リヒトルディン=ヴァルコローゼ⑩

 俺はまだ自由な左手を持ち上げ、夕焼け色を反射させる黒い刃をくるりと回して逆手に持ち替えた。


 紅色の手袋に映える白い薔薇の模様に……唇の端を持ち上げて笑みを浮かべる。


 噴き出した脂汗が服を張り付かせ、頭のなかで不快な声が木霊した。


 ――お前……なにをするつもりだ――『出来損ないのリヒト』。


「は、言っただろ……もう俺は、『出来損ない』じゃ、ない……」


 リリティアは何百年も眠っていた。その身をもって扉を封じていてくれた。


 黒瑪瑙オニキスいばらが彼女を取り込み、その命を循環させていたからだ。


「お前は、ユルクシュトル王子の苦悩を――知っている……。彼女を、知っている――なら、わかるだろ? 俺が、なにをするのか」


 ――――! ま、まさか……やめろ!


 頭が割れそうなほどの痛みとともに、神世の王が吠える。


 俺は腹の底に力を入れ、ありったけの空気を吸い込んで――ダガーを体に突き込んだ。



 ズ ンッ



「…………ッ!」


 刃が肉を断ち、腹の深くへと埋まる。


「……ぐ、ぅッ!」


 耐えきれず、体を丸めた。それでもダガーは離さない。離すわけにはいかない。


 痛い。痛い。痛い――。


 リリティアは……こんな思いを味わったんだな……。


 涙がこぼれ、黒いダガーを伝う熱い液体と混ざり合う。


 黒瑪瑙オニキスいばらが、俺を……呑み込んでいく。


 そのとき。


『……リヒトッ!』


 扉の向こうから、聞こえたんだ。大切な人の、その声が。


「……リリ、ティア……?」


 思わず呟くと、扉が軋んだ。


 ジャラリと解けた鎖が踊り、扉が開け放たれて……紅色のケープを翻して彼女が走ってくる。


 白銀の髪を何度も跳ねさせ、足が縺れそうなほどの勢いで。


 その後ろ、兜を取り悲痛な顔をした甲冑の騎士が続いていた。


 ……ガムルト、お前……鍵を閉めなかったのか……。


「リヒトッ! ああ……なんてことを、この馬鹿者――!」


 馬鹿者はないだろ、そうだよな。でも俺は唇の端を持ち上げて……こぼした。


「……、……すまな、い」


 会えば怒られるだろうなとは思っていたから。


 体の感覚が失われていき、頭のなかでは神世の王がありとあらゆる罵詈雑言を並べている。


 でも……幸せな気分だった。


「許さないぞ! 謝ったとて許さない! 私はお前の白薔薇ヴァルコローゼ――だから、こんなことは……」


 大きな蒼い瞳からこぼれる涙が――綺麗だ。


 手が動くなら拭ったのにな、と思う。


 それが少し残念だよ、リリティア。


「私の自由のために、鐘を……鳴らすと言っただろう、リヒト……リヒトルディン」


 両手を伸ばし俺の頬に触れる彼女の手は温かくて――胸が熱くなる。


「リリ、てぃ、ア……」


 声は殆ど出なくなっていた。


 気持を伝えることはできなかったけど、これでいい。


 俺のために泣いてくれる――十分に満足だった。


「リヒトッ!」


 そして――ああ。アルシュレイが。皆が……走ってくる。


 俺の思い描いた全員が来てくれたのだ。


「……あ、ル……」


「リヒト……」


 第一王子アルシュレイ。きっとこれから王となる俺の親友。


 彼は俺の前に跪くと、俺の手に――もう感覚は殆どなくなっていたけど――触れた。


 数日ぶりに見る彼の蒼い瞳は――決して絶望していない。


 それが誇らしい。


 俺は君を助けられた。君と過ごしてきた日々は太陽に見守られているように明るかった。


 ……ありがとう、アル。


 アルは俺を真っ直ぐ見詰め、泣きそうな顔で笑ってみせる。


「君を夢に見ていた――僕たちは繋がっていたんだ、リヒト。だから目覚めたらその話をしよう。なんとかなる、きっと。そうだろう?」


「……ふ」


 まるで俺みたいなことを言うんだな、アル――。


 笑って目線だけで見回せば……皆が思い思いに応えてくれた。


 第四王子メルセデスは眉を寄せ、唇を引き結んで。


 第三王子クルーガロンドは険しいけど、頼もしい顔で。


 第二王子ラントヴィーは静かな瞳で。


 ガムルトは兜を取り、胸に右手を当てた。


 ユーリィは眼が真っ赤だ。


 ……俺は『出来損ないのリヒト』じゃない。そうだよな?


 最後にリリティアに視線を移すと――彼女は涙を拭い、唇を震わせて……笑ってくれた。


「今度は私が――お前を自由にする、だから……待っていろリヒト」


 ――ありがとう、リリティア。


 わめき声にしか聞こえなくなった神世の王に、ざまあみろ、なんて思って――俺は重くなる瞼を自ら閉じた。




 夕焼け色に溶けるような優しい眠りは、すぐそこで……俺を待っていた。


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