第19話 孫六の記憶①
もうかれこれ十七年もまえになる。
ジイが芥溜孫六という名ではなく、京堂孫六として京堂の郷に暮らしていたころ。
重く、強烈な記憶が、頭の奥底に刻印された。
忘れたくても忘れられぬ。
十七年という時間は、血気さかんな荒武者を白髪の老いぼれに変えうるには十分な歳月だった。
百年の孤独を過ごしたような気もするが、つい昨日起こった出来事として鮮明に思い出すこともできる。
季節は夏の終わり――
あの日は、朝からからりと晴れた戦日和だった。
京堂孫六は、馬の背にまたがり、瞑目していた。
黒毛の愛馬とおなじ漆黒の当世具足。
右手に手槍の
頬には稲妻にも似た古傷。
場の気を鼻からスンとひと息に吸いこむ。
身をつつむ当世具足がきつく感じられるほど胸が膨らんだ。
踏み荒らされた夏草と土の芳醇な匂いが鼻腔に留まる。
それに混じって鼻をツンと突く悪臭がした。
二百五十有余名の男たちが、身から発散した脂汗の臭いだ。
「うむ、今日の戦場もよい悪臭がする――」
孫六は一人、天を仰ぐ。
突き抜けるように青い。
雲が風でちぎれて鷹揚に流れる。
鳶が高くで輪をかき、ピーヨロピーヨロと暢気に啼いた。
目線を地上にもどしてニ丁先の前方。
強ばった顔でこちらをうかがうがおよそ二百人ほどを、端から端まで眺めた。
「フン……かたや我ら京堂衆は――」
肩越しに苦楽をともにしてきた味方五十人の勇ましい面々を左右に見渡して、ニヤリと満足げに嗤った。
ふたたび胸を膨らませる。
「腰抜け上山の奴らが応じるとは到底思えぬが――」
一瞬ためをつくったあと、吐息を一気に開放させた。
「やァ、やァーッ!!」
雷鳴のごとき大音声が八方に弾け、人の間を高速に迸った。
「遠からん者は音にも聞けぇ! 近くば寄って目にも見よーーッ!」
野太い武者声が空気を引き裂き、立ちあう者すべての耳朶に突き刺さる。
「これなるは京堂騎馬衆大将の京堂孫六! お手前がたのなかに、この首をとって手柄にせんとする気骨者はあるか!? いざ、尋常に勝負ーーッ!!」
孫六の名乗りに呼応して味方が一斉に咆哮をあげた。
猛者たちの獣にも似た雄叫びは、ザラザラと空気を震わせ、敵陣に地響きを伝わせる。
対する上山勢といえば、京堂衆の四倍にあたる二百人がいてもすっかり気圧され、
「あれが、音にきく京堂の
「噂どおりすごい迫力だ……」
横の顔を見あって一斉に一歩下がった。
昨今、近隣の武家のあいだでは、こうして噂されている。
「随一は京堂の雷六。次は
なぜ孫六が雷六と呼ばれるようになったのか、理由はよくわからない。
こうして戦のたび雷鳴のような大音声で名乗りを上げるからか、または頬傷によるものか、京堂家の家紋が雷鼓にある三つ巴であったからか、あるいは孫六の手槍の号が
孫六の初陣は数え十五のとき。
萌賀の郷との国境にある
兄の制止も聞かずに両軍がにらみ合う中央に単騎躍り出て、
「やァ、やァーッ!! 遠からん者は音にも聞けぇ! 近くば寄って目にも見よーーッ! これなるは京堂孫六! そちらにおわすは音に聞く十文字槍の
とやらかした。
十文字槍の藤兵衛といえば、当時無双と目された剛の者。
当然に、
「ほう、その気概たるや結構結構。活きのよい若造が出てきたものよ。殺すには惜しいがここは戦場。よかろう、承った!」
と出てきて一丁置いて対峙した。
敵味方関係なく固唾をのんでシンと見入る。
左右から両者が馬を駆け、一点に向かい衝突した。
そこにいた誰もが、血気にはやった若武者が十文字槍の餌食になる様を想像した。
ところがー―
勝負は一瞬。
たった一合でついた。
歴戦のつわもの藤兵衛とはいえ若き孫六の突貫の勢いに気圧されたものか、十文字の槍先が少しばかり狂って左頬の肉と皮をかすめた。
かたや孫六の雷電は、具足を突き破り、心の臓を貫いて串刺しにしていた。
急に背が軽くなった藤兵衛の馬が、勢いそのまま真っすぐ駆けてゆく。
顔を真っ赤に染めた孫六は、手槍を立てて藤兵衛の亡骸を高々とかかげ、
「この京堂孫六! 十文字槍の藤兵衛殿、討ち取ったりーー!」
と雷鳴のごとき大音声を八方に発し、誇らしげに顕示した。
心優しき兄は弟の無事に安堵して、白目をむいて落馬したものだった。
ともかく京堂の雷六という異名は、京堂家に仕える武者にとって誇りであり、他家からは畏怖の象徴とされた。
その雷六から一騎打ちの申し出を投げられた上山の陣では、
「まさか、誰も出ないわけにもゆくまい」
「しかし相手はあの雷六であるぞ。誰が出るというのか?」
「うむ……」
ヒソヒソと相談がつづいていたが、とうとう誰も出てこなかった。
京堂の兵たちがやんやと嘲笑する。
「そちらから国境を侵しておきながら、一騎打ちにすら応じられぬとは。なんたることか臆病者め!」
「上山に兵なし! ワハハハハッ。あるのは屁のような者ばかりなり」
それでも上山の侍大将たちは、俯いたまま無言でいる。
上山の雑兵たちが軽蔑まじりに馬上を見る始末。
もはや五十対二百の数的有利など意味をなさず、戦うまえから勝負が決していた。
「フン、はじめからやる心意気がないのであれば、とっとと帰ればよいものを――」
してやったりと孫六がほくそ笑む。
トンと愛馬の腹を蹴り、ゆったりとした並足で前に出た。
その背を後方から見ていた
三十騎ほどの騎馬武者団が、待ってましたといっせいに躍りでてくる。
彼らは駆けながら矢印の陣形を成して行った。
京堂家は上山や下川とくらべて規模が小さい。
にもかからず、京堂家中が戦で負けることなく独立を保ってこられたのは、幼少から共に過ごしてきた武者たちの強い結束と「京堂流騎馬兵法」による。
京堂流騎馬兵法の縁起は古い。
およそ三百年ほどまえ、
かの蒙古襲来のさい、元の大軍と会戦したなかで考案された。
よく調教された駿馬を駆り、強弓、長柄、刀をもって高速の集団戦術をもちいる。
味方少数、敵方多数を前提にしているので、まさにこうした戦場を得意とした。
下総の地侍だった
それが京堂の郷のはじまりである。
後方から駆けてきた騎馬武者たちが、まえをゆく孫六と合流した。
孫六を頂点として美しい矢印型が形成され、等間隔に整然と並び駆ける。
「雑兵どもは馬脚で蹴散らせ。狙うは兜首、侍大将のみッ!」
「「応ッ」」
膳助が天に向かって
孫六が腰を浮かせて槍を脇にかまえる。
つづく京堂騎馬衆も呼応して、同じ態勢にはいった。
それを真正面に見た上山の雑兵たちは怯え、我先に逃げ出す。
一騎打ちに応じなかった侍大将らの指揮にしたがうはずもなく、陣の配置が雪崩をうって崩れた。
こうなってしまえば京堂衆の思うまま。
突貫を受けた上山の陣は、紙を裂いたように脆く真っ二つとなった。
孫六は侍大将の一人を標的に定める。
「おう、そこにいたか!? 兜首!」
野太い声で射すくめられた武者は、ビクッと固まって顔面蒼白になり、あわてて馬首を返した。
「おのれ往生際が悪いッ。このうえ逃げるつもりか!?」
孫六は愛槍を肩に振りかぶり、勢いよく投げつけた。
槍は一直線に空を切って、逃げようとした兜首を背から串刺しにした。
まさしく稲妻のごとき投てき。
「ガッハッハ、それ見たことか。それが敵に背を向けた不心得者の末路である!」
孫六は槍を手にとって亡骸ごと振り回す。
混乱する敵兵のなかにそれを投げ入れた。
「おのれ、雷六!」
主を失った供回りたちが槍の穂先を下から突きつけた。
「その気概、よし!」
孫六の槍がブゥンとうなる。
風にあおられた稲穂のように片っ端から槍先をなぎ倒し、馬上から薪割り打ちを縦に落とした。
「ぬんッ!」
鈍い音と乾いた音が混じり鳴る。
真上から叩かれた者の兜がへこみ、頭蓋が割れ、それごと胴にめりこんだのだ。
孫六の雷電は大身槍であるうえに、柄の芯に太い鉄棒が仕込んである。
通常の槍よりも遥かに重いので、上から叩かれたらたまらない。
突けば具足ごと胴体に風穴を空けてしまう。
討たれた者の亡骸は、まるで稲妻に打たれた後のようになった。
痛みを感じながら走馬灯をまわすいとまもなく、ほぼ即死だ。
孫六が雷神の如く次つぎと落雷させるかたわら、京堂騎馬衆は十騎一組、三手に分かれて混戦のなかを自在に駆け巡った。
馬上から放たれた弓善助の矢が、兜首の手足や尻を的確に射抜いてゆく。
上山の兵たちは散りぢりに分断され、火事場のネズミのように逃げ惑った。
この日。
腰抜けの上山家にしては、少し粘ったほうだろうか。
幾度目か知れない両家の会戦は、京堂家が始終主導権をにぎったまま、上山が退いて夕刻に終わった。
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