アイラブユー、ほたえてくれ!みゆきさーん。

平 凡蔵。

第1話 ラブレター1

アスファルトの照り返しも和らいだ夜の本町の歩道を、ゆっくりと歩く。

街路樹の葉のこすれあう音に耳を傾けると、秋の風が、こっちの木から、あっちの木へと、そこいらじゅうを、くるくると回っていた。


今、通り過ぎた定食屋の野菜炒めのコッテリとした油の匂いが、僕の背中についてくる。

よほど悪い油を使っているな、なんて批判めいたことを呟いてみたが、中華料理屋なんて、少し悪い油を使っている店の方が、流行っていたりする。


狭い歩道を猛スピードでやってきて、僕の横を走り過ぎた瞬間、自転車のブレーキの音が、背中で聞こえた。

自転車のブレーキのゴムと車輪のステンレスの摩擦が、遠藤賢司さんの吹くハーモニカの音と錯覚してしまう。

不協和音だが、何故か心地良い。


僕は、夜中の本町あたりを歩くのが好きだった。


本町というのは、東京で言うとどのあたりに似ているのかは知らないけれど、大阪の古くからのビジネス街である。


日曜日の夜ともなると、1人で歩くのは怖いぐらいひっそりとしている。

しかし、そんな夜中の本町にもやっている店はあるもので、僕は仕事の帰りに、備後町のその店に寄ることが自宅に帰る前の息抜きになっていた。


家には奥さんが晩ご飯を作って待っていてくれているのだけれど、週に2回ぐらいの寄り道は、奥さんとのコミュニケーションにも役立っているようで、少しばかりのアルコールは僕をして陽気たらしめるのでありまして、家庭にも円満な状況が発生する確率が上がるということのようであります。


それに、酔っ払うとすぐに寝てしまうので、奥さんも自由な時間ができて都合がいいらしい。


ただ、奥さんに言わせると突然に寄るよりは、前もって予告をしてから寄って欲しいと言うのだ。

なんでも結婚生活において、夕食の支度をしないで済むということぐらい嬉しいことはないんだそうで、朝に僕が玄関を出る時に「ひょっとしたら今日あたりに、帰りに寄り道するかもしれないよ。」なんて予告をしたなら、「やったー。絶対に寄って来てよ。」とくるのが大抵であります。


まあ、それで奥さんにとっても息抜きができるのなら、僕にとっても都合がいいというものではある。


10月ともなると、日の落ちるのも早くなって、お店に向かう道の暗さが心に優しく浸み込んでくる。


僕は、夜の音が子供のころから好きだった。


幼稚園の頃だか、小学生の頃だか覚えてないけれど、僕は中々寝付けない子供だったんだ。

夜の8時には親に寝るように布団に入ることを促されるんだけれど、まったく寝れない。

なので布団に入って、右に向いたり左に向いたりするんだけれど、それでも眠れなくて、仕方なく「クタリ」と力を抜いたら、色んな音が聞こえてくるようになる。


遠くに走る車のエンジンの音、さらに遠くの電車のレールの音、秋の虫の声、柱の時計の秒針の音、仕舞い忘れた隣の家の風鈴の音、近所の犬の鳴き声、近くを歩く酔っ払いの声、そんな音が何とも優しく、僕をその音のする場所へと空間をすり抜けて連れて行ってくれる。


誰かが、こんな夜中にも、仕事なのか、遊びなのか、兎に角、何かを起きていてやっているのである。

夜は静まり返っているのだけれど、どこかの暗闇で何かが動いている。

人がいるのである。

夜の暗さは、そんな郷愁にも似た懐かしさや、安心感を僕に与えてくれる。


そして、今日も僕は寄り道をしようとしていた。


バーと言えば高級そうなのであるけれど、見た目は喫茶店を改装したような作りで、カウンターとテーブル席は濃い色の木目調に仕上げているので、落ち着ける雰囲気はある。

本町にあるバー「アルカディア」だ。


今日も、カウンターの1番奥の席に座る。

僕は、絶対に他の客が来ないと解っている時は真ん中あたりに座るのだけれど、そうじゃない場合は、端っこに座る。

ずっと座っていられるからね。


電車の長いシートでもそうだ。

僕は1番端に座る。

これは誰でもそうだろう。


じゃ、1番端に誰か座っていたなら、どこに座るか。

見ていると、大概の人は端っこに座った人から、目測で1人分のスペースを空けて座る人が多い。

でも、僕は端っこから2番目に座る。

何故なら、端っこから2番目なら、次の駅に着いた時に座る位置をちょっとずらすだけで、後はそのままの位置で座っていられるからだ。

もし、スペースを空けたなら、駅に着く度に両側に座る人によって、位置を微調整し続けなきゃいけないからだ。

それは、微妙に面倒くさい。


それで思い出したのが、今日の朝の通勤電車での話だ。

僕はカウンターに座ってマスターに話しかけるともなしに話し出した。

こういう場合、大概は聞いていない素振りをするのだけれど、「ねえ、マスター聞いてるの?」と問いかけると、内容は聞いているようなのであります。

僕を一瞥して、また後ろを向いた。


それで、今日の朝の通勤電車だ。

長い座席の端っこにサラサラロングヘアーの20歳台の女の子が座っていた。

僕は、その横に座る。

眼鏡を掛けたその女性は、図書館で借りた分厚い本を閉じたまま膝の上に置いている。

「何を読んでいるのかな。」などと推測しながら、本の表紙は見ずに、少しだけ、ほんの少しだけ顔を女性に向ける。

顔はそのままに目だけを最大限横に向ける。

可愛い。

女性と言うよりは少女と言ってもいいぐらいに見た目が若い。


するとどうだ、とてもいい香りが漂ってきたのであります。

僕は香水の事は解らないけれど、すごくいい香りである。

グレープフルーツのような柑橘系がベースになっているようだけれど、そこにローズの香りや紅茶のアールグレイの香り、甘い南国の果実のような香り、そんな香りがミックスされていて、どうにも爽やかで色っぽい風が僕の鼻をかすめる。


とはいうものの、その香りは、若い女性の香りではあるものの、これは香水なのであって、その若い女性の香りそのものではないぐらい解る。

とはいうものの、間違いなくその女性の皮膚に塗られた香水が、女性の体温によって、その女性の皮膚から蒸発している彼女自身の匂いと混ざって発せられているものである。

まったく関係のない女性ではあるのだけれど、その彼女を少しばかり独占したい気分になるのは僕だけだろうか。

盗撮をしているような、彼女の1部を盗んでいるという後ろめたさと罪悪感。

勿論、盗撮なんてしたことはないのだけれど。

盗撮じゃなく、盗嗅か。

密かに、女性の香を嗅ぐ。

そんな不埒なことを考えながら2駅ほどウットリとしていた。

今日はラッキーな朝やなあ。

なんてことを考えていた。


なのであるが、少し変なのである。

たしかにウットリとするいい香りだ。

女性のセンスもいい。

でも、よく鼻の穴の、そのまた奥の匂いを分析するとあることに気が付いた。

この香りは、この香りの発生源は隣に座っているサラサラロングヘアーじゃない。

僕のまわりにまとわりつくように漂っている香り。


じゃ、誰なの。

その香りを、目を瞑りながら追っていくと、僕からすると女性の反対側に座っている人から発しているのである。

ゆっくりと、少しばかり顔を女性の反対側の人に向ける。

「そんなアホな。それはアカンやろ。」

そう呟いた。


隣にいたのは大学生ぐらいの年の男性だった。

やや小太りの男性は汗で、光っている首筋に香水を塗っていたのだ。

つまりは、僕は小太りの男性の香りに2駅もウットリとさせられていたのである。

何という誤算。

そして、無意味なウットリであったことか。

それにしても最近は男性も女性も付けられるユニセックスの香水も増えている。

これからは気をつけなければならない課題でだろう。


そんな話を僕は1人語りのようにカウンターに座って話している。

「ねえ、マスター聞いているの?」

そういうと、無表情でほんの数センチだけ首を縦に振った。


僕は1杯目に注文したビールを半分ほど流し込む。

「それにしても、中島みゆきさんは可愛いよね。」

マスターに向かって話はするけれども、聞いているのだろうか。

僕が中島みゆきさんを好きになったのは、2年前である。

それまでは、みゆきさんを知ってはいたものの、歌の1曲さえ終わりまで聞いたことがなかった。

そんな僕が、ある日突然に、こころを奪われてしまったのである。

それは、2年前の夏の事だ。

「ねえ、マスター聞いてる?」

マスターは相変わらず無表情である。


ある日、僕はみゆきさんの歌っている姿をユーチューブで見ることがあった。

そして、その瞬間である。

体中の血の成分に恋した時に出るホルモンが200パーセントの濃度で放出された。

「好きだ。どうしようもなく好きだ。」

そう思った。


それは歌が好きになったというのではない。

みゆきさんが好きになったのである。

みゆきさんという存在そのものに、心奪われたのである。

あるいは見た目なのだろう。

そして思った。

「中島みゆきさんって、こんなにも可愛かったんだ。」


本当にそれまでは、興味がなかったんだよね。

どちらかというと、野暮ったいイメージだった。


でも、中島みゆきさんって可愛い、そう思ってから、他のビデオなどを見るたびに好きになっていった。

中でも僕の気持ちを決定づけたのは、夜会「シャングリラ」の冒頭の「怜子」だ。

黒のノースリーブのミニのワンピース。

ステージの中央に置かれた椅子に足を組んで歌う、その足がセクシーなのであります。


「え、そこなん。」

なんて、大阪に住んでいるみゆきさんのファンがいたらツッコミがありそうだけれど、好きになるポイントなんてそんなものだ。

キムタクのファンだって、そうだろう。

あの映画のこの部分の演技が上手かったから、ファンになったんです。

なんて人は、いないに違いない。

たぶん、「きゃー、カッコイイ。」という具合に、パッと見でファンになったのだろう。

僕の場合も、「こんな可愛い女の人っているんだ。」という偶然のパッと見で、素直に思った訳でありまして、その他の理由はない。


それにしても、あのシャングリラの怜子は、どうしょうもないぐらい素敵だ。

何が良かったかって、セクシーな足や二の腕もそうだけど、歌っているときの目なんだよね。

その目の中でも、白目の部分である。


色んな角度からのカメラワークに合わせて、みゆきさんも視線を変える。

そのカメラがみゆきさんの白目を捕らえた。

もう、だめだ。


白目でセクシーさを表現できる歌手は、今までいただろうか。

みゆきさんの白目は、このシャングリラの怜子のときだけじゃない。

白目に注目をすると、どのシーンも白目が活きているんだ。

これが計算された白目であったなら、これはそうとうな男垂らしなのかもしれない。

それは、嫌だ。


「嫌だ、嫌だ、イヤ、イヤ、イヤーン。」

ワイシャツの胸の乳首のあたりを両手の指で摘まみ上げて、上半身を左右に振る。

こんなギャグで笑ってくれるのは、50才以上の中年だけだろけれど、やってしまう。


それにしても、こんなお店で、「イヤーン。」は、恥ずかしかったな。

「ク、ク、ク。マスター、今の僕のギャグはちょっと恥ずかしかったよね。ねえ、マスター聞いてるの?」

どうして、こんなにもマスターは無口なんだ。


そんでもって、みゆきさんの夜会「シャングリラ」のシーンである。

僕はこの時、初めて白目の存在意義に気がついた。

そう、白目なのであります!

みゆきさんの白目は、絶品だ。


それにしても、神様は憎らしい演出をしてくれるものである。

人間という生き物に白目をお作りになられた。

そもそも白目なんて、人間が生きるということにおいて、必要のないものである。

僕も今まで、白目について考えることもなかった。

それでも、よく考えてみると、生理的に言っても、見るという目の器官に必要なものは、黒目だけでいい。

白目がなくても、全然大丈夫なのだ。


さらに言えば、黒目も必要がない。

水晶体と網膜さえあれば、物を見ることが出来る。

それなのに、それなのに、ああ、それなのに、白目は存在する。

不思議である。

人は進化をするときに白目を必要としていたということだろうか。


そして、この黒目と白目というコントラストであることが、また目という器官を魅力的に見せる。

「黒と白。」

これは、あたかも陰と陽を暗示しているようだとは思わないかい。

完全なる組み合わせ。

そして、完全なるバランス。

そして、完全なる美。

それが、目という器官の持っている潜在的な姿である。


そして、みゆきさんの白目だ。

ああ、みゆきさんの白目をずっと見ていたい。

とはいうものの、みゆきさんの白目を見ると言うことは、みゆきさんは、僕以外の別の人を見てるということになるのでありまして、それはひどく寂しいものでありますから、黒目も、見せてくれー。

そして、僕を見つめてくれー。

と、叫びたくなる。


シマッタ!!!

今僕は、感極まって、あるいは叫んでしまったのではないだろうか。

「ねえ、マスター。僕、今、何か言いましたっけ。今僕、何か叫んじゃった?ねえ、マスター、聞いてるの?」

ただ、頷くだけなんだね。「そうだ、マスター。ビールもう1杯とピーナッチョください。」


シマッタ!!!

ピーナッチョって言っちゃったよ。

勿論、僕だって普段はピーナッツって言ってるんだよ。

でも、時々ピーナッチョがでちゃうんだよね。

それがさあ、昔付き合ってた女の子と喋る時にさ、何故か語尾にチョとか、チュなんて言葉をくっ付けて遊んでたんだよね。

赤ちゃん言葉なんか使っちゃっててさ、ククク、イヤダー、バカーなんてさ。


シマッタ!!!

知らないあいだに昔を思い出して、カウンターをバンバン手で叩いてしまったよ。

誰も見てないふりをしてくれてるけれど、これじゃ周りの人にイタイ人だって思われてるよ。

ここは、ちょっと挽回しなくちゃいけないだろう。


左手で髪を掻き上げて、ペンを取り出し、コースターに何やら、アルファベットを書いてみる。

このアルファベットに意味は無い。

ただ、人はアルファベットを見ると、インテリと勘違いする人が多いのだ。

うん。

これでさっきのテーブルをバンバン叩いたのは、少なくとも帳消しになったはずだ。

ただ、コースターに書いたアルファベットが、HANAKUSOというローマ字だったことが、失敗である。

何となく鼻の穴がムズムズするので、そう書いてしまったのか。

ローマ字とは小学生でもあるまいし、それに鼻くそとは見られたくないよ。

「あ、マスター、コースター見てた?え?何を見たって?いや、見てなかったらそれでいいんだ。いや、本当にいいんだよ。」


それにしても、ローマ字ってどうなのだろうと思う。

僕は、いまだにローマ字のぬかるみから抜け出せていない。

先日の休みの日に、百貨店に行った時のことだ。

「と、と、と、、、。」

「と、と、と、とり、とり、、、。」

「と、と、と、トリウム???」

エスカレーターの横に貼られた広告のポスターのブランドの名前が読めない。

「これ何て読むんやろ。」奥さんに尋ねた。

「トリンプやん。」

これでトリンプと読むとは、ビックリだ。

「ねえ、マスター。トリンプって知ってる?」

あれ、また無視なのか。

でも聞いていたのか後ろを向いたまま、首を縦に振った。


勿論、トリンプというブランドは聞いたことはあるが、それほど興味もなかったのだろう。

女性下着のブランドだもの。

どんな綴りかなんて考えたことがなかった。

「Triumph」

どう読んでもトリンプとは読めない。

勿論、どこかの国の言葉だろうから、ローマ字読みをしても、正解の発音にならないのは解るのだけれど、余りにも違いすぎるじゃない。


これは、誰でも感じていることだと思うだろうけど、子供のころから英語をもっと勉強していれば良かった。

高校や大学時代でも、やっぱりその必要性を感じて、いろんな英会話の本やテープなどを買って挑戦したけれども、いつもギブアップして終わってしまった。

英語が話せれば、カッコいいんだけどなあ。


「ヘイ、レイディー。」

なんて、サラサラロングヘアーのアメリカの女の子に声を掛けられたかもしれない。

アメリカの娘は発展家が多いからね、すぐに「アイラブユー。」なんてことになってさ。

「おお、ジャスミン。アイラブユー。」ってね。

そんでもって、ジャスミンも「おお、アイライブユー・ツー。」なんてことになる。

ククク。

もう、あれだよ。

「ジャスミン。チュー。」

「ボンゾウ。チュー。」

ボンゾウとは、僕の名前だ。


「ジャスミン。チュー。」

「ボンゾウ。チュー。」

なんてさ。


「チュー。」

「チュー。」

ってさ。


「ねっ。そうだよね。マスター。ねえ、マスター、チュー。」

いや、マスターにチューは気持ち悪い。

それにしても、僕のチューに無視とは、これ如何にだよ。


そんでもってさ。

英語が出来ないという、その元凶は小学生のローマ字教育にあるんじゃないだろうか。

そう最近は思うんだよね。


日本語の音韻をアルファベットに置き換えるという作業を一所懸命に練習したお蔭で、アルファベットを日本語の音韻で読む癖が付いてしまったようだ。

小学生の時に、今もあるのか知らないのだけれど、4本の線が入っていて、下から2本目が赤い線のアルファベットの練習用のノートがあった。

僕はその線に、削りたての鉛筆で、きっちりとアルファベットを書くという作業が好きだった。

白い蛍光灯の下で、お尻のところをかじった鉛筆の木の香りに、まだ知らない外国の文化を感じながら、線からはみ出さないように、大文字と小文字の練習をしていた。

小学生にとって、アルファベットを書くということは、すごく大人になった気持ちがしたものだ。


その後、中学生になってから、英語を勉強するようになったのだけれど、もうその時にはアルファベットを日本語の音韻で読む癖に洗脳されていた。


これからの国際時代を乗り切るためには、ローマ字は一番後に教えてもいいんじゃないだろうか。

小学生の1年生ぐらいで英語を教えればいい。

もう、直接、英語から入るべきなんだ。

ローマ字は高校生になってから、やればいい。

小学生に教えちゃ駄目だ。

文部省の偉いさんは、この僕を見てほしい。

今でも、ルイヴィトンというアルファベットを見ると、心のなかで「ルイスビトン」と言っている自分がいるんだ。

勿論、ルイヴィトンであることは、いくら僕でも知っている。

でも、あのアルファベットを見たら、ルイスになっちゃう。


エルメスもそうだ。

ココロの中で一度、「ヘルメス」と言ってから、それをまた、頭の中でエルメスに変換して、然る後に、エルメスと発音しているんだよね。

疲れる。

アルファベットのブランド名が氾濫している現在、この作業を頭の中で繰り返すのは、疲れる。

こんな被害者を出さないためにも、小学生の1年生から英語教育をと叫びたい。

ローマ字はいらない。


「ねえ、マスター。そう思わない?ねえ、マスター聞いてるの?」

「そのトリンプっていう呼び方は、日本だけですよ。英語では『トライアンフ』って発音するらしいですよ。」

「あらまあ。何でマスターそんなこと知ってるの。あ、ひょっとして仕事が終わったら女装が趣味だったりして。あ、怒ってるの?ねえ、マスター。」

やっと喋ったと思ったら女性の下着の話だものね。

びっくりだわ。

マスターは、また後ろを向いて、首を横に振った。

「いっそのこと、日本語では、「トリウムプ」と言うことにしたらいいのにね。」

また、無視。


「はい、ピーナッチョとビールッチョです。」

とマスターが、テーブルに、コトリと静かな音で置いた。


それはないだろう。

ピーナッチョは、ツとチョで似てるじゃない。

ビールのルとチョは似合わないだろう。

それにしても、普段は無口なのに、こういう時だけ、そんなことを言うんだね。

それも無表情でよく言えたものだ。

というか、僕が言ったピーナッチョっていう話も、ちゃんと聞いていたんだね。


そういえばさ。

このバターピーナッツというのは、僕は大好きなだけど、バターって書いてあるのに、本当にバターを使っているのは少ないんだよね。

マーガリンみたいな植物性の油脂だったりする。

これってズッコイよね。

僕はバターが大好きだから、ここはこだわりたいんだ。


朝もね、食パンを焼いて食べることがあるんだけれど、バターをたっぷり塗るのが好きなんだ。

焼いたトーストにバターを角切りにして、そんでもってパンに乗っけるわけ。

そんでもって、その角切りのバターが何個も乗っかったパンを、更にトースターに入れてバターを溶かすんだ。

もう、斜めにしたらバターが滴り落ちてくるよ。

でも、それを食べるのが美味いんだね。


ただ、食パンを焼くのは、トースターじゃなくてフライパンが1番美味いんだな。

表面がすべすべに焼けて、中がしっとりとしててさ。

でも、バターが滴り落ちるまで塗れないのが難なんだ。


バターをたっぷり塗った食パンってビールのあてにもなるよね。

「ねえ、マスターさ、そう思わない?」

少しだけ頷く。

ってさ、首を縦に振ったけど、それは僕の意見に同調してるの、否定してるの。


あ、そうだ、みゆきさんの話だったね。

「ね、そうだよね、マスター。」

僕は、みゆきさんが大好きだって言ったよね。

とはいうものの、それは大スターとファンという関係を望んでいるわけではないんだよね。

僕は、みゆきさんとのロマンスを夢見ているんだ。

「ロマンス。」

素敵な言葉だ。

その言葉を聞くだけで、胸が高鳴る。


とはいうものの、みゆきさんも僕も、しいて言えばさ、しいてね、結構なお年頃だって言っても可笑しくない年なんだよね。

これは急がなきゃだよね。

だってさ、いくら好きだとは言っても、おじいさんとおばあさんになってからのロマンスなんて、切なすぎるよ。


「ふがふが。みゆきしゃん。口吸わせてくれへんかの。ふがふが。」

この口吸うとは、「キッス」のことだよ。

勿論、キッスという言葉は、おじいさんになっても覚えているのだろうけれど、自分がおじいさんだと自覚をすると、こんな言葉を使ってしまうんだね。

おじいさんという言葉を自分に当てはめたときに、自分でおじいさんを演じることになるんだ。

人を、ある言葉で括ってしまうことは、その人を固定化してしまうことになる。


ある人を、バカだという言葉で括ってしまうと、その人はバカを演じようとする。

ある人を、優しいという言葉で括ってしまうと、その人は優しい人を演じようとする。

僕は、人から男前って言葉で括られてるから、人前では男前を演じてるんだね。

ってさ。

「ククク。僕は男前を演じているんだよ。でもさ、男前に加えて頭もいいでしょ。みんなの嫉妬に怯えてるんだよね。同性の嫉妬は怖いものね。ね、マスター。ククク。」


あ、ごめん。

また、カウンターをバンバン手で叩いちゃったよ。

「マスター。ごめん。カウンターをバンバンしちゃったね。」

僕は、少し猫背になって、みんなの視線をかわそうとする。


そんでもってさ、さっきのおじいさんという言葉でくくる話だよ。

世間から、おじいさんという言葉をなくしてしまえば、おじいさんなんて存在しなくなる。つまり単なる人であって、その方が潔い気もしないかい。

とはいうものの、僕は愚でかつ凡なのでありますからね、きっとおじいさんになったら、おじいさんという言葉によって、おじいさんになってしまうんだろうな。

寂しいな。


そして、みゆきさんとの会話だ。

「ふがふが。みゆきしゃん。口吸わせてちょー。」

「何言ってんの。おじいさんにもなって、キスなんて。」


「ふがふが。ええやんか。ばぶばぶー。」

赤ちゃん帰りもしている筈だ。

そんでもって、「ぶちゅー。」とね。


「ふがふが。ばぶばぶ。みゆきしゃーん。口吸わせてーな。」

「何言ってんの。今、無理矢理ぶちゅーって、やったやないの。」

「え?わしゃ、知らんで。まだ、口も吸わせてもろてないし、ご飯も食べてない。」

少々、認知も入っている訳だ。


なんてことになる道理でありまして、時間がたつと言うことは、かくも悲しいものであるのかもしれない。

こんなのは、ロマンスじゃない。

胸の高鳴りも、「救心」が必要な、高鳴りになって、どうするの。

なので、急がなきゃという訳なんだ。

「ねえ、マスターさ、どう思う?」


あ、そうだ。

みゆきさんの白目だよ。

さっき、みゆきさんの白目は絶品だって話したよね。

そんでもってさ、みゆきさんの白目は神様がくれた贈り物だと確信するようになったことがあるんだ。


みゆきさんのコンサートに行くために東京へ行ったんだね。

その時に、次の日に時間があったんで、青山の岡本太郎記念館に行ったんだ。

そこで、みゆきさんの白目についての僕の考察を確信したんだね。


2階にある岡本太郎さんの作品を1つひとつ見ていたのだけれど、あることに気が付いた。

岡本太郎さんの作品は、目を意識して描かれた作品ばかりだったんだ。

その時は、動物をモチーフにした絵が多かったんだけれど。

そのどれもが、これでどうだっていう感じの色遣いと、踊るような筆遣いで、岡本太郎さんらしい迫力のある絵ばかりだったんだよね。


それでさ、抽象的な形をした素材の組み合わせも多い中に、目だけはしっかりと目として描かれていたんだ。

その目を描いた作品を見ていると、丸い丸い黒い丸がある。

黒目だ。

そして、その黒い丸の両側に、白い白い三角が描かれている。

白目だ。

岡本太郎さんぐらいの芸術家になると、白目を白で表現しなくても、白目という生物の器官を表現できる筈である。

白でなくても、そして三角でなくても、白目というものを描くことができる。

なのに、どの作品の目にも、白い絵の具で白目を描いている。


その白い絵の具の筆のタッチも、間近で見ることができた。

果たして、どうして岡本太郎さんは、白目を白い絵の具で描いたのか。

それは、白目は白であるがゆえに美しいからである。


岡本太郎さんも、白目の魅力に取りつかれてしまった1人の男性であったのだと、その時に僕は確信したんだ。

あるいは岡本太郎さんは、白目を描きたいために、黒目を描き、2つの目を描き、その目の持ち主の人間や動物を描き、作品を作ってきたのじゃないかな。

これは、間違っていないと思う。


ところがだ、ところがである。

岡本太郎さんは、死ぬまでその白目を完成させることができなかったに違いない。

何故なら、中島みゆきさんを知らないからである。

あるいは、知っていたのかもしれないが、みゆきさんの白目には気が付かなかったのだろう。


みゆきさんの白目の可愛さを知っていたなら、岡本太郎さんの絵は全く違ったものになっていたことは疑いもない。

だって、あんなに、あんなにだよ、可愛いみゆきさんの白目に気が付いて、こころを奪われない男性なんているもんですか。

たぶん、描く作品、描く作品、すべてが中島みゆきさんの肖像画になっていただろう。

狂ったようにみゆきさんの絵を描いていた筈である。

そして、世間から気持ち悪いオッサンと思われたことだろう。

岸田劉生の麗子像のようにね。

麗子像って怖いよね。

「ねえ、マスター。麗子像って怖くない?ねえ。」

まったく無視。


あ、でも、美味しいね。このピーナッチョ。

それにしてもさあ。

僕が前から疑問に思ってたことがあるんだ。

ピーナッチョってさ、売ってる種類が3種類あるんだよね。


落花生とさ、これは解るんだ、殻付きだから、テレビなんか見ながら殻を割って食べるのって楽しいんだよね。

そんでもってさ、バターピーナッチョがある。

これも解るんだね、そのまま食べればいいんだから。

でも、解らないのが、薄皮の付いたピーナッチョなんだよ。

あの薄皮って意味あるのかな。

大概はさ、あの薄皮を取って食べるんだよね。

でも、付いてる。

殻を割って取るのは大変だと思うよ。

複雑な機械が必要だろう。

でも、そこまでやったんなら薄皮も取ればいいのにと思うんだよね。

薄皮剥くぐらいは、殻取ったんだから簡単に出来るだろうに。

ねえ、そう思わない。


でも、そんなことは誰でも考えると思うんだよね。

あれを作ってる人も思っているんだよ。

でも、薄皮を残して作ってる。

だから、敢えて薄皮を残してるのかもしれないと思い始めたんだ。

誰かの陰謀なのかもしれないよ。

或いは、フリーメイソンあたりなのか。


しかし、よく考えてみるとさ、薄皮付きのピーナッチョを初めて作った会社の、社長の個人的な願望を実現させるための小道具として作り始めたのかもしれないな。

社長の陰謀。


この社長は、すんごく甘えたさんの社長さんだったんだね。

でさ、ピーナッチョを彼女に食べさせてもらいたかったんだ。

ところがだ、神様も憎いことをしてくれるもので、この社長はものすごく口が臭かったんだ。


彼女に「ピーナッチョを、お口アーンで食べさせて、ばぶー。」

なんてさ、赤ちゃん言葉でおねだりをする訳。

甘えたさんは、赤ちゃん言葉を使うことが多いんだよね。


でも、彼女は社長の財産目当てで付き合ってて、そこに愛はなかったのね。

社長の臭い口にお口アーンで食べさせた時に、もし社長の唇に指でも触れてしまうことがあったなら、気絶しそうだから、お口アーンで食べさせてっていわれても、「イヤダー。」なんて断ってたのね。

そんでもって、何度も何度も断られるものだからさ、社長も対策を立てた訳なんだ。

社長の唇に触れなくても、お口アーンをしてもらえる方法。

それが薄皮付きのピーナッチョだったんだね。


薄皮が付いてるからさ、その薄皮を持って社長の唇の前まで持ってくるんだ。

そして、唇に触れないぐらいの距離でさ、アーンって大きく開けられた社長の口に、薄皮を摘まんだ指に力を入れて中のピーナッチョを飛ばすんだ。


薄皮から押し出されたピーナッチョは、スポーンっと飛んで行って、めでたく社長の口の中に入るって仕掛けだったんだ。

これを社長が考えて薄皮付きのピーナッチョを作ったんだね。

まあ、これは推測だけれど、悲しい話だよね。

でもさあ、もしだよ、みゆきさんがピーナッチョを食べさせてくれるんだったら、お口にスポーンでもいいなあ。


「はい、ボンゾウちゃん、アーンして。ピーナッチョ食べさせてあげるね。」ってね。

「ありがとう、みゆきさん。」


「はい。」スポーン!

「はい。」スポーン!

「はい。」スポーン!


スポーン、スポーンって、何かやっぱり寂しい。

でも、みゆきさんにアーンしてもらって嬉しい。

寂しい、嬉しい、寂しい、嬉しい。

あーん。もう気がおかしくなっちゃうよ。

「バン、バン、バン。」

おっと、危なかったよ。

また、テーブルをバンバンするところだったよ。

でも、今は咄嗟の判断で、テーブルから僕の膝に軌道を修正したからね。

自分の膝バンバンなら周りに迷惑を掛けてないだろう。

「ねえ、マスター。今の、膝バンバンだったから、大丈夫だったよね、周りに迷惑かけてないよね。」

えっ?結構音が大きかったからビックリしたって?

それは、ゴメンナサイ。

それに、満面の笑みで口をアーンって開けてたって?

それは、非常に恥ずかしいね。

もうしないよ。

うん、しない。


それにしてもさあ。

その社長さんて、気の毒な気もするよね。

口が臭いって言われてもさ、社長さんも歯磨きしたり、口臭を消すシュッってするやつ使ってただろうに。


僕もさ、最近年のせいか体臭が気になってね。

年と共にだんだん臭くなっているようなんだ。

これじゃさ、もしも、もしもだよ。

みゆきさんと出会ってさ、もしもだよ、デートが出来てさ、もしもだよ、ちょっと良い雰囲気になったときにさ、臭い匂いで嫌われるんじゃないかって思うとさ、ハイターのお風呂に入りたくなるよ。

真っ白になっちゃったりしてね。

そんでもってさ、もしみゆきさんとデートってことも100%無い訳じゃないやん、、、。


大都会東京のホテルの1室。

白いレースのカーテンを閉めると、みゆきさんは言った。

「シャツを脱がしてあ・げ・る。」

遂に待っていた瞬間がやってきたのであります。

ボタンを上から1つ、また1つ外していく。


「何、この匂い。雑巾の腐った匂いがする。とういうかドブの匂い?」

臭い匂いに戸惑いながらもシャツのボタンを最後まで外すと、その下に、まだらに黄色くなった僕の下着が現れる。

「何、このまだらの黄色は、、、。もう、最低!」

みゆきさんには最低で、僕には最悪だ。

どうにも、うまくいかない。

妄想であっても、うまくいかないのでありますから、現実は、確実にうまくいかないに違いない。


というか、現実は、会えるところまでいかないと、僕の理性でもはっきりと想像できる。

ならば、会えないのだから、臭い匂いや、まだらな黄色は気にしなくてもいいのだけれど、どうも気になるんだよ。


もともと、汗かきであったもんだからさ。

寒い冬でも食事をしたら必ず手の甲に汗がにじんじゃうんだよね。

夏はもうシャツが体に引っ付いて脱げないぐらいボトボトに水分を吸っている。

でも、ちょっと前までは汗をかいても「うわー。きラキラ水だ。綺麗だなあ。」なんて冗談を言ってたんだね。

首からでる黄色い汗も、僕は「トパーズ水」と呼んでいたんだ。

まだ若干の余裕があった。


でも、そのキラキラ水やトパーズ水が、どうも臭い匂いの原因のようなのである。

仕事場の女性からは、雑巾の腐った匂いと言われるんだ。

雑巾の匂いじゃないんですよ。

雑巾の腐った匂いなんですよ。

最悪だ。

特に最近は、自分でも匂うような気がして、休みの日にはインターネットで、「汗がドブの匂い。」とか「シャツが黄色くなる」なんてキーワードで検索を繰り返し繰り返し、そして更に繰り返し調べるのだけれど、それでも解決策が見いだせずに、ションボリとなっていたんだ。

僕はもともと汗かきなので、夜はお風呂、朝はシャワーを必ずするし、朝シャワーから出ると、体に制汗剤を塗りたくるし、下着のシャツには汗のにおいをバラの匂いに変える消臭剤をスプレーしまくるし、そんなことをしていても匂ったり黄色くなったりするのでは、もう堪らないじゃないですか。

泣きたいよー。


最近は、家に帰ったら真っ先に下着のシャツを脱いで、洗面所で汗の黄ばみが取れるという「ウタマロ」という石鹸でゴシゴシと予備洗いをするようにした。

僕が先日も洗面所で、「♪クッサイさん消えろー、消えろー。黄色いさん、なくなれ、なくなれー♪」なんて、デタラメな鼻歌を歌いながらウタマロでゴシゴシしていたら、その横で奥さんが悲しそうな目で僕を見ていた。

「もう、やめてー。悲しすぎるやん。もう、臭くてもいいやん。」

と、泣きそうにつぶやいた。

どうも、僕の臭いさんと黄色いさんは、僕の家庭を悲しくさせるようなんだ。

どうして神様は、ここにきて僕に臭いさんと黄色いさんという悲しいギフトをくれたんだろうね。

♪人のー、恋路をー、邪魔するやつはよーうー、馬に蹴られてー、死ねばいーい♪

とはいうものの、神様だから死なない訳なんだけどね。

何とかならないものだろうかね。

「ねえ、何とかならないかなあ。ねえ、マスター。」

無言。


「えっ。臭い?ねえ、臭い?僕、今、クサイの?」

泣きたくなっちゃうな。

ほんと。

でも、まあみゆきさんに会える日までに消臭の対策を考えればいいか。

臭いんだから、仕方ないもんね。


それにしてもさあ、昨日の夜もみゆきさんのDVD見てたんだけれどさ、コンサートのね、「歌旅」のね。

どうしてみゆきさんて、あんなに可愛いんだろうね。


特に1曲歌った後に、天井を見上げたり、横を向いたりして、決め顔を作ってくれるんだ。

その時の表情がこれまた、いいんだね。

僕がカメラマンなら、この決め顔だけで1冊の写真集が出来るぐらい撮りまくっちゃうな。

100枚の写真を撮ったら、100枚ともベストショットだ。

普通のグラビアアイドルでは、こうはいかない。

100枚撮っても、その内使える写真は、1枚あるかどうかだ。

後の99枚は捨ててしまうゴミみたいな写真なのである。

それにくらべて、みゆきさんはどうだ。

100枚の内、捨てるショットは1枚もない。

つまりは、1瞬1瞬が、1秒1秒が、すべて可愛いという事なのである。

こんな女性は他にいない。

「え、何マスター。ヨダレが出てる?」


シマッタ!!!

最近、涙腺も緩くなったけれど、ヨダレの線も弱くなったんだよね。

それでも、みゆきさんだからヨダレが出るんだね。

だって素敵なんだもの。


だいぶ前の事だけれど、みゆきさんの2012年のコンサートに行った時のことだよ。

その時に東京に行ったんだね。

東京。

憧れの空間。

緊張するよね。

20代に東京へ行った時は、そんなことはなかった。

東京と言えば、ドラマの舞台で知っている憧れの土地で、行くことが楽しくて仕方がなかった。

でも、今は緊張をする。

みゆきさんが普段の生活をしている東京だということが、更にドキドキ感を増長させているのかもしれない。


20才代のときに友人と東京へ遊びに行こうという事になった。

すると、その友人のお母さんは「東京なんかに行ったら、生き馬の目を抜かれるで。」と反対したそうです。

時代も変わって、今こんなことを言うお母さんはいないだろうね。

とはいうものの、この言葉の意味は今この現在にも残っているようで、僕はすっかりみゆきさんに生き馬の目を抜かれた状態にさせられてしまったようだ。

もう何を見ても興味が湧かないし、何をしたいという衝動も湧いてこない。

出るのはため息ばかりだ。


みゆきさんという愛する人に、逢いたくても逢えない、得ようとしても得ることが叶わない。

人のこころを、一瞬ハイにして、その後、ズタズタに、クニャクニャに、ボロボロにして、鬱屈させて、落ち込ませて、絶望を思い知らされる病気。

、、、、恋わずらい。

東京国際フォーラムでの、初めてのコンサートは、その恋わずらいの特効薬に果たしてなったのかは、覚えていないけれど少し元気が出たと思う。

何しろみゆきさんを直に見れるんだから。


この直に見れるという事は、よくよく考えれば、ただ事ではありませんですよ。

エライことなんですよ。

まさしく、みゆきさんと「合体」できるということなんだ。


恋していない人は、「そんなん、合体できるわけがないやん。」と思うかもしれない。

ステージと客席は離れてるんだし、僕が座った席なんか2階の後ろの方だ。

そう思う人は、想像力が欠如しているのである。


コンサート会場というものを、この空間をよくよく観察するがいい。

目を閉じて、自分自身とその外の空間に意識を集中してみてください。

何があるか。

そこには何もない。


「でも、距離があるし、空気もあるやん。」という反論があるかもしれない。

でも、空気とは何か。

窒素と酸素と二酸化炭素から出来ているものである。

そしたら、その窒素でも酸素でもは、何で出来ているか。

それは、原子から出来ている。


では、原子は何から出来ているかと言うと、

原子核と電子から出来ている。

原子核と電子の間には、何もない空間があるだけだ。

殆どがスカスカの空間。

そして、最近の説では、電子は質量も大きさもほとんどゼロだという。


つまりは、僕とみゆきさんの間は、スカスカで何もないということだ。

僕とみゆきさんを隔てるものは、無いもないということを意味する。


しかも、ここが重要な点であるが、みゆきさんは生きている。

そうするとどいうことか。

みゆきさんは呼吸をしているのです。

呼吸とは何か。

「ねえ、マスター聞いてる?ここからが大切な部分だよ。」

あれ?今、マスターは頷いたのかな、ただ下を向いただけなのかな。


そんでもって、呼吸だよ。

つまりは、呼吸とは、みゆきさんが吸い込んだ酸素を、みゆきさんの体内で代謝して、水と二酸化炭素に分解することである。

そして呼気として排出される。

そういう人間の生理現象。


なので、その排出された水と二酸化炭素は、間違いなくみゆきさんから発せられたものであって、みゆきさんの体内のミトコンドリアで生成されたものなのであります。

つまりは、今の今までみゆきさんの体内の一部であったものなのです。


するとどうなるか。

みゆきさんのミトコンドリアで生成された二酸化炭素分子が、コンサート会場の空調によって拡散して、客席で見ている僕の吸気として、僕の鼻や喉を経由して、僕の肺に入るということなんだ。


勿論、肺で吸収される訳ではないのですが、みゆきさんの二酸化炭素分子が、僕の肺細胞に直接触れるのであります。


そして、触れるのは二酸化炭素分子だけではない。

みゆきさんからは、体内の揮発性の不純物質や、ミトコンドリアで生成された水が、不感蒸泄として、呼気や皮膚から拡散して、これもまた凡の皮膚や肺細胞に直接触れるのだ。

不感蒸泄だよ、不感蒸泄。

すごい専門用語だよ。

詰まりは、みゆきさんの汗が蒸発して、空気中に漂っているって訳。

それが、空調で、僕の目の前にまで、飛んできているっていう訳。

そして、ひょっとしたら、その水蒸気を、凡が呼吸しているかもしれないという訳。


これこそ正に合体と言わずに何といおうか。

「分子レベルでの、みゆきさんとの合体。」

考えただけで、ゾクゾクする。


僕は、深く瞑想状態に入ることで、ここまでの過程を、脳内にありありとイメージできる。

「あ、やめろ。やめてくれ。」

「ああ、だめだ。」

「この会場から立ち去ってくれ!お願いだ。」

瞑想状態で、僕はイメージと戦っていた。


僕のイメージでは、みゆきさんの呼気から発せられる水蒸気と合体するはずだったのね。

でも、そのイメージに、勝手に加齢臭の漂う中年のオッサンとか、首筋に汗を書いた肥えたニイチャン、にんにくラーメンを食べた後のTシャツの学生とかが入り込んできたのだ。


臭いオッサンの水蒸気と首筋に汗の水蒸気、にんにくラーメンの水蒸気、そして、臭いオッサンの二酸化炭素、首筋に汗の二酸化炭素、にんにくラーメンの二酸化炭素が、僕の身体にまとわりついてくる。

「ああ、息が出来ない!」


もし、息をしたなら、臭いオッサンの水蒸気と二酸化炭素や、首筋に汗の水蒸気と二酸化炭素、にんにくラーメンの水蒸気と二酸化炭素を吸い込んでしまう。

「ああ、もう限界だ。苦しいよー。」


人間は息を1分間も止めていることができない。

我慢できずに息を吸ってしまうだろう。

するとどうなる。

臭いオッサンと合体!

首筋に汗のニイチャンと合体!

にんにくラーメンの学生と合体!

「助けてくれー。僕は合体なんかしたくない!」


すると、僕の肩を叩く人がいた。

マスターだ。

「大丈夫ですか。目を瞑ったかと思ったら、自分で自分の首を絞めて、バタバタと苦しそうにもがきだしたらから。ビックリしたよ。」

「マスター。ありがとう。でも、僕、今皆の注目を浴びちゃたのかな。ごめんね。恥ずかしいね。」

するとマスターは、無言で大きく頷いた。

やっぱり疲れてるのかな。

そうだ、今日はこれで帰ろう。

ゆっくり寝りゃ回復もするさ。


店を出ると、もう肌寒い空気が僕の高ぶった気持ちをクールダウンしてくれる。

御堂筋まで出て、歩いて帰ることにした。

御堂筋線は北から南へ向けて一方通行だ。

そのヘッドライトがキラキラと僕を照らしているようだ。

ロマンチック。

でも、1人ぼっちのロマンチック。

ここに、みゆきさんがいてくれたらなあ。


「ねえ、ボンゾウちゃん。ヘッドライト、キラキラ輝いて綺麗だよ。」

「うん、そうだね。でも、みゆきさんの方がキラキラ輝いているよ。」


「きゃー。嫌だ恥ずかしい。ボンゾウちゃんもキラキラしてるよ。」

「みゆきさんが、キラキラだよ。」


「ボンゾウちゃんが、キラキラよ。」

「みゆきさん、キラキラ。」


「ボンゾウちゃん、キラキラ。」

「みゆきさん、キラキラ。」


「ボンゾウちゃん、キラキラ。」

「みゆきさん。」


「ボンゾウちゃん。」

「みゆきさん。」


「ボンゾウちゃん。」 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。


御堂筋の銀杏の木の下で、ボンゾウとみゆきさんのイチャイチャは、朝まで続くのであった。


「ねえ、みゆきさんさあ。ボンゾウちゃん、みゆきさんって、言い続けるのも疲れるね。」

「だって、もう御堂筋の道端で7時間も立ったまま、ボンゾウちゃんみゆきさんって言い続けてるんだよ。みゆきヘトヘトだよー。」


「僕もヘトヘトや。」

「じゃ、もうボンゾウちゃんみゆきさんって言い続けるの止めて、モーニングでも食べて帰らへん?」

「そううしよか。リポビタンも飲んでいいかな。」


「あたしも、飲むーっ。」

どこまでも、どこまでも、みゆきさんに傍にいて欲しい僕なのであります。

それにしても、また妄想してしまったようだ。

やっぱり疲れているのね。

淀屋橋から京阪電車に乗り込むと、ウトウトと寝てしまいそうだった。

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