう。
それは一体どういう神様の趣向なのでありましょうか。
そんでもって、世の男性や女性はどうなんでしょうかね。
儚げな女性を好きになる男性は何パーセントぐらいいるのだろうか。
僕の推理では、結構な人数がいる計算なんだけれどね。
そして、女性はどんな人が好きなのだろうか。
きっと男前とか金持ちとかなのでしょう。
でも、街ゆく人を見ていると、やっぱりそうでもないように思えてくる。
可愛い女性がゴッツイ男性を引き連れて歩いてたりするのを結構な確率で見る。
或いは、不細工な男と絶世の美女、頭のいい男性とパッパラパーの女性、世間には首を傾げたくなるようなカップルが多い。
全部ごちゃ混ぜにしちゃうと、ちょうど平均がとれて平和な社会になるのかもしれない。
それはそれで深い神様のお考えなのだろうか。
とは言うものの、華奢で儚げな女性が好きな僕でありますが、結婚という実験の相手の奥さんは、丸い。
丸いという形状は華奢と対照的な位置にある。
どうにも、僕という人間は、欲しているものが得られないのか、欲しているものと違うものを選択してしまう厄介な生き物であるようだ。
とは言うものの、丸い奥さんは大切なんだけれどもね。
先日、京阪電車で淀屋橋に向かうときに、向かいのシートに可愛い女性が座っていた。
彼女は、バッグからリポビタンDを取り出した。
女性が社内でドリンク剤。
どうも疲れてるんだね。
彼女は、飲もうとしてキャップを回すのだけれど、これが開かないのだ。
リポビタンの瓶を左手に持って、キャップを右手で持ち、お腹の位置ぐらいに持ってきて、一瞬「うん。」と力が入るのが解るのだけれど、キャップは回らない。
それで、またもう1回「うっ。」とやるが回らない。
バッグからハンカチを取り出して、キャップに巻き付け「うっ。」と気合いを入れるが回らない。
何度やってもキャップはピクリともしないので、結局はリポビタンを飲むのを諦めた。
リポビタンのキャップを回せない女性を、僕は初めて見たのでありますが、果たして普通の女性はリポビタンのキャップを回せないほど、か弱い生き物なのでありましょうか。
見守っていてあげなければ、すぐに枯れてしまう弱く儚げな純真な白い花。
それが、女性という存在なのですね。
きっとね。
それならば、何としてでも男性は助けてあげなきゃね。
そして、そんな場面で愛が縁を結ぶ。
先日の電車の女性には声をかけられなかったけれども、どこか都会の片隅にけなげに咲いている白い花があるはずだ。
そんな花に僕は愛を捧げよう。
とはいうものの、今の僕の周りには、そんな白い花は見あたらないのですけれどね。
何処を見ても太い茎でバカデカイひまわりのような花ばかりなんだけどなあ。
力強い花。
ただ、そんなパワフルな花も可愛いものでありますが。
それにしても、電車の中のリポビタンのキャップを開けられなかった女性は、普通の生活は、どんなだろう。
きっと朝は低血圧で起きれないと思うよ。
だって儚げなんだもの。
美人で儚げは、大体において低血圧なものだ。
ちなみに、奥さんは高血圧だ。
朝食はというと、朝は、食欲はないんだけれど、
健康のために無理をして食べる。
きっと和食だな。
ご飯にお味噌汁、それに玉子焼きとおしたしぐらいで簡単にすませる。
ちなみに、奥さんは痩せるために寒天を食っている。
そして、その後お菓子を食べる。寒天の意味あるのかと思う。
そして、仕事だ。
白いワンピースが、殺風景な仕事場に優しい花を咲かす。
少し開いた窓から、爽やかな朝の風が迷い込んで、儚げな美人のロングヘアーを揺らすよ。
儚げな美人はね、きっといい匂いがするんだ。
初恋の香り。
まあ、それはどんな香りなのかは解らないけれどもさ、ベビーローズのようなね、そんなフェアリーな香りなんだ。
儚げで美人だから、みんなに助けられてね。
それでも、真面目にきちんと自分の仕事をこなすんだ。
けなげだね。
応援したくなるよ。
そして、仕事が終わる。
仕事仲間から誘われるけれど、断る方が多いかな。
人見知りではないけれど、お酒を飲んで騒ぐのは苦手なんだ。
でも、時々、今の自分を変えたくなって、「ひと足の途絶えだした公園通り、メッキだらけのけばい茶店」に入ってみたりするわけ。
本人にとっては、すごい冒険なんだ。
たったそれだけのことが、自分を変えるきっかけになるかもしれないと信じて。
そんでもって、家に帰ると疲れているんだけれど、両親の手伝いなんかしてしまうんだなあ。
少しでも親に楽をさせてあげたいからね。
そんな1日の終わり。
自分の部屋に戻って、やっと素顔の自分にもどれるんだな。
机の上を見ると、何日もキャップを開けることが出来ないでいるリポビタンDが5、6本置いてある。
そして、ため息をつきながら思わずもらしちゃう。
「ああ、どうして、あたしは何も出来ないのかな。」なんてさ。
僕から見ると、そんな風に自分が思うほど、何も出来なくはないんだけどさ。
こんな自分にしか生まれてくることのできなかった自分自身の性を悲しむことはあっても、両親にはいつも感謝しているんだな。
美人はさ、子供の頃からチヤホヤされてるから、一体にこころが優しいんだね。
人から優しくされる分、人にも優しくしたいんだね。
素敵だね。
なんて想像しているけれども、僕はいまだかつて儚げな美人と、恋に落ちるなんてことは勿論、話もしたことがない。
こんど、京阪電車でリポビタンDのキャップを開けられない女の子にあったなら、助けてあげなきゃね。
「あのお嬢さん、リポビタンのキャップ、開けましょうか。」ってね。
「ありがとう、兄ちゃん。昨日な腹立つ男おったから、思い切りグーで殴ったったら、指の骨折れてんねん。助かるわ。」
なんて、現実の女性は強い生き物であるのかもしれない。
シマッタ!!!
立ち上がるのを忘れて、妄想しちゃってたよ。
それにしても、僕の妄想ってヒドイのかな。
これはどうするべきか。
何もなかったように、立つべきか。
それとも、何か床に座っていた理由を言いながら立つべきか。
「いやあ。ごめんね。実は、僕はさ、俳優でね。今度の舞台の役に入りこんじゃっててさ、つい演技の練習をしちゃったよ。驚かせて、ごめんね。」
なんて理由はどうだ。
いや、マスターがいるから、こんな嘘をついちゃったら、もうお店に来られない。
仕方なく、そのまま無言で立ち上がった。
カウンターに座り直して、横の女性を見る。
僕に気が付いたのか、女性と目があった。
「あじゃーれ、あじゃーれ、はっぱふみふみ。」
どうしたんだ、この女性は。
ビックリしていると、彼女が言った。
「あ、ごめんなさい。私、よく妄想しちゃうんです。今も宇宙人と話をしている妄想しちゃってたの。」
妄想のひどい女性って怖い。
それに宇宙人ってさ。
「はっぱふみふみ」って大橋巨泉じゃあるまいし。
こういう女性は危険だ。
無視をすることにしよう。
それが賢明だ。
「あ、マスター。タンカレーのソーダ割りください。ライムも絞って。」
すると彼女が言った。
「あ、中島みゆきさんのファンですか。」
いや、僕は今ね、君を無視しているんだ。
だから、どうか話しかけないでくれ。
そう神様にお願いしたが、続けて話しかけてくる。
「タンカレーを注文する人の99パーセントは、みゆきさんのファンですよ。」
今は普通の会話だから、答えるべきか。
でも、怖い。
妄想癖の女。
「まあ、そんなところです。」
「私ね、初めてタンカレーって聞いた時は、牛のタンのカレーだと思ってたんです。ふふ。アホでしょ。」
妄想癖のある怖い女性に話しかけられて、内心ドキドキである。
シマッタ!!!
僕は今、内心ドキドキしている。
これはマズイ。
非常に、マズイ。
人間は、体の状態とこころの状態が、密接に関係してると言う。
脈拍が早い時や、興奮している時に出会った人は、それが相手に抱いている感情と脳が勘違いして、その相手を好きだって思うようになるということを心理学の本で読んだ記憶がある。
つまりは、今、妄想癖の女に話しかけられてドキドキしているこのドキドキが、この女性が好きだという感情と僕の脳は勘違いして、この妄想癖の女を好きだったと思ってしまう可能性があるのだ。
というか、もう既に可愛いなと思って見ている。
えっ、そうなん。
しかしこれは、シマッタということだ。
ただ、この妄想癖の女は、僕の好みの儚げな女性っぽいので、これはこれでいい。
それよりも、これからが危険なのである。
まだ僕は、ドキドキしているからだ。
もし、僕が家への帰り道に、誰かに会おうものなら、その人を好きだと勘違いしてしまうのだ。
これは、危険である。
ただ、これも可愛い女の子だったら、それは素敵な出会いとなるかもしれない。
でも、例えば野良犬なんかに出会ったら、どうなりますか。
僕は野良犬を好きになってしまうかもしれないのだ。
しかも、その野良犬も何かの拍子でドキドキしているときに僕に出会ったら、どうなりますか。
野良犬も僕を好きになってしまう。
相思相愛。
大阪のビジネス街で、野良犬と相思相愛。
そして、同棲。
僕は野良犬に、ジャスミンなんて名前を付けてしまうだろう。
「ジャスミンちゃん。可愛いね。」
なんて背中をなでなでしちゃう。
ジャスミンちゃんも、僕が好きだからさ、僕を甘噛みしたりするわけ。
気が付いたら、本気で噛んでしまって僕は青あざだらけになりますわな。
「ジャスミンちゃん。」
「ワン。」
「ジャスミンちゃん。」
「ワン。」
「ジャスミンちゃん。」
「ワン。」
精神がどうにかなりそうだ。
そんな生活は、やっぱり無理だろう。
今日は、野良犬に出会わないことを祈って自宅まで帰えろう。
「ねえ、大丈夫?」
心配そうに、彼女が僕を覗き込む。
「心配してたのよ。また妄想してるんじゃないかなって。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」
だから「はっぱふみふみ」は大橋巨泉さんだって。
それに、僕の心配をしながら、自分も妄想しているなんて、これはかなり高度な妄想だ。
半分現実、半分妄想。
素人ではできない妄想である。
それに、始めは「あじゃーれ、あじゃーれ」だったのに、今度は「だじゃーれ、だじゃーれ」と来たよ。
彼女の中では、違う意味なんだろうね。
それにしても、やっぱりちょっと怖いよ。
見た目はすごく可愛いのに、妄想がひどいって、僕はどうしたらいいのよ。
すると、彼女が言った。
「あたしもね、みゆきさんが好きなの。」
これは困った。
僕に話を合わせて来たよ。
これじゃ、話が長くなっちゃうよ。
どうしたらいいの。
「あたしね。みゆきさんのメイクってすごいなって思うの。だって、夜会でもさ、メイクで色んな人になって、演じてるんだもの。」
うん、それは中々のところをついているね。
僕は、みゆきさんは素顔が1番可愛いと思う。
DVDでも、メイキングの映像を見るのが好きだ。
素顔のみゆきさんが映っているから。
そこが普通の芸能人と違うところだね。
みゆきさんは素顔が1番可愛い。
これは間違いがない。
そして、ステージや写真のみゆきさんもまた、可愛い。
これはどういうことか分るだろうか。
みゆきさんの写真を、何枚でもいい、机に並べて見て欲しい。
その写真のどれをとっても、その他のみゆきさんの写真と違う表情を表現している。
ある写真は、アイドルのようだ。
そして、ある写真は、色っぽい。
そして、ある写真は、清楚だ。
どの写真をとっても、違うみゆきさんであって、そしてどの写真をとっても美しい。
これはどういうことか解るだろうか。
つまりは、素顔が美しいから、どんなメイクをしたって美しいという事なんだ。
さらに素顔が美しいという事は、どういうことかというと、素顔の基礎である骨格が美しいという事だ。
詰まりはね、みゆきさんの頭蓋骨が美しいという事なんだ。
こんな完璧な頭蓋骨の女性はまず世界中を探したっていやしない。
頭蓋骨というのは、脳頭蓋、顔面頭蓋、耳小骨、ウォーム骨からなる頭の骨だ。
このそれぞれの形もバランスも完璧なのがみゆきさんということだ。
あ、そうだ、素人はね、頭蓋骨と漢字で書かれてあったら、ズガイコツなんて読んじゃうんだろうな。
でも、僕は専門家だからね、頭蓋骨のね。
だから、頭蓋骨と書いてトウガイコツって読むんだね。
うん、ちょっと僕は素人じゃないんだよね。
それでさ、頭蓋骨が完璧だから、素顔も美しくて、さらにメイクをした顔も美しいのである。
すべての美の要素が、みゆきさんの頭蓋骨に集約されている。
僕の尊敬する岡本太郎さんは、白目の持つ美しさには気が付いていたのかもしれないけれども、頭蓋骨の美しさには気が付いていなかったのではないだろうか。
もし岡本太郎さんが、みゆきさんに出あっていたならば、岡本太郎さんの作品は頭蓋骨だらけになっている筈である。
太陽の塔だって、金の顔じゃなくて、頭蓋骨の塔になっていたに違いない。
夏目漱石や立派な事を成し遂げた人の脳みそは、東大だか、どこかの大学に今でも保存されているという。
そんなことをするぐらいなら、みゆきさんの頭蓋骨は、国立美術館にでも展示されるべきだ。
そして、これからの美を追求する人は皆、このみゆきさんの頭蓋骨を見て、本当の美しさを知るべきなのである。
小学生には、修学旅行で、みゆきさんの頭蓋骨を見ることを文部省は推奨すべきである。
そうすれば授業で美術なんてやらなくていい。
美と言うものを知ることが、美術の授業の目的なのだから、みゆきさんの頭蓋骨だけで、その目的が達成されるだろう。
何と愛おしいのだろう、みゆきさんの頭蓋骨は。
出来ることなら、その欠片をいつもポケットに入れておきたい。
とはいうものの、1部が掛けてしまっては、台無しになるだろうから、それは諦めることにしよう。
というか、みゆきさんには、いつまでも生き続けてほしいものね。
先日も、僕は梅田の交差点に立っていた。
交差点には若い女性も行き来する。
そして美人も多い。
そして美人を探す。
もう、綺麗な人が多すぎて困っちゃうよ。エヘヘヘヘ。
そして、歩いている人のその頭部を凝視する。
じっと見つめていると、その女性の頭蓋骨の大体の形が想像できるのだ。
ピンヒールのハイヒールにミニスカート、サラサラロングヘアーの少し目の離れた女の子が歩いて来る。
かなり可愛い。
やや唇からはみ出して引かれたルージュは、僕の好みである。
しかしだ。
その女の子の頭部を凝視することによって想像される頭蓋骨はと言うと、月並みなのである。
つまりは、月並みな可愛い女の子。
どういうことかというと、この女の子は可愛い。
そして僕好みだ。
まあ、それはいい。
でも、その可愛い顔は、これ以上に他の表現が出来ない顔なのだ。
つまり、美人の1つのパターンしか表現できない頭蓋骨なのである。
いくらメイクを変えたとしても、今の可愛い状態の延長線上の美人にしかなりえない。
ここがみゆきさんと違うところである。
みゆきさんは、完璧な頭蓋骨を持っているだけに、どんな美人にも変化できるのだ。
メイクだけで1000パターンでも、1万パターンでも、いろんな美人を表現できる。
とはいうものの、ここは梅田の交差点だ。
あまり女の子ばかり凝視していると、変なおじさんと思われてしまう。
僕は30分ほど女の子を探しただけで、帰ることにした。
シマッタ!!!
また妄想している間に、自分で自分の頭蓋骨を触りまくっていたよ。
すると彼女が言った。
「頭蓋骨がどうかしましたか。だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」
びっくりした。
まだ、半分妄想しているよ、彼女。
それに、今回は前回と同じ「だじゃーれ」だよ。
それよりも、トウガイコツって言ったよ。
ズガイコツじゃなくて。
何者なの彼女は。
素人じゃないよ、怖いよ。
どうも、彼女が近くにいるせいか、居心地が悪い。
それに、中島みゆきファンの女性って、どうも厄介なものだね。
何か、今日は酔えない雰囲気だ。
こんな夜は早く帰ることにしよう。
店を出る前に、ドアの所で振り返ると、彼女はカウンターを満面の笑みで「バンバンバン」と叩いていた。
どうも、厄介な人である。
帰り道、門真市から自宅に歩いていると、家の近くの空き地に花が咲いていた。
その花は、夜の十一時近くの、暗い細道の排水溝に沿って、空港の滑走路の誘導灯のように、光っているようだった。
その明るい黄色に、驚いたぐらいだ。
「ねえ、君。もう夜なんだよ。どうしてそんなに一所懸命に咲いてるの?」
訊いてはみたが、答えるはずはない。
ただ、そこに咲いていることが、愛おしかった。
でも、花は蝶や蜂などの昆虫が蜜を吸いにきて、受粉するんだよね。
こんな夜中に飛んでいる蝶や蜂を、いまだこの細道で見たことが無い。
昼間に咲きゃ、もっと蝶や蜂にも気が付かれようものを。
どうしたの?ねえ。
今までも、たぶん昨日も、たぶん一昨日も咲いていたんだろう。
でも、そんな花は目に入らなかったな。
それでも、可愛く咲いている花が、何故か愛おしくて、通り過ぎてから、振り返ってみる。
やっぱり、ただ咲いていた。
夜咲いているという、夜咲かなきゃいけなかった花に生まれてきたという、その花の性が切なくて、花なんか普段鑑賞しない僕でさえ、自宅に帰ってからもね、今まだ咲いてるのかな、なんて思い出してしまう。
そんなことがあって、次の日の出勤の時、駅までの路傍を見ながら歩いていると、普段気が付かなかったのだけれど、いろんな花が咲いていることに気が付いた。
田舎ならまだしもね、こんなアスファルトばかりの道にも花が咲いている。
そう思うと、駅までの道が急に愉快になった。
そういえば、何年か前に、路傍の雑草に水をやっているオバサンがいたな。
僕が駅に向かって歩いていると、オバサンが家の前にある雑草にジョウロで水をやっていたんだ。
その時は、ビックリしたよ。
なんでそんなことしてるのかなって。
でも、彼女もまた、路傍の花が美しいなと気が付いた1人なのかもしれないね。
その雑草も、年に1回花を咲かせるのかも。
いや、花を咲かせなくても、葉の緑だけでも美しいということに気が付いたのかもしれないね。
そんなことを思い出しながら、そしてちょっと得をした気分で、京阪電車に乗った。
長いシートに座っている女の子が、人目を気にせず化粧をしている。
人工の粉を塗ったり、人工の睫毛を張り付けたりね。
こっちの花も大変だ。
路傍で可憐に咲く花と、人工のもので男を引き寄せようとする花。
どうなんだろうね。
、、、、、いや、実際のところ、人工に作られた美人の花もまた、やっぱりいいのでありますが、こっちの花には縁がない。
最後の香水の1噴きで、ノックアウト。
どうも、僕はどんな花にも弱いようであります。
きっと、彼女も、たつきを立てるために、頑張っているんだろうな。
他人には分らないけれどもね。
電車が淀屋橋に着いてドアが開いたら、美人の花は僕などには一瞥もせずに、7センチのヒールをコツコツ言わせながら改札口に向かって行った。
学生時代に先生が、その国の文化の成熟度は、ボキャブラリーの数に比例するというような意味の事を言った。
例えば、色でも花でも、抽象的なことでもね、それを表す言葉が多いほど、文化的に成熟しているというのだ。
僕が路傍で見つけた、雑草と呼ばれている花も、実際には名前が付けられているんだろうね。
そして、それを知ればよりその花を見る時の気持ちも豊かになるだろう。
とはいうものの、その花にしてみれば、わざわざ人に名前なんか付けてもらわなくてもいいやという事かもしれない。
日本語が喋れたら、きっとこういうね。
「花なんて、咲いてりゃいいんだよ。」ってね。
昨日の夜は、布団に入ったけれども、なかなか寝付けなかった。
そして、頭の中で、「だじゃーれ、だじゃーれ、はっぱふみふみ。」が、回り続けていた。
そして、「はっぱふみふみは、大橋巨泉さんやちゅうのに。」というツッコミもまた、何度も何度も回り続けたのでありました。
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