リリティア②

「嵌められた……?」


「鏡の、白い薔薇に――鍵を」


 ところが、アルはそこまで言うと突然糸が切れたようにプツンと意識を失ってしまう。


「お、おい! アル……アルシュレイッ!」


 半身が『腐敗』しているアルに、訳がわからず何度も呼び掛ける――けれど、そこに。


「キャアアァァッ!」


 耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。


 振り返って見れば、どうしてこんな時間にここにいるのか――扉を開けたひとりの侍女が両手で口元を覆い、目を見開いている。


「……頼む! 早く、医者を――」


「ヒッ――!」


 俺が大きく右手を振ると、恐怖に染まった顔で侍女が後退る。


 ……俺の手には腐敗したアルの体液がべっとりと付着していたのだ。


 しまった、と思ったときには遅い。


「キャアァッ! 誰か、誰か――ッ!」


 侍女は再び悲鳴を上げながら逃げ去ってしまった。


「ああ、もう……」


 アルは「僕たちは」嵌められたと言った。そして「逃げろ」とも言った。


 つまり、俺はいま『誰か』によってアルシュレイを襲った濡れ衣を着せられようとしている――ってことだろう。


 俺は瞬時に考えを巡らせる。


 後継者争いなんて無縁だと思っていたけれど、『誰か』がアルを狙ったのは間違いない。


 どうせ『出来損ないのリヒト』になら簡単に罪を被せられるとか――そんなふうに思ったんだろう。


 まさか罪を被せようとしているのがあの侍女ってことはないだろうけど、このまま罠に嵌まれば最後……俺もアルも助かるとは思えない。


 なら――俺が選ぶ道はひとつだ。アルを助けるために、ここから逃げないと……必ず!


「鏡の白い薔薇に鍵だな、アル……!」


 アルが言ったんだ、絶対に意味がある。


 おそらく騒ぎを聞き付け、すぐに人が集まってくるはずだ。


 俺は時間を稼ぐために扉を閉めて鍵を掛け、さらに家具を投げ付けるようにして適当に塞ぐと、姿鏡を探った。古めかしい姿鏡は壁に備え付けられた大きなもので、黒い縁にはいばらと白い薔薇の装飾が施されている。


 その一番上にある大きな白い薔薇に触れた俺は、花片の奥に小さな穴があることに気付いた。


 必死で鍵を差し込むと……当たりだ!


 カチリと小さな音がして鏡がゆっくりと横にずれ始め、同時に、下へ下へと続く階段に備え付けられた松明がポツポツと灯っていくのが見えた。


 奥は先が見通せないほど深く、俺は思わずごくりと喉を鳴らす。


 こんな仕掛けがあることが衝撃だったけど、いまはそれどころじゃない。


「――行くぞ、アルシュレイ」


 鍵を引き抜いて懐にしまうと、俺はアルの横に膝を突き、彼の左腕を自分の首に回してその脇の下に無理矢理体を入れる。


 それから爪先でぎゅっと床を踏み締めて立ち上がり、アルを半ば引き摺るようにして階段を下り始めた。


 後ろで鏡の扉が締まる音がしたけれど、どうせ戻るつもりはないから。


 俺は階段の先だけを見据え、振り返ることはしなかった。


「――頑張れアル。ここから逃げたら、すぐに医者に診せてやるからな――!」


 あとはただ、ひたすら懸命に――額に汗を浮かべたアルの熱と、その右半身から漂う腐臭を感じながら――階段を下りた。


 通路は綺麗に大きさを揃えた黒い石が幾重にも積み上げられた造りで、松明の炎がつるりとした石の表面に映り込んでいる。


 次々と松明に火が灯ることから機能しているのは間違いない。


 もしかしたら神世の技術かもしれないな……その時代には信じられないような力があったらしいし。どんな仕組みなのか、アルなら喜んで調べただろう。


 籠もっていたどこか埃臭い空気がひんやりと俺たちを包み込んでいて肌寒く、自分の足音が耳に付く。


 不安にはなるさ。でも、止まるわけにもいかない。大丈夫、なんとかなる。きっと!


 …………そうやって己を奮い立たせ、どれくらい下りただろう。


 ようやく階段の終わりがやってくる。――そこは、礼拝堂のようだった。


 そんなに広くはない正方形の部屋で、正面には振り仰ぐほど巨大な扉とそれを塞ぐ形で黒く艶めく彫刻がある。


 その手前には横長の石の台座が設置されていて、左側にはもうひとつ小さな扉。


 壁際には俺の背ほどもある燭台がいくつか置かれ、何本もの蝋燭が立てられていた。


 ――蝋燭の揺らめく炎は、俺とアルの影を躍らせている。


 ぞくぞくするほどの静寂のなか、俺はとりあえず台座に歩み寄りアルをなんとか横たえた。


 硬くて冷たい石の上にアルを寝かせるのは忍びないけれど、まずはここから逃げる道を探さないと。


 ……扉は正面に聳える巨大なものと左側の小さなもの。


 けれど、俺はその巨大な扉を塞ぐ『彫刻』に思わず目を瞠った。


「……なんだよ、これ……」


 まず目に付くのは縦横無尽に絡み合う、黒く艶めく黒瑪瑙(オニキス)の太い棘(いばら)。


 そしてその棘(いばら)に抱かれ、磔にされた――まるで生きているかのような生々しい像が一体。


 ……ケープを纏い、そのフードを被った女性の像だった。


 半ば扉に埋もれるようにして俯き、胸には――なにかが刺さっていた『痕跡』が見て取れる。


 アルはここを知っていたのか? 神聖王国にしては不気味すぎるだろ――。

 これはアルの好きな『禁忌』の分野に違いない。


 俺はそう確信しながらも、怯えた獣のように身を縮こませ――そろりと足を踏み出して像に近付いた。


 服の皺、揺れる髪。閉じられた瞳にかかる睫毛の一本まで精巧に作られている。


 この礼拝堂は像とその後ろの扉を奉っているようだけど……なら、これは誰なんだ?


 綺麗な女性なのは見てわかる。だけど、なんで磔にされた形になっているんだろう……。


 まるで生きているみたいだし……触ると温かいんじゃないかな――。


 ふとそう思って、俺はそっと右手を伸ばし像の頬に触れた。


 ……勿論、温かいはずがない。


 だけど。ひやりと冷たく固い感触が指の腹を伝わったとき――――それは、始まったんだ。

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