第10話 駒姫の記憶①
駒姫は、まさか下川の家がなくなってしまうとは、まったく想像がおよばなかった。
上山の兵が国境をおかしてきたと聞いた時には、またいつもの小競り合いがはじまったのだろうぐらいに房と語り合っていた。
これまでもそうしたことが年に一度か二度はあったので、主従一同が馴れていた。
そのたび鬼権左が手槍を小脇にかかえ、手勢をひきつれ嬉々と出陣したもの。
そして半日もかからず退けて帰ってくる。
あとは飲めや歌えの酒宴が夜中までつづいた。
「あれらはまるで雑兵」
「権左様のお姿を見るやいなや、風に吹き飛ばされた塵芥のように我先に争って逃げおったわい」
「じつに弱い。毎度物足りぬ。山賊めらのほうがよっぽど歯ごたえがあるというもの」
「左様。上山に
それが下川家中の定評であり、日常の風景だった。
ところが――
その馴れが災いしてしまったともいえる。
今回ばかりは勝手が違った。
上山が一千の兵をもって東西から攻めのぼってきたのだ。
周囲皆敵の状況にあって財力の乏しい上山家が一度に動かせた兵力といえば、多くともせいぜい三百から四百であったはずだ。
なのに一千。
心の隙を見事に突かれた。
対する下川家は七百。
しかも領内各地の要害に五十ずつ分散してあったので、家中の対応が混乱してすべて後手後手にまわった。
それだけではない。
上山と敵対してきた近隣の国人領主家に援軍を要請しても、静観の態度をきめこんで呼応してくれない。
いつの間にか上山が調略を仕掛けていたのだ。
下川家が従ってきた甲斐武田家に早馬を走らせてはみたが、五十里も離れているので少なくとも十日は自力でもちこたえなければならい。
いっぽうで支城や砦がつぎつぎと落とされ、上山の軍が城のすぐそこまで迫ってきているという。
孤立無援の城を守る兵は、老兵を含めてやっと四百足らず。
乱世の常として裏切りも出た。
想定以上の人々が城へ逃げこんで来たため、食料はあと五日分しかない。
駒姫と城の女たちは自ら食べずに子供たちへ分け与えていたが、上山によって城の井戸を抜かれてしまったので、とうとう今晩は飯すら炊けなくなった。
人がわりならぬ家がわりをした上山の勢いに圧され、とうてい十日も持ちそうになかった。
駒姫は城本丸の奥にある広間で、大勢の女子供たち、年寄り、房とともに籠もっていた。
皆が身を寄せ合い、未知の恐怖に震えている。
パンパンと弾ける鉄砲の乾いた音をはじめて聞いた。
バリバリと何かが割ける音がして、歓声なのか怒声なのか知れぬザラザラとした人の叫び声が地の底からわきおこり、共鳴してうごめく。
それが床板を震わせて尻から響いた。
外から伝わる音だけを聞いていると、まるでお祭りでもしているようだった。
すべてが非現実的なものに思える。
戦がひと段落し、夕餉の刻限になったころ。
父と母が駒姫を呼んだ。
房とともに大広間へ上がってゆくと、父と母が家臣たちとともに宴会を催していた。
ささやかな膳を肴にして皆が愉しそうに酒を飲み、手拍子をそろえて下川に伝わる謡を歌い、家臣たちが舞っている。
下川では主従一同が鮮やかな赤備えに統一しているので、戦場では勇ましく映えたし、こうした席では目出度い色に思えた。
駒姫は目を丸くして驚く。
「これは……なにごとですか?」
戦支度のままの父が、上座から手招きして呼ぶ。
「おう、駒。こちらへ来て父に酒を酌してくれぬか」
「まぁ父上、ずいぶんと上機嫌ですこと。今日の戦の首尾はよろしかったのですか?」
「もちろんだ。我らの気概に上山の者どもは慄いておったぞ」
「それは祝着至極にござります。ですが、父上も皆もずいぶんと手傷が……」
「むぅ、まぁな。ハハハハハッ。なんのこれしき。大丈夫じゃ」
「おや、叔父上のお姿が見えぬようですが?」
酒宴となればどこからともなく飛んでくる大酒のみの叔父、
随分めずらしいことがあったものだ。
駒姫はキョロキョロとしながら父にたずねた。
「うむ、あ奴はいつものように敵兵を何人も蹴散らしていたのだがな、不運にもとうとう力尽きてしまった。だが何も悲しむことはないぞ。奴らしい見ごとな最期であった。一回限りの今生を存分に使い果たしたのじゃ」
「なんと……そうだったのですか。それでこのような酒宴を開かれたのですか?」
「左様。いわば
父から城外の様子を見ないように言われていたので、駒姫は今日の戦況について何も知らなかった。
まさか鬼権左とあだ名された勇猛な叔父が、よりによって軟弱な兵ばかりの上山に討ち取られてしまうとは。
「今回は何かがまるで違う――」
駒姫はたちまち不安になって房と目をあわせた。
「これ、
「ハッ」
父が投げた明るい声に呼応して、末席にいた若武者が険しい面持ちでノシノシとやってきた。
血の色のように真っ赤な具足で身を包んでいる。
駒姫を見るなり破顔一笑さす。
「これは駒姫様」
「なんと権之丞ではないですか。そなたまで戦に出ていたのですか?」
「ええ、わが初陣にござる」
権之丞は鬼権左の嫡男、つまり駒姫の
歳は駒姫とおなじ十五だが、権左に似て体が大柄で荒武者の風貌だ。
フッと鉄のような、嗅ぎなれない臭いが漂ってきて駒姫の鼻腔を突いた。
父が権之丞の肩をガシャリとつかむ。
「権之丞。お前は明日の朝、戦場へ下りなくともよい」
「はッ!? なにゆえ……。拙者は足手まといでございますか?」
「否、それは違う。違うぞ。戦場に出たのだから、今の状況をわかっておろう?」
「は、はい……」
「ならばどうかわが娘をそばにいて守ってやってくれ。この戦はお主たちのようにあたら若い命を散らすような類ではない。旧き時の流れが、新しき時の流れにのまれるまでのこと。若い者は生きて命をつながねばならぬ」
「なれど――」
「よいなッ! これは命である。下川家の血を絶やしてしまってはご先祖様に顔向けができぬ。お前は儂を不孝者にするつもりか?」
「ぐッ……ぐぐ」
権之丞の肩をやさしくさすりながら、父は駒姫のほうを見て笑った。
「駒もわかってくれるな?」
「……はい」
父の言葉の意味するところが何であるか、駒姫はよく理解ができた。
小さな拳を固く握りしめて肩を震わせ、唇を深く噛む。
父は愛おしげに駒姫の頭をなでた。
「よしよし、わかればよい。すまぬがあとのことを万事頼むぞ。こうした時のため、父は駒に教えを授けてきたつもりだ」
「はい……よろずお任せくださりませ。きっと、下川の名に恥じぬよう、やり果せる覚悟にございます」
「そうか。そう言ってくれるか。ハハハッ、これであとは安心じゃ。なぁ、
父の横で母が頷いて愛らしく微笑む。
その笑顔は、駒姫とよく似ていた。
「はい。わらわも安心いたしました。御館様もどうぞお酒を」
「おう、これはすまぬ。どうだ? たまにはお前もやらぬか」
「まぁ、嬉しい……。では、今宵は遠慮なくいただきます」
父と母は駒姫のまえで手を結び、たがいの顔を見ては穏やかに微笑み、ゆっくりと酒を酌み交わした。
母が駒姫の手を引き寄せ、その上に乗せる。
駒姫は喉の奥底からさかのぼってくる涙と声を、息を止めて何度も飲み込んだ。
「わらわは一人娘だ。女の身であるが家を背負う血筋に立つ者である。なればこそ下川の家を守るため、身を賭してくれる家臣たちのまえでメソメソと涙するわけにはゆかぬ。兵の士気にかかわる。ならぬ、ならぬのだッ――」
鼻から熱い息が、塊となって荒く零れた。
翌朝のこと。
父と母が自害したとの報せが駒姫のもとに届けられた。
それを聞いた駒姫は微動だにすることなく、ただ一言――
「そうか」
と輪郭がはっきりとした低い声音で応じ、広間の上座に凛と端座していた。
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