クルーガロンド②
「なにやってるんだよこんなときに! 喧嘩している場合じゃないだろ!」
「ちっ……」
クルーガロンドは舌打ちとともに俺の手を思い切り振り払うと、ラントヴィーを突き飛ばしてからこっちに向き直った。蒼い瞳に燃え上がるのは怒りか蔑みか――俺にはわからない。
『……穢れているわけではないが……肉食獣みたいな奴だな』
すぐ近くまで来たリリティアがそうこぼすのが耳を掠める。
――しかし次の瞬間、俺はぐわんと世界が揺れるのを見た。
『リヒトッ!』
左頬が弾け飛んだかと思うほどの衝撃。
クルーガロンドに殴られたのだど理解するのに少し時間が掛かったほどだ。
踏鞴を踏んだだけで留まれたのは奇蹟的で、我ながらよくやったと思う。
「……邪魔するな! いや、やっぱりお前がやったんだな『出来損ない』……ッ!」
「……つぅッ……落ち着けよ……!」
上半身を起こした俺の視界――その左下で、急激に腫れ上がる頬が存在感を増していく。
皮膚が引っ張られるような感覚と一緒に、熱を帯びた強烈な痛みが込み上げた。
俺はちかちかするのを瞬きで誤魔化して、なんとか床を踏み締める。
……ああ、くそ。頭がぐらぐらする。
「殴って解決するようなことじゃないだろ、クルーガロンド」
「黙れ『出来損ない』が。睡眠薬で眠らされていた? それも自分でやったんじゃないのか?」
どうやら睡眠薬のことも伝わっているらしい。
言っていることはあながち間違いじゃないんだけどな……さっきまでラントヴィーに『お前が襲ったんだろう』とか言ってなかったか?
俺はそこでかぶりを振った。俺まで冷静さを失ったら本末転倒だ、穏便に済ませないと。
「――とにかく、いったん下がってくれクルーガロンド……あとで話を……」
「下がれ? 『出来損ない』が俺にそんな口を利いていいと思っているのか?」
「……えぇ……」
思わず呆れた声が俺の口からこぼれ、しまったと思ったときには遅かった。
クルーガロンドは目をますます吊り上げ、憤怒の表情で俺を突き飛ばす。
そのごつごつとした大きな手はまるで武人のそれだ。
「俺を舐めるなよ『出来損ないのリヒト』……! そうだ、いいことを思い付いたぞ。俺と話したいんだな? それならいますぐ訓練場で聞いてやる!」
「く、訓練場……⁉ ちょっと待て! いまはやることが……」
俺が話したいのはまずラントヴィーなんだよ……!
両手を上げて首を振り、視線を泳がせた俺は……そこで愕然とした。
あれっ、ラントヴィー……あいつ、どこ行った……⁉
そう。第二王子ラントヴィーの姿がどこにもない。
そこにいるのは戸惑っている騎士ふたりと、泣きそうな顔をしているリリティアだけである。
「溜まった鬱憤を晴らすには体を動かすのが丁度いい。なあ、そう思うだろう?」
第三王子クルーガロンドは鼻息荒く言い放ち、踵を返す。
「……精々ぼこぼこにされないよう努力してみせるんだな、『出来損ないのリヒト』」
その唇に歪んだ笑みが浮かぶのを――俺は見逃さなかった。
「……物騒なこと言わないでくれよ……」
――とはいえ、ここで断るわけにはいかないわけで。
俺はクルーガロンドのあとに続いて踏み出すしかなく、それを見たリリティアが慌てて俺の隣にやってくる。
『リヒト! そんな奴に従う必要がどこにある! 第二王子ラントヴィーを追いかけよう、そのほうがいい!』
……うーん。そうしたいのは山々だけどさ。でも、それじゃ駄目なんだよな? クルーガロンドをほっといたら穢れを生むかもしれない……そうなんだろリリティア。
目線でそう訴えたつもりだったけど、どうやら彼女は正しく理解してくれたらしい。
こぼれそうなほど大きく目を見開いて、唇を震わせた。
『まさか……お前、自分を殴らせてなんとかするつもりか⁉ 馬鹿を言うな!』
怒られたけど、こればっかりはどうしようもないさ。
それに……ただ殴られてやるつもりなんてこれっぽっちもないしな。
昔からそうなんだ。クルーガロンドは思い切り暴れることで気持ちを発散させる節がある。
ぼこぼこにされなくたって、限界まで付き合ってやればいい。
「クルーガロンドは負けたことを認めないような恥知らずじゃない――そう思うだろ?」
クルーガロンドとはわざと距離を開け、俺は後ろからソロソロと付いてくる騎士ふたりに向かって言葉を投げる。
騎士たちはお互いの兜を見合わせて、ガチャンと頷いてみせた。
『まさかリヒト、勝つつもりなのか? ……それであのでかぶつが落ち着くとは思えぬが……』
リリティアが訝しむので、俺は彼女にしか見えない向きでぱちんと片目を瞑って見せた。
まあ、見ていたらわかるさ。
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