リヒトルディン=ヴァルコローゼ⑨
王が絨毯を蹴り、身を低くして踏み出す。ナイフが閃いて、躊躇うことなく俺の喉元を狙う。
見た目よりも遥かに俊敏な動きには舌を巻いたけど――その瞬間、俺は左手を『振り上げた』。
ギィンッ……!
刃と刃がぶつかり合う音。
王は――蒼い双眸を見開いて俺の手元を凝視する。
「……斥候術には戦闘もある。腐敗の呪いを浄化する『目的』のために『奇襲』を仕掛けるのは俺の専門分野なんだ。――さあ、お相手願おうか、神世の王」
俺はそう告げると、飛び離れた彼に見えるよう両手に持った得物をくるりと回して『術を解いた』。
――ナイフを弾き上げたのは、呪われた左手で握った一本の黒いダガーだ。
「ま、まさか……聖域――だと⁉」
王の顔が驚愕に染まり、眉間の皺が深くなる。
「近衛騎士さえ誤魔化せればと思ったけど――貴方に見えていないのは嬉しい誤算だったよ。貴方の過ちは、俺が術を使えないと思い込んだこと。そして――地下の扉を封じているのが
「なに……⁉」
「待っていても呪いは放たれない。封印は解けず、地下の浄化は成功する」
俺は一歩、踏み出した。
「それからもうひとつ。俺は『出来損ない』じゃない」
もう一歩。
「は、はは! ――どうするつもりだ? 我を――アンデュラムの体をここで葬るのか? そんなことをしてもお前を乗っ取るだけだ!」
王はそう言って、顔を歪めて笑った。
「うるさい。お前がお喋り好きでよかったよ。だからこうするって決められた。アンデュラム王は返してもらう」
俺は「ふ」と息を吐き、一気に祝福を集めて踏み込んだ。
「――――集約ッ!」
喉の奥、体の底から声を張り上げ、ダガーを振るう。
「……ッ!」
ギィンッ
鈍い音とともに茜色の光を散らしながらナイフが舞い、それが床に到達するよりも速く俺は王の首筋に刃を添える。
祝福の蒼い光は煌めきながら俺の周りを踊り、夕焼け色と混ざり合いながら美しく儚い世界を見せてくれた。
――大丈夫。やり遂げてみせる、必ず!
俺は『呪い』を見据えようと王と顔を突き合わせる。
アンデュラム王の体からズズ、と溢れ出したのは――血のように赤い靄だった。
「は――ハハッ! なんと愚かな! 集約だと? その体に自ら我を引き入れるか! なにをしているのかわかっていないようだな? その術があれば封印など簡単に断ち切れよう! このような形で我にもたらされようとは――!」
「そんなことわかっているさ。だからここに閉じ込めたッ! 地下の封印は解かせない、お前はここで――俺のなかで浄化されるッ!」
俺の体に集まるそれは、熱ではなく強烈な痛みを伴った。
まるで指先から切り刻まれていくかのような、耐え難い痛みだ。
「ぐう、ううう――ッ!」
歯を食い縛るけど、激痛に膝が震える。
視界は涙で歪み、ちかちかして……圧倒的な質量の赤い靄が俺を嘲笑うかのように渦を巻く。
「ハハハッ、ハハハハッ! そら、受け入れろ、まさかお前のような『出来損ない』がここまでの力を持つとはな! ハハッ、アッハハハッ! は、ハ……!」
目を剥いて俺に笑い続ける神世の王の声が、少しずつ途切れていく。
呼吸が荒くなるなか、俺は頬を引き攣らせながら声を絞り出した。
「お前は……ユルクシュトル王子の苦悩を――ユーリィに、語ったッ……お前が体に入ってからも、少しのあいだ……自我が残る――証拠だ、だから……ッ!」
俺は崩れ落ちたアンデュラム王の体を乗り越え、玉座へと進んだ。
右足を床に置いたら、次は左足――。
あまりの激痛に体中が悲鳴を上げ、食い縛る歯がギチ、と鳴る。
酷い頭痛に視界が霞み、今度は頭のなかで笑い声が木霊する。
――ハハハッ、ハハハハハッ!
うるさい、と思った。それでも俺は歩みを止めず、玉座に右手を伸ばして背もたれを掴んだ。
これでいい。俺は――ありったけの力を振り絞り、体の底から叫ぶ。
「封印、だ――
――ハッ! 封印の楔なぞ、乗っ取ったあとでいくらでも蹴散らしてくれよう!
頭のなかで轟く不快な声に脳が締め付けられた。
それでも蒼い光は俺に答え、黒く艶めく太い
俺は玉座になんとか身を預け、体に
「――これで……終わり……。君は自由だ、リリティア」
きっと怒られるけど、欲を言うならもう一度会いたかった。
俺がここに向かうあいだ、ラントヴィーが地下の扉とリリティアをなんとかしてくれている。
だからきっと、いまごろは彼女を起こすことができていて……俺の親友、第一王子アルシュレイも目覚めただろう。
どうやって神世の王を倒すのか――その説明はしていない。
それなのに俺の代わりに地下の扉を封印する
歯を食い縛り、必死で。
そこでようやく赤い靄がすべて集約され、俺は深く息を吐き出した。
体を刻まれるような激痛は収まったけれど、頭だけはいまも割れそうなほど痛む。
――でも、これでいい。これでいいんだ。
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