リリティア③



――ピシッ



「!」


 黒瑪瑙オニキスの像の胸――なにかが突き刺さっていた『痕跡』を中心に小さなひびが走り、巨大な扉がオオオ、と低い唸りを上げて震え出す。


「な、なんだよ、これ……うっ」


 俺は思わず左腕で鼻を押さえた。強烈な腐臭が、震える扉の向こう側から漏れてくるのだ!


 全身が強ばって、本能は逃げろと警鐘を鳴らす。


 俺は像と扉に視線を釘付けにしたまま後退ると、寝かせていたアルを再び担ごうとした。


 瞬間……俺の視線の先、黒瑪瑙オニキスいばらと女性の像が蒼く光り輝いて――。


「何故ッ――私を贄になど――!」


 光からこぼれ出た『彼女』は、がくりと膝を突くと同時に絶叫する。


「⁉」


 ――もう、本能でしかない。


 俺は黒い光を放ち始めた扉から彼女を遠ざけるために、アルをいったん下ろし駆け寄った。


 自分でもどうしてそんなことをしたのかわからない――けど、放っておくわけにはいかないって思ったんだ。


「に、逃げるぞ! 早くッ!」


「……⁉」


 彼女は腕を掴んだ俺を見て、紅色のフードの下――大きな蒼い瞳を見開く。


「立て! 走れ、早く!」


「わ、私に触るな――ッ」


 しかし彼女はものすごい形相で俺を振り払い、俺から逃げるように身を翻して――硬直した。


 その目の前で扉が――開こうとしていたのだ。


「……そんな」


 震える声が彼女からこぼれ出る。


「そんな、そんな、何故……!」


 溢れ出る腐臭、そして隙間から這い出してくる黒い靄。


 ――駄目だ、このままじゃ!


 俺は弾かれたようにアルシュレイを背負い、怒鳴った。


「なあ! よくわからないけど、早く逃げるぞ!」


「…………」


 彼女は、絶望に染まった青い顔で振り返る。


 そして俺が背負うアルに目を止めると、突然胸元に掴み掛かってきた。


「うぐっ、止めろ! なにするん――だよッ」


「下ろせ! 早く! ……なんてことだ、呪いだなんて誰が……お前ッ、『見たことはないが』王族だろう⁉ 責任を取れッ!」


「な、なんだよ責任って――おい! アルに触るなってば!」


「うるさい! 助けたければ己が身を差し出せ!」


「……ッ! 差し出せばアルを助けられるのか――⁉」


「なにを言っている――! 当たり前だろう! これは白薔薇ヴァルコローゼが――ああもうっ、早くしろ! やるのか、やらないのか!」


 その瞬間、扉の隙間から溢れ出た黒い靄が渦となって俺たちを取り囲むのを見た。


「あ……う……」


 音はしない。


 だから自分の漏らした声と浅い息遣いが大きく聞こえて、足が竦むのに拍車をかけた。


 ぞくぞくと背筋が疼き、体中のうぶ毛が逆立ったような感覚が奔った。


 ……たぶん、俺はかなり混乱していたんだと思う。


 だってそうだろ? アルが倒れていたと思ったら、こんなところでよくわからないまま怒鳴られているんだから。


 俺はアルを床に下ろし、ありったけの声を張り上げた。


「わかった――なんでもするッ! だからアルを……アルシュレイを助けてくれッ!」


 ――俺が叫んだ、その瞬間。


 彼女は紅色のケープを払いのけ、大きく両腕を広げた。


「お前が助けるのはそれだけではない! 受け止めよ! 己が身を器として呪いを封じ込めることあたわずは、この国の滅びと知れ!」



カッ――



 眼も眩むほどの光が弾ける。


 同時に左手が熱を帯び、知らず喉の奥――腹の底から絶叫が迸って、俺は膝を突いた。


「――う、ぐ、あああアァァ――ッ!」


 それはさながら灼熱の業火。


 左手が……焼かれているみたいだ――!


「あぐぅっ、う、ぐうううぅ――ッ!」


 俺は右手で左手首を押さえ付け、床に額を何度も擦り付けながら唇を噛み締め――呻く。


 そうでもしていないと気が狂いそうなほど、左手が熱い。


 そのとき、のたうち回る俺の歪んだ視界に、俺の異母兄弟――第一王子のアルシュレイがぐったりと倒れているのが映った。


 彼の右半身はどす黒く変色し酷い腐臭を漂わせ、脂汗が白銀の髪を額に貼り付かせている。


 さらに彼の体からも黒い靄が溢れ出して渦を巻き、どんどん俺の左手に集まってきていた。


 扉から噴出する黒い渦が俺たちを包んでいく。


 満ちているのは嗅覚を奪うほどの腐臭。


 息を吸って吐く、ただこれだけのことが、あり得ないほどに難しい。


 こんなものが城の下に埋まっていたなんてゾッとする。


 これが白薔薇ヴァルコローゼの女神の加護を受けた国だって? 笑わせるよ。


「なにが、なにが神聖王国だよ――ッ、なにが――白薔薇ヴァルコローゼの女神だ……!」


「…………」


 思わず吐き捨てるしかできなかったけれど、そんな俺を彼女は煌々と光る――比喩なんかじゃなく本当に光っている――蒼い瞳でじっと見下ろしていた。


 ……熱い。熱い――。


 紅色のケープをはためかせる女性に、俺は燃え上がりそうな左手を伸ばし――。


「俺は『出来損ない』だけど――……アルは違う。だからアルだけは……」


 ――それだけを絞り出し、意識を……失った。

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