475.犬も歩けば
――気づけば、リリアナは未知の世界に立っていた。
ゴツゴツとした岩山の、切り立った断崖絶壁。
視界の果てには、墓標のように立ち並ぶ構造物が見える。聖大樹もかくやという巨大さで、遠近感が狂いそうだった。
遥か眼下の大地は、ゆらゆらと不気味に揺れている。――いや、大地ではない? どろどろとした液体が波打っている。
海だ――本能的に察した。これは原初の海だ。
「ここは……魔界?」
そうとしか思えなかった。
あまりにも世界の様相が違う。
天上、暗転した太陽から降り注ぐ、黒い光。
慣れ親しんだ『陽光』さえあり方が違うことに、リリアナは恐怖を覚えた。
――帰れなかったらどうしよう。
不意にそう思い至り、背筋が凍った。バッと振り返ると、自分を飲み込んだ、あの【暗黒の穴】が、音もなくそこにあった。
この世界にあってなお、周囲から浮かび上がるようにして異質。
(よかった、帰れそう……)
リリアナがホッと胸を撫で下ろした瞬間。
「こんにちは」
突然、穏やかな声。
「わぅ!?」
びっくりしすぎて、危うく断崖から落っこちてしまうところだった。
見れば、ポータルの陰から、ひょっこりと顔を出す――
顔――? いや、何だ……この……
燕尾服を着込んだ、杖……?
「やあ、驚かせてしまったようで申し訳ない。……転移門とは、また珍しい。久しく見ていなかったな。まさかまだ現存していたとは……」
小綺麗な燕尾服に、古びた杖がスポッと収まっている。首のところから杖が飛び出ているだけで、身体も手足もないのだが、透明な肉体があるかのようにしっかりと服に厚みが出ていた。
警戒するリリアナに、何食わぬ顔で――といっても顔はないのだが――歩み寄ってきたその『杖』は、しげしげとこちらを見つめてくる。……いや、目もないのだが、視線を感じた。
「本当に珍しいな。あなたのような人が…………いや、人、か……? ……うむ、人か……。あなたのような人が、魔界を訪れるのは。珍しいというより、初めてかもしれない」
「あなたは……悪魔?」
「いかにも。私は導くもの。【案内の悪魔】オディゴス」
空っぽの袖が勝手に動き、礼儀正しく、胸に手を当てて一礼する。
「私は普段、ダークポータルを通ってきた魔族に、相応しい道を指し示すことを生業としている。ただ今日に限っては、私の権能が、私自身をこの場所に導いた。あなたという来訪者があるからだったのだな」
クイクイと傾く杖。まるで、うむうむとうなずいているかのように。
――そういえば、アレクが魔界について話していたとき、この悪魔が話題に挙がっていた気がする。魔族が相性ぴったりの悪魔と出会えるように導く悪魔。
アレクがアンテに出会えたのも、この悪魔のおかげなのだと……
「さて、それでは早速、あなたにも道を指し示そう。あなたに相応しき道を」
「……いいの?」
反射的に、リリアナは尋ねていた。
「うん? 何がだね?」
「……私は、魔族じゃないけど」
せっかく相手がやる気なのだから、余計なことを言わなければよかったな、と少し後悔するリリアナだった。だけど、心身の調子が何かおかしい。思ったことがすぐに声に出てしまった。抑えが効かなくなっている……?
「構わないとも」
リリアナの懸念をよそに、オディゴスはあっけらかんと答えた。
「協定で、『魔族には可能な限り協力すべし』とされているけどね。カニバルが魔界の代表面をして勝手に決めただけだし、奴が概念化して久しいし、私は魔神のように責任ある立場でもないし、唯々諾々と従う義理はないね。それよりも、導きを求めている人が目の前にいるのなら、私はそれを優先する」
――リリアナは、思った。
「私、あなたと契約したいわ」
導き。それは今、リリアナが切実に欲しているものだ。
だけど、魔界でじゃない。現世でこそほしい。
――オディゴスを連れて、現世に戻りたい。
ただその一心だった。それ以外の細かいことは、何も考えずに言った。
「…………。私は、今」
リリアナの前に立つオディゴスが、ゆっくりと答える。
「あなたに、相応しき道を、指し示そうと、している」
せっかく案内しようとしていたのに、ふいにするようなことを言われて気分を害したのだろうか。
「あ……ごめんなさい」
「いや、違う。違うんだ」
しゅんと小さくなるリリアナに、オディゴスがふるふると首を振るように、本体を回転させる。
「そうじゃないんだ。私は今――この瞬間も! あなたに相応しき道を、指し示そうとしている……!」
オディゴスは、言った。
「わかるかね。私の権能が示している。あなたに相応しい悪魔は、
今、この場所に。
リリアナの、眼前に。
「ああ…………」
オディゴスが、溜息をついた。
それは、幾千年、幾万年の、気が遠くなるほどの年月の重みを滲ませる、深い深い溜息だった。
「ようやく……ようやく、見つけた」
改めて、向き直る。
「――お嬢さん、私と契約してくれないだろうか?」
すっと片袖を差し出しながら。
「私と契約すれば、あなたはもう、迷うことはなくなる。ただし、それは決して平坦な道を歩めるようになることを意味しない」
もう片腕を、自らの胸に当てながら。
「私が半ば自動的であるように。あなたもまた、好むと好まざるとにかかわらず、導きのまま突き進むことになるだろう。誰もが迂回するような悪路に、危険極まりない道に、そうと知りながら踏み込む羽目になるかもしれない」
「――だけど、それが、目的地につながる正しい道なのでしょう?」
リリアナは、微笑みながら答えた。
「――もちろんだとも。私の案内に間違いはない」
オディゴスも笑っていた。
「ただ、それだけではないぞ。あなたの前に、迷える人々がたくさん現れるだろう。そしてあなたは、彼ら彼女らを放っておけない。導かずには、いられなくなる。それもまた、決して楽ではない道のりだ」
「それも大丈夫」
リリアナは、ころころと笑う。
「――元からそうだから!」
そして、差し出されたオディゴスの片手を握り返した。
「……素晴らしい! ああ、私が今まで案内してきたヒトたちも……きっと、こんな気持ちだったのだろうなぁ……!」
もしもオディゴスに生身の顔があれば、咽び泣いていただろう。そう思えるほどに感極まった声。
「……お名前を、伺ってもよろしいかな、お嬢さん」
「あら失礼。リリアナよ。リリアナ=エル=デル=ミルフルール」
「いい名前だ。では改めて……リリアナ」
オディゴスの存在感が、ずんと重みを増す。
「【私は杖だ。あなたが心折れぬ限り、あなたを支え、あなたを導き、あなたに力を授けよう。どんな険しい道も、あなたがしっかりと歩いていけるように。案内の悪魔オディゴスの名において誓う】」
「【あなたが私を支え、力を授けてくれるなら、私も、私の前に現れる迷える人々を導きましょう。私の命が続く限り。リリアナ=エル=デル=ミルフルールの名において誓う】」
オディゴスから――力が流れ込んでくる。
リリアナが知る、どんな属性とも違う、異質な力が。
新たなる律が、指先まで染み渡っていく。
だがそれは決して不快ではなかった。
全てがあやふやな、この魔界においても。
視界が晴れ渡っていくような感覚があった。
それと同時に、感じる。
この身を、この魂を、あるべき方向へと導く、引力のようなもの――
「わかるかい」
オディゴスが親しみを込めて言った。
「これが、導きの力だ」
――そしてその引力は、リリアナの背後。【暗黒の穴】へと続いている。
すなわち、現世へと。
「さあ、行こう。我が契約者よ」
舞踏会に誘う紳士のような優雅さで。
「何処までも――世界の果てまでも!」
踊るようにして、オディゴスがリリアナの手を引く。
「そして導こう。迷える人々を」
穏やかに、晴れやかに、何よりも楽しそうに。
「あなたが望む
光り輝く未来へと。
「――ええ」
リリアナもまた、力強くうなずいて、それに応えた。
「行きましょう!」
そしてふたりは、門をくぐる。
現世で最高の素質を誇る魔力強者と、
魔界の黎明期からの最古参の悪魔が、
新たな導きを世にもたらすため――
ここに、降臨する。
――――――――
※わんこが暗い穴に突っ込んでいったかと思えば、クソいかつい棒をくわえて戻ってきたでござるの巻
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