第6話 禁断の秘術である

 深夜。

 暗闇がたちこめる上山の城中。

 陰から陰へ、音もなくひらりひらりと飛び渡る何かがいた。

 房である。

 灯りをたずさえて警邏する者の姿もあったが、鍛え抜かれた忍びの術を用いる房に気づけるはずもない。

 とうとう難なく虎清の寝室の前へたどりついた。

 こともあろうか勤番の者は、廊下で正座をしたまま舟をこいでいる。


「なんと容易い。天敵の下川がなくなって緩んだか。土台、この上山家中は何につけても脇が甘い。兵がだらしない。なにゆえ下川はこのような奴らに敗れたものか……」


 房は懐から長い針を二本取りだし、指を深く折り曲げて両手に握り締めた。

 気配もなく、後ろから勤番に忍びよると、手にした針を左右からブスリと首に突き刺した。

 勤番はますます首が深く折れてズルズルと床に崩れおちた。

 殺したわけではない。

 快眠の経穴けいけつを刺激しただけだ。

 いまこの男の体のなかでは疲労回復の血が大量に生成され、全身に張りめぐらされた経絡けいらくをつうじて駆け巡っていることだろう。

 朝までぐっすりと安眠して、夜明けとともに自分史上最高の爽快な目覚めを味わうことになる。

 これぞ萌賀流兵法の真骨頂。

 人体にある無数の経穴を秘伝の長針で突き刺し、人の心身を意のままに内から操ることを可能とする。

 萌賀流には四百年の歴史があった。

 平安末期に伊勢平家いせへいけの台頭とともに京で興り、平家の滅亡を機に当地へ流れてきた。

 あの平清盛たいらのきよもりが当時としては長寿であったのも、萌賀流が陰で支えていたからだという伝承がまことしやかに囁かれる。

 なればこそ上山弾正のみならず皆が恐れた。

 単なる兵法ではない。

 天竺伝来の医術をとりこんだ活殺自在のわざ

 余人の目には不気味な妖術の類に映った。

 忍び足で寝室へはいった房は、室内に罠の仕掛けがほどこされていないのを確かめた。


「フン、あまりにも無防備すぎる。天井も床も普通の作りではないか」

 

 虎清はスヤスヤと穏やかな寝息を立てている。

 虎清も乱世に生きる男として幼少から鍛えられてきたので感覚は鋭いほうだ。

 ひとたび曲者が侵入したならば、たとえ熟睡していたとしても、途端に跳ね起きあがって亡き者にするところだろう。

 ところが房は空気を揺らさない。

 気配が残らず音もしない。

 天性の才を受け継ぎ、洗練された忍術のまえでは無力だった。

 房は虎清の快眠の経穴を手早く刺激した。

 これで虎清も朝まで「よき夢」を見ることになる。


「さて、ここからが大事だ」


 房は虎清のうえに肉厚な尻を乗せて馬乗りになり、虎清の寝顔を見下ろした。

 たしかにこうしてあらためて見れば、同じ女子としてわからなくもない。

 当地ではあまり見かけない品性をそなえた端正な顔立ち。

 体格は長身の細身ながら、こうして乗ってみるとわかる。

 まぎれもなく武者の体。

 純度たかく筋骨が詰まり、骨の髄まで武芸が染みこんだ人体兵器。

 しかも知略と勇気に富む。

 あの戦では、この虎清にまんまとしてやられた。

 だが――

 敵だ。

 一族を残虐に蹂躙じゅうりんした憎き男。

 子々孫々、末代まで絶対に許せぬかたき

 年ごろをむかえつつある駒姫が興味をいだいているが、ならぬ。

 この者だけは断じてならぬ。

 房は小首をかしげる。


「上山はボンクラ地侍の吹き溜まりだとばかり思っていたが、いったい誰がここまで鍛え上げたものだろうか。色狂いの弾正? まさか、それはあるまい。そもそもこの嫡男とあの父親は――」


 あまりにも不仲。

 折り合いが悪いどころの話ではない。

 じつの親子であるにもかかわらず何もかも真逆がすぎた。

 この城へ入ったとき、いつ内訌が起こってもおかしくない上山家中の実態に驚かされたものだった。

 怨恨を集める汚れ役と危険な役回りばかりを嫡男に押しつけ、家臣たちのまえで無遠慮に罵倒する当主など初めて見た。

 これでは虎清が家督を継いだとしても、ついて来る者はいないだろう。

 おそらく弾正は、不仲だった正室の子より、寵愛していたと聞く側室腹の子に家を継がせるつもりでいるのだろう。

 ゆえに房は駒姫から秘術についてたずねられたとき、頭のなかの琴線をピンと弾かれた。

 そうか、その手があった――と。

 女子とはいえ、やはり萌賀流四百年の血を受け継ぐ房のこと。

 瞬時におそろしい謀略を構想した。


「もしも秘術にかかった虎清がオスの本能のまま、姫さまを手篭めにしたらどうなるだろうか?

 弾正は楽しみにしていた姫さまとの初夜をよりによって嫌悪する息子に横取りされ、もちろん烈火のごとく怒るであろう。

 きっと父と息子のあいだで上山家中がまっ二つに割れ、風見鶏の小領主たちは保身のため各所で手前勝手に対立をはじめる。

 当地内外をひっくりかえす大騒乱に至る。

 そこで姫さまが領内静謐りょうないせいひつを大義に挙兵の檄を発すれば、雌伏の時を過ごしてきた旧下川の過激党のみならず、長篠合戦に敗れて今や家中がガタガタとはいえ甲斐武田の兵を招き入れられるはずだ。

 さすれば下川家の再興は確実。

 うまくすれば勢いのまま賊徒上山家を滅ぼすこともできよう。

 いざとなれば私が虎清と刺し違えればよい。

 何より本質として、城に閉じこめられて不自由な日々を暮らしている姫さまの恋心を一時的にでも満たし、かつ仇討ちまで果して悲しい運命から解き放ってさしあげられる。

 主人が望む望まぬに関わらず、家運を好転させてこその臣下であるはずだ。

 やらぬ道理はないッ――」


 そう心に決めてからは迷いがなかった。

 房は身をひるがえして虎清の寝巻きの裾をはだけた。

 こんもりと起伏した白い褌があらわになる。


「虎清め、覚悟するがよい」


 あやしく嗤って舌なめずりしたのち、房は下半身の経穴を次々と正確に突いた。

 下腹部、睾丸周り、腰、臀部――いずれも男の下半身を活発にさす経穴である。

 ひと通り終えたあと、


「さて、悪夢に慄くがよい。最後の仕上げだ……」


 懐から別な針をすぅと取り出した。

 こんどはさっきよりも糸のように細く、長い。

 房はしなやかに身をまきつけて虎清の体を横に転がし、首の後ろ側から脳に向けて針で深く突いた。

 さらに虎清の耳元に唇を寄せて囁く。


「駒は虎清様をお慕いいたしております。どうぞこの身をご存分のままに――」


 房が発したその声は、駒姫の声を模したものだった。

 その瞬間――

 虎清の体じゅうの血管という血管が浮き上がった。

 つま先から天頭まであらゆる筋肉が硬直して海老反りになる。

 そしてついに、朕の棒が褌を破らんばかりに勢いよく勃起した。


「よしッ、術がかかった」


 虎清は陸に打ち揚げられたさばのように、強い力で激しく暴れようとする。

 呻き声と物音が出てはいけない。

 巡回の者たちが集まってきてしまう。

 房は己の着物をはだけて諸肌をさらした。

 陰影のなかに白い肌とむっちりとした体が浮かびあがる。

 それから迷うことなく抱きついて、虎清の顔をたわわな乳に挟み込んだ。

 すると、虎清は次第に落ち着いて暴れなくなり、ふたたびスヤスヤと穏やかな寝息にもどった。


「ふぅ……やっと血の逆流がおさまったか。こ奴は尋常でなく血の気の多いようだ。しかし、それにしても――」


 さっきから股座に当たっているものを、ゆっくりとあらためた。

 ドクンドクンと脈を打って振動が伝わってくる。


「な、なんと……かつて見たことがない大業物おおわざもの。まるで滝を遡上して青天を衝くしゃちほこのようだ。生娘の姫さまではもてあますだろうか……」


 ふと、房は己の胸元が熱く濡れているのを感じた。


「ん、なんだ? 汗……いや、これは涙か?」


 虎清だ。

 夢でうなされた様子でいる。

 房の胸のなかで泣いているのだと悟った。


「母上……母上……ううっうううう……」

「なんと? これは笑止千万。母の夢を見て敵方の女の胸で泣いておるのか? いくら経穴を突かれて自制が崩壊したとはいえ、母様を思い出して童のように泣くとは情けない男め」


 先ほど房が突いたのは、自制をつかさどる神経へ通ずる経穴だ。

 普通の針では届かぬほど深く、繊細な操作を要する位置にある。

 房は虎清の自制を弱めて反射本能を優位にさせたのだ。

 萌賀流の術理では、自制と記憶を表裏の関係として説き、忘却を自制の一種とみなす。

 なぜなら即ち、通り過ぎてゆく喜怒哀楽を忘却して無に帰さなければ、人の心は崩壊してしまうからだ。

 おそらく今ごろ虎清は、過去と現在の記憶が混濁とした克明な夢を見ているはず。

 だから母のことを思い出して子供のように泣いているのだろう。


「人の母を殺めた外道でも、己の母は愛おしく思うか……おのれ、姫さまのためでなければ今すぐにでも殺してやりたい」


 房は虎清の背に爪を立て、唇を噛んだ。

 これから一刻ばかり、虎清は眠ったまま寝言をわめいて暴れる可能性がある。

 万が一異変を察知した家臣たちがやってきて途中で揺り起こされでもしたら、術の効果が弱まってしまう。

 また、経絡の急激な逆流を和らげるのは人肌の温もりだ。

 静かにさすにはこうして肌を合わせて押さえつけていないといけない。

 いくら秘術を効かすためとはいえ、憎き仇を抱いてやるというのは、房にとってみればひどく呪わしい時間だった。

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