第13話 情事である①

 駒姫は、口をふさがれていた。

 それは晶蓮の滝の水がはいった水筒ではない。

 あの日、思わず見入ってしまったいろい唇。


「武家は戦場で誇りたかく戦い、平時は慈愛に満ちた人であるべきと存じます――」


 とよどみない口調で理想を語り、敗軍の残党である己にたいして優しい心づかいを差し向けてくれた唇。

 そう、虎清の唇だ。

 はじめは何がおこったのかわからず混乱していた。

 が、ぴたりと重ねられた柔らかな熱と、しっとりとした湿度が唇の薄い肌でわかってきたとき、


「これが口づけというものか――」


 とやっと納得した。

 御姫様抱おんひめさまだっこをされた駒姫は、そのまま有無を言わさず虎清の部屋まで連れてこられた。

 わずかに残された正気と声をふり絞って、


「虎清様……駄目です。人に見られますから」


 と虎清の心をうかがってみたが、


「余人の目など、何が恐ろしいものか。今宵は駒がいてくれたら、あとはよい」


 とあっさり言い切られてしまったので、駒姫のささやかな抵抗はすぐに断たれた。

 夕暮れ時の城中は、夕餉の仕度のためにあわただしかった。

 廊下で誰にも出くわさなかったのは幸いだったといえる。

 万が一誰かに目撃されていたら、大騒ぎになっていたことだろう。

 いまは部屋で二人きり。

 たそがれ時を迎えた。

 周りに人の気配はなく、しんと静まりかえっている。

 ぺたんと尻をつけてへたりこむ駒姫のまえに、赤い空を背にした虎清が無言で立っていた。

 その様はとても幻想的で、錦絵のように美しく映える。

 逆光によって表情がはっきりと見えなかったので次におこることが読めず、駒姫はどういう顔と振る舞いをしたらよいものか不安になった。

 すがるように名を呼ぶ。


「虎清……様?」


 すると虎清が着物をガバリとはだけて、逞しい上半身をさらした。


「ハッ……」


 駒姫は息を呑んだ。

 男の筋骨を目にしたのは、べつにこれがはじめてというわけでもない。

 下川の城にいたころ、権之丞と若き武者たちが諸肌をさらして相撲をとる姿や、井戸端で汗を拭いて身を清める姿をみたことがある。

 だが駒姫にとって、虎清のそれはまったく別物だった。

 細身の体のそこかしこに刻まれた筋骨の溝は、木彫りのように鋭利で深い。

 遠慮もなく呆然と体の起伏を目でなぞるうち、駒姫はじんとお腹の下らへんが熱くなるのを感じた。

 緩んで開いていた腿と腿を貼りあわせ、足の指先まで力をこめてみる。

 汗をかいてしまったのか、尻の肌が少しばかり湿っていた。

 どれもこれも未知の感覚だらけで一人戸惑っていると、ふわりと虎清が舞いおりてくる。

 片膝をついて無言のまま、姫の顎を指先でクイと持ち上げた。

 すでに駒姫の身のなかには抵抗する余力や意識といったものはなく、ただなすがままなされるがまま、虎清の動作に順じるしかなかった。

 かすかに茶色味を帯びた瞳が、こちらをまっすぐ見つめてくる。

 あらためて近くで見れば、巧みな絵師が細い筆先で描いたような目だった。

 迷い、恐れ、陰り。

 あらゆる邪念を切り離して描かれた筆致。

 胸が騒いだ。

 不安や恐怖とも違う。

 たとえるなら、胸の奥底にある岩窟の壁から、染みでて滴る透明の湧き水。

 指先で拾って舐めてみると、このうえなく甘い。

 それが溢れて小川になり、川へ注ぎ、濁流となる。

 甘い湧き水を飲みこみきれなくなった駒姫は、濁流に足元をすくわれ、渦にもまれながら深くふかくへ引きこまれた。

 とうとう上と下もわからなくなって溺れかけている。

 苦しい。

 どうか今すぐこの手をつかみ、誰かに救ってほしい。

 いいや、誰でもよいというわけはない。

 いま目の前にいて、まっすぐ見てくれているこの人に。

 上山虎清――

 ためらいながら駒姫がさしのべた小さな右手を、虎清の左手が力強くつかんだ。

 と、そのとき。


「ン……」


 唇と唇の肌が、一枚に重ねあわされた。

 甘美――

 なんと甘美なのだろう。

 駒姫は長い睫毛を垂らしてゆっくりと目を閉じた。

 すると、甘みの奥行きが限りなく広がってゆく。

 味わいが己の体のなかで膨張しているのか、それとも己の魂が飛び出して掌中に三千世界を収めたのか、そんな感覚がした。

 ついさっきまで感じていた息苦しさなど、跡形もなくきれいさっぱりと消え去ってもう忘れている。

 いまの駒姫の六感は、虎清だけしか知覚できない。

 虎清の唇が駒姫の唇をやさしく撫でてくれた。


「ああ……まるで、溶かし食べられているようだ」


 駒姫も菓子を舐め溶かすように、夢中で虎清の唇を味わった。

 もっともっとと求めるうち、自然と舌の先と先が邂逅する。

 最初は遠慮をしたが、ほどなくしてたがいの姿を確かめあうように絡みついた。

 はたして駒姫の口のなかに虎清の舌がおとないを入れたのか、はたまたその逆だったのか、いまとなってはわからない。

 はじめて知る禁断の味。

 緑の森の奥にあった甘美な蜜が湧き続ける大木。

 二人は両手の五指をからめて共に抱きつきながら、恥じらいも忘れ、過去と未来すら忘れ、わけあってペロペロと欲求のまま舐めた。

 しだいに舌の感覚が麻痺してきて、たがいの境界も曖昧になってきた。

 気がつくと駒姫は横になっていて、二人の体が折り重なっている。

 じわりと覆いかぶさってくる穏やかな重みがとても心地よい。


「嫌ならば逃げてもよいが、このままここにいてくれ――」


 と体全体で伝えられているような気がした。

 もちろん駒姫の思考のなかに逃げるなどという選択はなく、尽きることなく溢れでてくる甘い蜜の味に、ただただ夢中になった。

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