第18話 遠駆けに行こう②

 旧下川領の国境を過ぎ、駒姫がますます元気になった。

 いつもより声音が一段高くなって、ますます賑やかになった。

 虎清が知らない下川の名勝と名物を、あれやこれやと得意げに紹介してくれる。

 うしろから二人を見守っていたジイは、好々爺顔で微笑む。

 虎清とジイにとって初めて見る駒姫の歳相応の姿であり、房にはよく見知った顔だ。

 駒姫は、あの戦からこのかた上山の城中にあって、


「下川の郷里がどれほど荒れてしまっただろうか――」


 と心配していたものだが、まったくの杞憂であったとも知った。

 下川家が領していた頃と変わらないのどかな風景。

 領民が田畑で農作業にいそしんでいる。

 かつて甲斐武田家に臣従していたころは、武田が大きな戦をするたび下川家も参陣を迫られた。

 となれば領民の男子が足軽としてかりだされる。

 十数年まえに何度かあった上杉との戦などは、やたらと激しかったもので数多の犠牲をだした。

 下川家と領民にとって、見返りのない負担をしいられたのも否めない。

 しかしながら今では、上山家が界隈を統一したことによってそれがなくなった。

 じつのところ領民は安心して暮らせているのかも知れない。

 駒姫の目には領内が以前よりも平穏で活気があるように映ったので、少しばかり寂しいような、情けないような心持ちにもなる。


「虎清様、ひとつおたずねしてもよろしいですか?」

「なんなりと」

「細い水路が増えたように思います。以前はここまでなかったかと」

「はい、よくぞお気づきで。あれは兄上が進めているものです」

「兄上様……龍清たつきよ様ですか?」

「左様。兄上の家臣たちは田畑の経営に詳しいのです。兄上は一癖ある人物ではござりますが、農民の暮らしへの思いは、家中の誰より強いものがあります。曰く、下川領にはまだ未開墾の土地が多く、さらに作付けと領民を増やせるであろうとの由。また、ああして水路を伸ばすにつれ、下川の皆様とも次第にうちとけていると聞きおよんでおります」

「そうなのですか……それはよかった。わらわも嬉しく存じます」


 うしろで聞いている房にとっても意外な話だった。

 龍清といえば側室腹の子。

 とりわけ萌賀に対して憎悪を燃やし、虎清におとらず残虐な一面をもつ性分とも聞く。

 今のところ上山家中では、農村の整備については龍清主従、城下と商人のとりまとめを虎清主従とする分担が自然とできているのだという。

 いっぽうで房は、なぜあの戦において上山があれだけの兵力を動かせたのか、やっと疑問がとけた。

 それは領内の貫高かんだかと領民が増えて把握が正確になっていたゆえのこと。

 下川が甲斐武田家に振りまわされ、昔ながらの大雑把な領国統治をしているあいだ、上山ではこうして着々と若き血が台頭して統治を充実させていたのだ。


「すべてはあの者が大局の読みを違えたせいだ。下川家中の道を誤らせた罪は重い――」


 房が手綱をもつ拳に力をこめて唇をかむ。

 ジイはその横顔を憂いげに見ていた。 

 やがて、晶蓮の滝がある山の麓まできた。

 山の中腹までは馬で乗り入れられたが、お目当ての滝へ行くには急峻な山道を徒歩で登らなければならい。

 足場もすこぶる悪い。

 今年で齢五十後半をむかえたジイはうっそうとした山道を見上げ、にわかにくたびれた年寄り顔で渋りはじめた。


「いやはや、これは……この老骨の弱った足腰には難儀。それがしはここで待っておりますゆえ、若と駒姫様のお二人でお行きなされよ」

「なんだ、ジイよ。まだ老けこむ歳でもなかろう」

「いえいえ、これはとうてい無理筋にござる。年寄りの辛さが若にはまだわからぬでしょうがこうしたもの。どうぞおゆるしくだされ。房殿、老骨は久々の遠駆けで疲れたゆえ、ここに残って介抱をしていただけるとありがたいが……」


 虎清は困って苦笑いを浮かべ、房の顔をうかがった。

 房がコクリと頷く。


「私は構いませぬ。どうぞ姫さまのことをお願い申し上げます」

「そうですか。では申し訳ないですがジイの相手をよろしくたのみます。近ごろは昔語りが過ぎますが、どうぞつきあってやってください」

「はい、かしこまりました」


 ジイはさっそく手ごろな岩をみつけ、どっこいしょと腰掛けて膝をもんだ。

 

「いやぁ、若。お供できず申し訳ございませぬ」

「なんの。無理をさせて悪かった。しばしゆるりと休むがよい。さて駒姫さま、参りましょう」

「はいッ」


 駒姫は尻尾を振って餌を待つ子犬のようだった。

 手をひかれながら虎清の後をついて行き、白樺と草花が明るく茂った山道のなかへ消えて行った。

 背を見送ったジイが、鼻から穏やかな息をもらして頭を振る。


「やれやれあのお二人。こうして眺めていると義理の親子というより、まるで若き夫婦めおと。老い先みじかい老骨の目には眩しく見えて仕方がない。もし現世うつしよが斯様な乱世でなければ、お二人はまったく異なった間柄だったのであろう」

「…………」

「おお、おお。房どのも疲れたであろう。ここに掛けられたらよい。握り飯でも食べながら、すまぬが年寄りの話相手にでもなってくだされ、ガハハッ。こんな足腰が弱った死にぞこないでもちゃんと腹が空いてしまう。だから食べないといけない。難儀なものじゃて。さて――」


 持参してきた包みを膝のうえで広げた。

 丸い握り飯が紫蘇しその葉うえでコロコロと並んでいる。

 ジイは岩のような手を丸め、太い指で窮屈そうに拾いあげると、房の顔のまえにそっとさしだした。


「めしあがれ」

「いただきます」


 房が頭を下げて両手に受けとる。

 あとはそれぞれ無言のまま、真っ白な塩むすびを頬張った。

 味付けはいたって簡素なものだが、しっかりと塩がきいている。

 噛みしめるたび、米の甘みが口のなかに広がり、鼻から紫蘇の香りが抜けて行った。


「美味いであろう?」

「はい、とても」

「当然じゃよ。儂の生まれた郷で獲れたものゆえ。ほれ、もっと食べるがよい。女中にたのんで多めに作ってもらったから、まだまだある」

「ありがとうございます」


 房は遠慮なく二つ、三つと静かに頬張った。


「うむ、結構結構、よい食べっぷりじゃ。男子も女子も、まずは食べること。それが肝要。腹が減ってはよい考えも浮かばぬゆえな……」


 なおいっそう目尻の皺を深くして、ジイが穏やかに微笑む。


「これは年寄りのとおい昔話にござる。儂には幼くして亡くした娘がおりました。大きくなっていれば、ちょうど今ごろは房どのぐらいであったろうか。戦場を走りまわっているうち、嫁を迎えるのがうっかり遅くなりましてな。歳遅くにできた娘というものは、それはそれはたまのように可愛くて可愛くて、愛おしくて愛おしくて……。もし生きていれば、娘とこうしていたのやも知れぬ、などとさっき思いましてな」

「…………」


 ジイは腰をフンと伸ばし、ふたたび遠くの景色に目をやった。


「おお、今日は本当によき日と絶景かな。儂はこの郷里の眺めがまことに好きじゃ。今年も豊作であろうか」


 瑞々しい緑に覆われた山々と、その裾野にたまって広がる郷邑が見渡せた。

 もっと遠くでは霞が白くたなびいている。


「――この方角にはたしか、萌賀の郷がありましたな。ちょうどあの山の向こうがわになるだろうか」

「……はい」

「房どのは下川のお方であるから、萌賀衆についてはもちろんご存知であろう?」

「…………」

「あの萌賀の郷で萌賀衆が暮らすようになっておよそ四百年。そして萌賀衆を統べていたのが下川家に仕える武士もののふ萌賀歳三ほうがさいぞう。その歳三には、姫があったと聞く」

「…………」

「その名を――芙裟姫ふさひめ。親譲りの文武の才を備え、女子でありながら萌賀流兵法を深く学んだ。しかも容姿端麗であったともいう。姫のことをご存知か?」


 房は口のなかにあった飯を飲みこみ、冷たい声音でさえぎった。


「存じ上げております。ですが、そのお方は先の戦で死にました」

「うむ、そうか……」


 しばらく二人の間で沈黙がながれ、木々をわたるコマドリやコルリの歌声が森の奥で響いた。

 ジイは背を小さく丸めて嘆息をもらす。

 そしてためらいながら、言葉を一つひとつ拾いあげるように、野太い声で訥訥とつとつと語りはじめた。


「房どのは、萌賀の郷のさらに向こうがわ、かつてそこに京堂きょうどうの郷があったのをご存知か?」


 房の表情がサッと強ばる。


「……はい、存じ上げております」

「そうか。儂はな……上山家に仕えるまえは、その京堂きょうどう家の一門であったのじゃ」

「き、京堂の!? しかしながら京堂家はッ――」


 房はここに来てから初めて、ジイ――京堂孫六きょうどうまごろくの顔をまじまじと直視した。

 左頬から側頭にかけ、稲妻のように走った浅黒い古傷。

 目元、頬、口元に張りついた深い皺は、その心の奥底に沈めた深い悲嘆を代弁しているように思えた。

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