第7話 虎清の記憶

 あれはまだ虎清が小さくて、吉松丸きっしょうまるという幼名だった六つのころ。

 この世で誰よりも強くて、やさしく微笑んでくれた母が、急な病で亡くなった。

 おなじ母から生を受けた妹のうららはまだ三つ。

 眠っているような母の亡骸をまえに、なにが起こったのか理解できていなかった。

 吉松丸の顔を見上げて無邪気な瞳で問うてくる。


「にぃに、なぜかかさまは起きてこないのじゃ? ねぼすけはいかぬといつも麗に言うてたではないか」

「母上は……もう起きてこない。これからずっと眠ったままだ」

「え? 昔ばなしとかうたをきかせてくれないの?」

「…………」

「おいしいお菓子をくれたり、麗を抱っこしてはくれないの?」

「そうだ……」

「えーッ!? それはいやじゃ、いやじゃいやじゃ。兄上、母上を起こして。兄上、母上を起こしてくだされ! ウワァーン、ウワァーン……」


 金切り声にも似た麗の泣き声が、耳朶を破らんばかりに響いた。

 ひきつけを起こして泣きやまない麗の身を吉松丸は抱えあげ、震える小さな背をさすった。


「大丈夫だ、麗。兄は母上からたくさん昔話を聞かせてもらったから、これからは麗が飽きたというまで兄が昔話を聞かせてやる。甘い菓子を堺からたくさん取り寄せてやる。麗が寂しくなったら、こうして兄が抱っこをしてやる。ずっとだ。兄と麗はずっと一緒だ。だから何も不安がることはない。麗も兄を置いてどこへも行くな」


 泣きつかれたのだろう。

 いつしか麗は吉松丸の膝の上で頬を真っ赤にして眠っていた。

 赤子のように指をくわえている。

 吉松丸は艶々とした頭を撫で、母がよく枕元で歌ってくれたわらべ歌を口ずさんだ。

 ほとんどの大人たちは遠巻きに憐れみの目を向けるばかりで、慰めの言葉ひとつもかけてくれなかった。

 吉松丸をまだ分別のない無邪気な子供だとでも思ったのだろう。

 見知らぬ大人たちが無遠慮に近くで噂しあっているのが聞こえた。


「おかしい。あまりに急すぎる。下川の萌賀衆の仕業ではないのか?」

「いいや、御正室様を殺めたところで下川には何ら利するところなどあるまい」

「ならば女遊びが過ぎる殿からおかしな病気をもらったのではないか?」

「それもあるまいて。あのお二人は不仲だ」

「まてよ、息子を嫡子にせんと目論む側室家の者が毒を盛ったのではないか?」

「うむむ……それは考えられる」

「よもやまさか、日ごろから御正室様を疎まれていた御館様が――」

「シッ、声が大きい。もそっと小さく話せ」


 やれやれ人とは、不幸を他人ごとだとおもえば好き勝手に勘ぐりを働かせるものだ。

 面々は残された幼い二人を心配しているわけでもなく、面白おかしく話して暇をつぶしているように見えた。

 幼い吉松丸と麗にとってみれば、こんな家中のことなどどうでもよい。

 ただただ柔らかな匂いと温かな存在が、フツと目の前から跡形もなく消えてしまったのだ。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 もはや母が手を握って導いてくれることも、膝の上に乗せて後ろから包み込んでくれることもない。

 吉松丸は麗の手を強く握り、歯をくいしばって涙をこらえた。


「兄はもう泣くまい。これから一生、涙を流すまい。その代わり麗が泣け。兄のぶんも存分に泣いておくれ。母上、見ていてください。必ずや吉松丸は、母上に代わり麗を守ってみせます。必ずや吉松丸は、母上が望まれた強き武者になってみせます」


 それにしても許せないのは、あの父だ。

 父の弾正は、永い眠りについた母の顔を見ようともせず、惜別と労いの言葉ひとつすらかけようともせず、こともあろうか母が身まかった晩は若い側室の体にふけっていたそうだ。

 あれから吉松丸――虎清は、心に封じ込めようとして何度も失敗してきた。

 あの日のことは、思い出したくないが忘れることもできない記憶。

 重い鈍色がたちこめる、冷たい一日だった。


「――いいですか、吉松丸。あなたは立派な頭領とうりょうにおなりなさい。頭領である前に、誇り高き男でありなさい。そして男である前に、慈愛に満ちた人でありなさい」

「はいッ。吉松丸はとうりょうになります」


 幼い吉松丸を膝に乗せ、母がよく言い聞かせてくれたことだ。


「でも母上、とうりょうとは何ですか? 平親真公たいらのちかざねこう源義経公みなもとのよしつねこうのように強いのですか?」

「ウフフ、さてどうでしょう。ですがそれは母がいま教えずとも、いずれ大きくなったら吉松丸が自然と知る時がきます。いいえ、そのほうがよいのですよ」


 吉松丸は母の横顔がとても好きだった。

 いつも左右の髪に金繍入りの群青色の髪留めを結び、それがヒラヒラと揺れている。

 母はどんな時も朗らかに笑い、毅然としている人だった。

 何かが起こって家臣や周りが浮き足立って騒ごうとも、変わらず真ん中に立っている。

 いつだったかこんなことがあった。

 滅びた家から上山家へ迎えた者たちが、野山へ散策にでた母と吉松丸の命を亡き者にせんと狙ったことがあった。


「おのれ上山弾正めッ。謀ったな!? 我らと同じ目にあわせてやろうぞ!」


 だが母はまったく動揺した様子もなく、鋭い声音でこう言い放った。


「憐れなり! 無力な女子とわらべを殺めるため、大の男どもが姑息にも徒党を組むとは。家を失い、武人としての誇りと人の心までをも失ったか? さぁ、斬りたければこの細首を斬って手柄にするがよい。さりとてわらわを殺めたとして、おのおのがたの旧家は元に戻らぬぞ。武家の名のみならず、このうえ誇りと心までをも失えば、なんじらはもはや人にあらず。志もなく三界さんがいをさまよう畜生道に堕ちるであろうッ」


 一喝された男たちは動揺した。

 手にしていた抜き身をもてあまし、たがいの顔を見てどうしたものか迷っていた。

 すると母は散策してきた足取りのまま、ゆったりとまっすぐに歩み、吉松丸は手を引かれて横について行った。

 男たちは母に気圧され、ジリジリと道が開いてゆく。

 やがて囲いを突き抜けてすぎたころ。

 母がゆっくりと振り向いた。

 それから慈愛に満ちた顔で微笑み、穏やかな声音で言う。


「さぁさ、そこでいつまでもなにをしているのです? 皆で城へ帰ってお茶でも飲みましょう。わらわが茶を点ててさしあげます。そうそう、ちょうど今朝がた堺から美味しいお菓子が届きましたの。ところが頼んでいたよりもたくさん届けられまして、どうしたものかもてあましておりました。楽しみは分け合う人が多ければ多いほど、よりよいものです。どうか手伝って頂けませんか?」


 吉松丸が振り返ってみると、男たちは供をするように距離を置いてゾロゾロとついてきていた。

 その先頭には、まだ体から血の臭いをプンプンとさせる武辺の荒武者だったジイこと、芥溜孫六あくどめまごろくがいた。

 なつかしく、とても愛おしい思い出だ。

 母が亡くなってからというもの、吉松丸は、それまで以上に武芸と学問に励んだ。

 朝早くから弓、剣術、槍、相撲、馬術の稽古に没頭し、夜遅くまで四書五経や孫子などの書物を読みふけった。

 吉松丸を鍛えてくれたのは何をかくそう、母から一喝されたあの男たちだった。

 勇ましい武者だった彼らが、吉松丸を頭領の器に足るよう熱心に鍛えてくれたのだ。

 下川家との決戦のあと、虎清はジイからこんこんと説教された。


「若、聞きましたぞ。なにゆえそのように無茶な真似をなされたか。単騎突貫などそれがしのように思慮が足りぬ猪武者がやること。これからの乱世を生きぬく頭領は、左様な狭い了見ではなりませぬ。よろしいか? ゆめゆめ今後はご自重なされるのですぞ!」

「ハハ、わかったわかった。次は気をつける」


 あの初陣で無謀にも鬼権左との一騎打ちを試みたのは、武者として生きるこれからの命運を占ってみたまでのこと。

 なにより虎清は、己が母の望みに足る男であるか否か、試してみたい衝動に駆られた。

 ここで死ぬならそれまでの器量と今生であったということだ。

 悔いなどない。

 憎き上山家の嫡男である虎清を、わが子のように親身になって鍛えてくれた家臣たちに感謝の意を戦場で表したかった、という思いもある。

 ならば家臣たちのうしろに隠れていては駄目だ。

 幼少から教えを受けたのは、そのような流儀ではない。


「目立ちたがりの嫌らしき男め――」


 陰口を叩く者が家中にあったとも知っている。

 それが何であろうか。

 余人が言いたいように言わせておけばいい。

 虎清は母のように毅然とした誇り高き存在に憧れ、追いつけぬあの背を求めて馬をかけたのだ。

 その先で虎清は、思いがけず尊いものを見た。

 一年半まえ。

 あの戦場。

 一千の血なまぐさい武者たちが取り囲む城の中から、一人のうら若き乙女が、なんと兵も伴わずに毅然と出てきたのだ。

 虎清はその光景に目を奪われた。

 身こそ華奢であるが、誰も彼女の魂を断つことはできない。

 たった一人の姫の覚悟に気圧され、殺気だった人垣がゆっくりと開いて行った。

 そう、あれはまるで――

 幼き日に見た母のように誇り高く、美しい横顔だった。

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