第2章 その6

「御主人、これは……」

 テーブルに前足をかけ、その皿に目を丸くしている妖狼が戸惑っている通り、寿が仕上げたのは実に見目麗しい冷やし中華だった。匂いがおかしければ、この狼が苦悶しているだろうし、俺も恐る恐る匂いを嗅いでみても、実にかぐわしい。まるで高原の朝、深呼吸した折に鼻を潤す清涼感。麺もわずかばかり黄色になっているがこれは卵麺にしているからだろう。準が混ぜ込もうとした謎な隠し味とは違うらしい。

「寿、これ……」

 俺は目の前の冷やし中華を指さしながら、死神の顔を見上げた。

 そこには実にふてぶてしく、してやったりの顔があった。

「さあ、タカムラ。食ってみろ」

「ああ、そうす……」

 言いながら箸を持った瞬間である。俺の言葉を遮るものがあった。準が俺の口に御札を張ったわけでもない。羅が俺より先に平らげてしまったわけでもない。いわんや、寿が皿を下げてしまったわけでもない。俺、準、羅は同じことを思って動きを止めていたのだった。

「なんで、錦糸卵とキュウリとハムが動いてるんだ?」

 麺の上でそれぞれの食材が海中に漂うイソギンチャクのように動き出していた。

「白魚の踊り食いというのがあるだろう。新鮮さは何よりも舌を喜ばすだろ。だから、死神の力を使って冷やし中華に新鮮な風を吹かせたのだ」

 姿勢からして恐らく誇らしく胸をはっているのだろう。強調される身体的個所に全く変化がなかったので、よくは分からなかったが。

しかし、誇るべきことではなかろう。ハムからは豚の、錦糸卵からは鶏の忌の際の鳴き声がかすかに聞こえ、キュウリからはさめざめと泣き声が聞こえる。なんで、キュウリの声が聞こえるんだ? 舌鼓や踊り食いレベルの問題ではない。

「どうした、タカムラ。箸が止まっているぞ」

 当たり前である。羅がドン引きしているくらいである。豚やら鶏やらを仕留めるであろう狼がである。

「さあ、タカムラ。躍らせろ、お前の舌を躍らせろ」

 皿を持って俺に詰め寄る寿。先程と同じ光景である。となれば、次の展開はまたしてもこの冷やし中華が俺にダイブしてくる……。

 が、食堂に響く高笑いがそれを打ち消した。しているのは一人しかいない。準英である。

「何が可笑しい。呪術師」

「可笑しい以外にありますか? そんな動的な食べ物ではないでしょう、冷やし中華は」

 いや、ツッコむ所はもっと違うところだと思うぞ。

「見た目の段階で拒絶された風情が、この目で見ても堪能できる進化した冷やし中華を嘲笑するとはおこがましいにもほどがある」

 ほどがあるのは寿もなのだが、言っても聞いてもらえないというより、分かってもらえないだろう。

「そんな死界から蘇ったようなものを食事として出すなど私が許すとでも思っているのかしら?」

 先までのうっぷんを晴らすとばかりに、準は指間に二枚の御札を挟んで今にも投げつけようと構える。こんな所で封印だとか除霊だとかの生業を全うしようというのか。

「よかろう。嘲笑した罰をくれてやる」

 寿ものこぎり鎌を構える。

「ちょっと待……」

 椅子をずらし、立ちあがろうとして、立ちあがれなかった。いやすでに一か所は血流が充足して立ち上がっているのだが。急速に顔面が熱くなるのが分かった。赤面と言っていい。

「どうした御主人、体調でも悪いのか」

 俺の血を狙っている狼とはいえ、羅が心配してくれるのはうれしいのだが、俺の開いた両脚に身を乗り上げないでもらいたい。なぜなら、羅の顔の間近に赤面化させた原因があるからだった。

「篁、熱でもあるのか?」

「やはり、呪術師のゲテモノが悪影響したのか」

 準と寿の均衡状態を解除できたのはいいが、関心を持ってもらいたくない点に二人の関心が注がれて、いてもたってもいられない。すでにたっ……まあ、みなまで言うまい。

「大丈夫だから」

 舞い上がっているわけでもないが、動転している折は条件反射よりも光速に防御の姿勢を取ってしまう。すなわち座ったまま前かがみになってしまったのだ。 

「篁、そこが原因か?」

「生死を司る私が呪術を切ってやろう」

 いま俺にとっての大問題はその生死ではないとツッコんでいる余裕はない。羅がガン見している、海底火山の隆起のような、とある箇所をあからさまにしようと、二人してジャージを脱がしにかかっている。それを防がねばならない。

 どうしてこうなったのか皆目見当がつかないが、人生十六年で前代未聞に毅然として敬礼をしているであろう相棒の姿は、見なくてもどうなっているかは判然とする。

「まさか、私の液体がお前を刺激したのか?」

「私以外にお前を満たせることは出来んだろう」

 準も寿も字面だけ見れば至って俺の状態を探ろうとしてのことなのだが、一旦血流が良くなったら、もうアレな意味にしか聞こえてこない。情けない思春期男子。

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