昔 東京の片隅で 第8話 I LOVE YOUー2

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第8話


              ■


 ミズキから久しぶりにメールが届いた。

 今度の土曜日、家でしゃぶしゃぶパーティをしようかと思ってます。

 来ませんか。

 あの渋谷の夜、ミズキの秘密を知ったぼくは、少し悶々としていた。

 もうミズキとは、会うのはやめようと思ったほどだ。

 でもこんなメールが届くと、胸に広がった疑惑のかげりは消えて、

ぼくはふたつ返事でミズキに、了解の返信メールを送るのだった。



               ■


 山手線大崎駅から徒歩十分。彼女が住むマンションはその一画にあった。

 八畳ほどのワンルーム構造で、天井にベッドが吊り上げられている。寝るときだけ、そのベッドが降りてくる仕掛けだ。

カセットコンロに火を入れ、肉と野菜が煮えるまでぼくたちは、ビールで喉をうるおした。

 やがていつものようにミズキの面白おかしい話が始まり、ぼくたちは笑い合った。もうぼくの心に、あの日のわだかまりはなかった。



      

                ■


 やがてふと、話題が途切れる。

 ミズキはビールで酔った顔をして、ぼくを覗き込む。

 そして携帯を取り出して、なにやら指で操作して、その画面をぼくに見せた。

 その画面は、ぼくが彼女に送信したメールだった。

 発信者は『ユウくんA』になっている。

 そうか。ぼくは、ユウくんAだったのか。



                ■


 知らん顔してくれてて、ありがとうね。

 わたしだって、気づいていたよ。

 ユウくんCから来たメールを、あなたが見てしまったこと。

 ミズキは箸でしゃぶしゃぶをつつきながら言う。

 でも見えなかったふり、してたんだよね。

 そのとき、わたし、思ったんだよ。

 ユウくんって、ほんとうに優しいんだってね。



                ■


 少し沈黙があった。

 ぼくは心の中でつぶやいた。

 ほんとうはぼくは、ちっとも優しくなんてないんだよ。

 ただあのときぼくは、どうしていいか分からなくて、知らん顔してたでけなんだよ。

 ミズキはイタズラを思いついた子供のような目をして、ぼくに訊ねる。

 もしかしてわたしに、AからZまで彼氏がいると思ったなかぁ。

 二股とかお笑い芸人のミマタかと思ったかなぁ。

 ぼくは爆笑した。ミズキとの会話は、これだから面白い。



               ■


 わたしね、とミズキがビールを飲みながら言葉を続ける。

 わたしが幼稚園の頃、大好きだった男の子の名前がユウくんだったの。 

 でもそのユウくんはとっても悲しいことがあって急にいなくなってしまったの。

 ミズキはそこまで話して、視線を宙に泳がせた。

 それは当時を回想している姿に、ぼくには思えた。

 ミズキは言葉を続ける。

 そのときわたしは、心に決めたことがあるの。

 今度好きな人ができたら、その人をユウくんって呼ぼうって。

 ミズキはビールをごくりと飲み干して、今度は照れくさそうに

言う。

 そう思って出会ったのが、今、わたしの目の前にいるユウくんAなの。

 ミズキは何か言おうとするぼくをさえぎって言葉を続ける。

 ユウくんCはねぇ、本名がユウジなの。

 でもあいつはお調子ものだから、わたしは勝手にあいつをユウくんCって呼んでるの。

 もちろん、ただのお友だちで、彼氏じゃないんだよ。

 わたしが彼氏だと思っているのは。

 ミズキは急に黙った。そしてつぶやいた。

 今、目の前にいるユウくんAだけなんだよ。



                ■


 ぼくは舞い上がってしまった。確かにぼくのイニシアルは『A』だ。だからぼくはみんなから『ア』で始まる名前で呼ばれているんだ。

 その『A』がミズキにとっては、ランキングの『A』でもあったんだ。

 これは嬉しい偶然だ。

 ぼくはミズキを引き寄せ、唇を重ねようとした。

 けれどミズキはまるで魔法を使ったかのように、ぼくの唇から逃げる。

 そしてミズキは突然敬語を使って、ぼくに話しかけてきた。

 ユウくんは、ムーンフラワーという伝説を知ってますか。

 ぼくが首を横に振ると、ミズキは言葉を続けた。

 ムーンフラワーという花は夕暮れの砂漠に、わずかな時間だけ咲く花なんです。

 でもその花は地中に深く根を下ろしているので、決して枯れることなんてないんです。



                ■


 ぼくは言葉を捜すため、少し黙った。

 するとミズキはぼくの言葉を待たず、はにかみながら、

 「先にシャワー浴びてきますね。五分過ぎたら入ってきてください」。



                ■


 東京砂漠、という言葉がある。

 ここをその東京砂漠にたとえるのならば、ミズキは今夜、ムーンフラワーになるとでもいうのだろうか。

 ぼくはミズキが消えたバスルームを見た。

 そして天井に吊り上げられたベッドを眺めながら、これから始まる甘い時間を思った。




                                   《了》




 


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