アルシュレイ=ヴァルコローゼ②

******


 ――声がしたんだ。それがあまりに必死に俺を呼んだから……意識が浮上した。


『リヒト』


『リヒトルディン』


 ひとりの声じゃない。たくさんの声だ。


 ――瞼を透かし、夕焼け色が広がる。


 新鮮な空気が突如肺に流れ込んできて、俺はヒュウと喉を鳴らし息を吸った。


「……は……。……ん、あれ? ……え、な、なに?」


 瞼を震わせ、ゆっくりと開けた俺は……思わず体を引く。皆が俺を覗き込んでいたからだ。


 背に触れるのは柔らかな背もたれで、一瞬、なにがどうなっているのかわからなかった。


「――なに? じゃない! この馬鹿者ッ!」


 瞬間、リリティアに飛び付かれて――俺は目を瞠った。


「うわっ⁉ り、リリティア? え――――ッ!」


 そして、自分が眠ったはずなのだと思い出したんだ。


 寒くもないのに体が震え、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。


 まさか……失敗したのか?


 ここまできて。


 失敗――。


「……嘘だろ。俺、失敗したのかッ⁉ 駄目だリリティア、離れて――!」


 俺はしがみついているリリティアを慌てて引き剥がそうと彼女の肩に触れたけど……彼女は首を振るばかり。


「リリティア……! すまない、俺は――神世の……王が……ん?」


 ……あれ?


 俺はそこで首を傾げ、違和感に眉をひそめる。


 あの不快な声が聞こえないんだ――夢で見た悪い神様――神世の王の、その声が。


 突き立てたはずのダガーの痛みも、脳が絞られるような頭痛も、まったく感じない。


 そして俺の視線の先にいる親友、目覚めたばかりの第一王子アルシュレイが……泣きそうな顔で笑っている。


「――アル……ど、どういうことかな――?」


「僕が『禁忌』に強いことは……リヒトが一番知っているだろう?」


「それは……そうだけど……」


 よく見れば、ほかの皆も泣きそうな顔に見える。悲しいんじゃない……嬉しそうな、顔……?


 しかも……ユーリィの傍にいるのはアンデュラム王じゃないか……?


「……一年だ」


 そのとき、耳元でリリティアが囁く。


「お前が眠って一年経った――お前は目覚めたんだ、リヒト」


 ……なんだって?


 言われた意味が一瞬わからず……俺は乾いた唇を湿らせて反芻する。


「いち、ねん……? え、でも皆……なにも変わってない……えっ?」


 俺はそこで、リリティアを引き剥がそうとしていた右手にさらりと触れる髪に気付いた。


 長いのだ。


 俺のなかでは『ついさっき』綺麗な涙をこぼしていたはずのリリティアの、その白銀の髪が。


「……まさか、本当に一年……経ったのか? じゃあ、神世の王は浄化できた……?」


 思わずその髪をそっと指先で撫でて俺が聞き返すと……リリティアは体を離し、俺の胸に柔らかな右手をぽん、と当てた。


「いいや。まだお前のなかにいる――けれどいま、お前の体はなんともないはずだ。どうだ?」


「ええと……」


 俺はその温かい手を急に意識して、思わず紅色の手袋が嵌まった左腕で口元を擦り……目を逸らした。


 きっと跳ね回る心臓の鼓動が彼女の手のひらを震わせている。


「……なんともない、と思う」


 なんとか絞り出すと、リリティアはふふと笑って手を離し、続けた。


「左手も問題ないな?」


「え? ……ああ、うん」


 言われて紅色の手袋が嵌まった手を握ったり開いたりしてみせると、アルシュレイがその手のひらに拳をばしんと突き込んでくる。


「痛ッ……! な、なにするんだよアル⁉」


「そこにいる神世の王をちょっとくらい殴らせてもらわないと、僕の気が済まない」


「――はしたないですよアルシュレイ王。立ち居振る舞いにこそ品格が表れるのです」


 それをピシャリとユーリィが窘め――えっ?


 いや、いや待て。いま、なんて……。


「アルシュレイ……王?」


 俺の口から思わずこぼれた言葉に。


 アルはにやりと唇の片側を持ち上げると、呆然と彼を見上げる俺の額を指先でピンと弾いた。



「ああ。……王として最初の功績が君の奪還だ――おかえり、リヒトルディン」



 ――玉座に座らされたまま皆から思い思いの歓迎や悪態を叩きつけられたあと、俺は状況の説明を受けた。


 アルシュレイは俺の前で腕を大きく広げたり、はたまた身を屈めたり、大袈裟な動作を交えてこの一年間を語ってくれる。


「僕は眠っているあいだリヒトと繋がっていた。全部ではないけれど、君の行動を君を通して夢に見ていたんだ。……それが神世の王が最初に封じられた場所の特定に役立ってね。ある神話とこの国を結び付けた」


 俺が最初に王族の墓所にたどり着いたとき、穢れを受けた筆頭侍女長ユーリィからは俺とリリティアが見えていた――聖域を展開しているにも関わらず、だ。


 つまり、地下深くになればなるほど神世の王の力が強かったことになる。


 そこで地下深くに悪い神を封じたという神世の話が浮上したらしい。


 しかもアルが話したのは、まさに俺が夢に見た内容だ。


 俺がそれを告げると、どういうわけか嬉しそうに「やっぱり推測は間違っていなかった!」と笑った。


「僕たち王族は、もともと斬り離された腕から生まれた……だから神世の王は僕たち王族に宿ることが可能だったというわけだね。もともと自分の一部なのだから」


 禁忌が好きなアルは目を輝かせて俺に熱弁をふるう。


 ……目が覚めてもやっぱりアルだな。


 一年なんて実感はないけれど、それが嬉しい。


「そこで僕たちは考えた。リヒトの体のなかにいる神世の王を、さらにどこか一カ所に集約できないかな、とね。この方法を探すのは骨が折れたよ」


 そう言いながらも、アルの笑顔は広がるばかりだ。


「王族の『器』が乗っ取られてしまうことを懸念した優しい神様は、ちゃんとその対策についても考えていた――そこで生み出されたのが封印具だ」


 材料はわかるだろう? と。彼は左目をぱちりと瞑ってみせる。


 俺は顎を引いて頷いてみせた。


「……うん、白薔薇ヴァルコローゼの一族の亡骸……というか、その骨だ」


「そのとおり! 実はね、彼らは王族の『器』からも封印具を作ろうと試みていたんだ。そうすれば体のなかで二重に封印ができると考えたわけだね。残念なことに実験は実を結ばなかったけれど――リヒト。君には素晴らしい特性があるだろう?」


「…………!」


 そのとき、俺は思わずぶるりと体を震わせた。


 俺の特性って――待て。え、じゃあ……これ……。


 おそるおそる左腕を持ち上げる。紅色の手袋は俺の肘まであり、手の甲には白い薔薇の模様。


 そっと瞳を動かして隣にいるリリティアを見れば、蒼い双眸を細め得意気に笑っていた。


「お、俺の骨……封印具にされてるのか……?」


「そうだ。私の渾身の術によってな! お前のダガーを抜き、お前と黒瑪瑙オニキスいばらとを切り離すあいだに術を終えるのは私でなければ難しかったろう。なにせ白薔薇ヴァルコローゼとしてもおそらくは初めての試みだった。これはきっと、この先の禁忌の打開に――――」


 リリティアが腰に両手を当てて胸を張って力説するので……俺は思わず眉間の皺を指先でぐにぐにと伸ばす。


 やたら嬉しそうだけど……。


「リリティア……なんかアルに感化されてないかな」


 こぼすと、彼女はぱちぱちと二度瞬きをしてから眉尻を下げて唸った。


「そ、そこまでではないと思うが――」


「はは。安心してくれリヒト。君の気持ちは僕もちゃんと知っているから、なにもない」


 そこでアルが人差し指を立て、意味深にふふと笑ってみせる。


「……えっ?」


「言っただろう? 君と僕は繋がっていた、って!」


 悪戯っぽく笑ってみせる親友に、俺はかーっと頬に血が上るのを感じた。


「な、なん……!」


「――さあ皆、お腹も空いたろう? 久しぶりに食事会でもしよう」


 目を剥いた俺を無視して……アルシュレイは高らかに告げるのだった。


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