メルセデス①

******


『リヒト。おいリヒト、いるんだろ?』


「うぅん……ん?」


 誰かに呼ばれて、俺は左手で瞼をこすり……そこから漏れる微かな腐臭を感じてびくりと首を竦めた。


 まだ閉じていたいと訴えてくる瞼をなんとか持ち上げれば、紅色の手袋が見える。


 ――あぁ……そうか、そうだった。いろいろあったんだよな、夜中に。


『リヒト!』


「あ、ごめん。いま行くよ」


 声は扉の向こうからだ。俺はベッドから這いだし、ふわあと大きな欠伸をして……ソファですやすやと眠っているリリティアに視線を移す。


 彼女も疲れていたんだろう。一向に起きる気配はない。


 部屋に異性がいるのはちょっと変な感じだな……アルが隣で寝ているのもだけど。


 ――カーテンの隙間からは柔らかな光がこぼれていて、部屋は薄らと明るかった。


 本当ならカーテンを開けたいところだけど……もう少し眠らせてあげよう。


 俺はもう一度ふわあと欠伸をして、扉を開けた。


「……遅い!」


「メルセデス?」


 そこにいたのは第四王子メルセデス。その後ろには甲冑の騎士がふたり控えている。


「まったく……この状況でぐっすり眠れたようでなによりだけど……とりあえず顔洗ってきてよリヒト。僕は中で待たせてもらうから。……君たちは部屋の外に――あ、悪いけど、ひとりは誰かに朝食を運ぶよう伝えてくれる?」


 メルセデスは騎士に指示を出すと、俺の返事を待たずに勝手に部屋に入ってくる。


 その手には水差しが――って、あれっ? リリティアは眠ってるけど……大丈夫か⁉


 一瞬ひやりとしたけれど、メルセデスはベッドのアルシュレイにもソファのリリティアにも気付いた様子はない。


 彼はチェストに水差しを置くとそのまま窓まで歩いていき、一気にカーテンを引いた。


『むぅ……』


 早朝の柔らかな光とはいえ、急に浴びればさぞ刺激的だろう。


 リリティアは両手で瞼をごしごしして、唸りながら起き上がった。


 寝癖の付いた白銀の髪が、頬の横からぴょんと跳ねているけど……うん。


 メルセデスに彼女の声は聞こえていないみたいだし……聖域っていうのはちゃんと保たれているみたいだな。毛布……も見えないらしい。抜かりはないようだ。


『誰だ、私の眠りを妨げ――うん?』


「リヒト。なにぼさっとしてるのさ。早く顔を洗ってきなよ……酷い顔がもっと酷い」


『……おいリヒト。これはいったいどういう状況だ?』


「え、えぇと……」


 ちなみに、俺たち王子は自分のことは自分でやるように教えられているので専属の侍女はいない。侍女たちは城とそこでの生活の管理――つまり掃除や簡単な修繕、食事の用意、備品の購入のほか、催事があればその準備をしたりと……そういった雑務をこなしてくれているのだ。


 俺たちが滅多に会うことのない王ともやり取りをするらしい筆頭侍女長のユーリィがどれほど有能なのかは――想像に難くないよな。


 俺はため息を付いて髪をがしがししてから、返事を放棄して洗面所へと続く扉を開けた。


 メルセデスがソファを軋ませた音がして、リリティアが『私のベッドに座るな!』と怒ったのが聞こえた気がするけど……たぶん気のせいだ。


 とにかく俺は顔を洗おうとして……困った。


 手袋したまま洗えってことかな。それ、濡れるし変に思われないか?


 すると、リリティアがこっちにやってきた。


『そういえば、お前の手袋を補修していなかったな。黒瑪瑙(オニキス)の棘(いばら)と同じように、祝福で紡がれた手袋だ。水濡れの心配はいらない。風呂にだって入れるぞ。だから絶対に取るな』


 言いながらリリティアがそっと手を翳し、その瞳にぽうと光を宿らせると……おお。


 手袋がぱあっと光を纏い、するすると縁が紡がれていく。


 ……つまり呪いが進むとこの手袋はどんどん長くなるってことかな? それもなんだかなぁ。


『さあ、これでいい。……なんだその顔は。長くなったら形は凝ってやる。歴代の王だってそうしてきたのだからな!』


 うん。顔に出ていたらしい。とりあえず俺はリリティアにへらっと笑ってみせ、つんと唇を尖らせて踵を返す彼女を見送った。


 それから顔を洗うと……思わず「ふう」といろいろな気持ちが溶け込んだため息がこぼれる。


 ……こんな朝早くからメルセデスはなにしに来たんだろう。


 ただ水差しを持ってきたわけじゃないだろうし。しかも朝食って言ってたなぁ。


「……メルセデス、俺と一緒に朝食取るつもり?」


 洗面所から顔を出して聞いてみると、彼は輪郭に沿って綺麗に整えられたさらさらの髪を左手でさっと掻き上げて鼻を鳴らす。


「僕と食事するのが不満だとでも言うつもり?」


 え。なんでそうなるんだよ。


「……いや、『出来損ない』と朝食なんてどういう風の吹き回しかな、と」


 洗面所から出て肩を竦めると、彼はつまらなそうな顔をした。


「君さ……自分にもう少し誇りを持ったら? 『出来損ないのリヒト』なんて言われてるのにへらへらしているからクルーガがつけ上がるんだよ」


『ふむ。なかなか的を射ているな』


 ちゃっかりベッドに座ったリリティアが言葉を重ねる。


 ……誇りね……。だとすると、俺と食事するのは誇りを傷付けることじゃないと思ってくれたんだな、メルセデスは。


 そこに、トントンとノック音が響き、扉の向こうから声がした。


『お食事をお持ちしました』


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