第5話 房はくのいちである
駒姫の供をしている
可憐な駒姫の後ろで地味にひかえているので、日ごろは目立たないでいるが女ざかりである。
まだ少女の面影をもつ駒姫とは違い、成熟した女子の匂いをただよわせていた。
房が城内を歩いていると、長い垂れ髪を流して歩くうしろ姿を目で追う者もしばしばある。
「おい、あの女中は誰か? 下川の着付けをしておるようだが」
「ああ、あれはたしか、下川の姫のお付きであったか」
「よい女子だ」
「うむ……」
よく見れば容姿端麗。
尻は大きくて切れ上がっている。
特に乳がたわわだ。
駒姫も例外ではないが、下川の女子たちは上山の女子たちにくらべ乳が豊かだ。
下川領内にある
だからだろうか、下川では
胸の大きさを強調する着付けを伝統とする。
ともあれ、その装いを見ればどちらの出身であるのかがわかるので便利だった。
駒姫がなにかを思い出した顔にかわる。
「なぁ房よ」
「はい、何でしょう?」
「
房の眉がヒクリと動いた。
「――女子が男を意のままに操る術があると聞いたことがある」
「…………」
しばらく房は目線をおとしたまま沈思する様子でいたが、突と長い睫毛をもちあげて駒姫をまっすぐに見返した。
「ございます。あれは
「ほう……して、房はできるのか?」
房は無言のまま、コクリと頷く。
さっきまで憂鬱そうにしていた駒姫の顔が、にわかにパァーッと明るくなった。
「それはまことか!?」
「もとは仲たがいをしている夫婦のためにあった術でございます。私は母から伝授されました」
「そ……そそそれは、虎清さまにも効くのであろうか?」
「もちろんでございます。あの術にあらがえる男など、この世にはおりませぬ。もしひとたび術をかければ、虎清さまは我慢ができなくなって――」
「我慢ができなくなって……?」
駒姫が円らな瞳を輝かせ、ますます喰らいついてくる。
房はそのつづきを言いがたくなった。
「――コホン、子犬のようになついて姫さまと戯れることでしょう」
「な、なんと!? 子犬のように戯れる……。はぅ、それはすばらしい。そんな便利な術があるならば、なぜもっと早くに言わなかったのじゃ? さすれば今朝のようなこともなかった」
「萌賀流は門外不出、知りがたきこと陰の如き忍びの術。たとえ下川家の姫さまとはいえ、むやみやたらと明かすことは憚られます」
「そうか、そうであったな。――で、わらわは何をすればよい? 房が術を教えてくれるのか?」
房はひさびさに駒姫の屈託のない笑みを見た。
天真爛漫という言葉がぴったりの、見る者の心を明るくさせる愛らしい笑顔だ。
「詳しくはこれからご説明申し上げますが、姫さまが術をかけるわけではございませぬ。今宵、私めが虎清様に術をかけてまいります」
「おお……。だがそれは無理であろう。近習がずっと虎清様の周りを固めておるゆえ」
「フフフ、なんの。この城は下川の城に比べればはるかに備えが手薄でございます。虎清様の部屋へ忍びこむことなど私には造作もないこと。ほかならぬ姫様のため。この房めにおまかせくださりませ」
房はめずらしくニッコリと微笑み、駒姫の手をにぎった。
* * *
下川家の領内には、
そこで代々暮らしてきたのが萌賀氏の主従であり、当家では
房の父である
はたして萌賀流とはどのようなものであるのか、その全容を誰も知らない。
たとえば何らかの事変が起こったとして、だいぶあとになってみてからはじめて、あれは萌賀の仕業だったのではないかと思うようなことが多々あった。
ときに家中の危険分子を未然に粛清する。
ときに他家や市中にもぐりこんで諜略を遂行する。
またあるときは、金で暗殺をも請け負う噂まであった。
兵法は詭道なり――ともいうが、まさしく詭道の結晶が萌賀流兵法である。
上山家でも萌賀の手口によって殺されたであろう者は一人や二人ではない。
標的が女子供でも容赦なし。
すべては闇から闇へ。
謎は噂を呼び、噂は人心に恐怖をもたらす。
下川家を陽とするなら萌賀家は陰であり、両家は二百五十年ものあいだ表裏一体の関係にあった。
しかしながら因果応報というべきか、萌賀家にとってそれが災いした。
上山弾正は萌賀流を極端に恐れ、憎んだのである。
あの戦のときのこと。
弾正は萌賀の一族郎党のみならず、領民を女子供にいたるまで撫で斬りにしたうえ、郷をことごとく焼き払ったという。
凄惨な汚れ仕事を実行したのは、他ならぬ虎清と清虎衆の面々だった。
虎清の「野蛮な今呂布」という悪名は「萌賀のなで斬り」によって付けられたものだ。
その時の房は、駒姫の遊び相手を兼ねた供として城中に仕えていたので、故郷が跡形もなく壊滅したことを城で聞いた。
戦場に出ていた父がすでに討たれたことも知っていたが、たて続けに母と祖父母、弟妹、親戚を失ったことになる。
萌賀の一族で生き残ったのは房、ただひとりとなった。
だが不思議と涙は出なかった。
なぜなら隣に、父と母が自害して果てたのを知りながら、敵兵に取り囲まれた城で毅然と座している駒姫がいたからである。
駒姫はまだあどけなさが残る十五歳の生娘。
なのに涙一粒すら見せないでいる。
戦に敗れこそしたが、二百五十年続いてきた下川の歴史はまだ終わっていない、続いてゆくのだと房は思えた。
「房、まいりましょう。わらわは生き残った家臣たちのため、この身を捧げます」
「はい、どこまでもお供をいたします」
駒姫はスッと立ち上がると、艶やかな打ちかけの裾をスルスルと流して長廊下を渡った。
傷ついた兵たちが平伏して居並ぶ。
「姫様ッ」
「姫様ッ、申し訳ございませぬッ――」
男たちの嗚咽まじりの叫び声と、女たちのすすり泣く音が虚しく響いた。
城外へ出た。
ツンとした悪臭が鼻を突く。
が、駒姫は構うことなく前進した。
その姿はさながら、花見にでも繰り出すが如し。
房もうしろから従った。
駒姫が歩みを進めるたび敵兵は息を飲み、甲冑がカチャカチャと擦れる音だけをたてて真っ二つに割れて道をあけた。
曲輪の端から溢れて転がり落ちる者もあった。
なおも駒姫はまっすぐ歩いてゆく。
房はそのうしろ姿を見て涙する。
「このお方は尊い。並なみならぬ武門の血筋がそうさせるのか。家臣たちのためにその小さな御身を捧げらるるというのであれば、私はこのお方の目となり耳となり、槍となり盾となりて、この身を捧げよう。それこそが散華していった者たちの遺志を継ぐということに他ならない――」
あの時、房はそう決心した。
あれからもう一年半が過ぎた。
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