471.新たな英雄
アウリトス湖の片隅、とある都市国家で――
厳重な警備の中、慌ただしい気配に包まれた民家があった。
「うぅぅ、うぅぅぅ……!!」
「大丈夫ですか」
「うぅぅぅぅ~~~!」
額に大粒の汗を浮かべる女性。傍らの神官が声をかけるも、答える余裕もない。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ……!」
お産用の安楽椅子に身を預けた女性は、どうにか呼吸を整えようと必死だ。
そう、彼女はアーサーの妻。そして今まさに、出産の時を迎えようとしていた。
――【アーサー】の子の出産は、ヒルバーン家が全力でバックアップする。家の警備や生活面での支援はもちろん、一線から退いた経験豊富な神官が何名もつき、陣痛が始まった時点で、鎮痛や治癒の奇跡なども惜しみなく使用される。
……もっとも、あまり痛みを抑えすぎると意識レベルが低下して出産に支障をきたすため、鎮痛はあくまで気休めにしかならないが。それでも、生命維持という点では文句のつけどころがない態勢で、どんな難産にも対応できる構えだ。
――緊迫した時間が流れることしばし。
「おぎゃあああぁ、おぎゃあああぁぁぁ!!」
昼下がりの民家に、元気な産声が響き渡る。
「おおっ! なんと元気な赤ちゃんだ!」
赤ん坊を取り上げた老神官が、弾むような声で言った。
「よかった……無事に……」
産まれてくれた。
背もたれに脱力して寄りかかったアーサーの妻は、自らの手で額の汗を拭う。
いくら神官たちの補助があっても、体力を消耗することに変わりはない。何より、
でも、これで、あの人が帰ってきたら、元気な顔を見せてあげられる……。
(――そうだ、名前、つけてあげなきゃ)
あの人と相談して、事前に決めてあった。
男の子ならテーサー、女の子ならテッサ。
「男の子ですか? 女の子ですか……?」
疲れの滲む、それでいて柔らかな安堵の笑みを浮かべながら、尋ねる妻。
だが。
「……そんな、馬鹿な」
「あり得ない、これは……!」
先ほどまでの和やかな空気から一転、神官たちは、深刻な――衝撃を受けたような表情をしていた。
「どう、したん……ですか……?」
まさか、何かあったのか。言いようもなく不吉な感覚に襲われながら、恐る恐る、尋ねた。
「…………」
顔を見合わせる神官たち。
赤子を抱いた老神官が、そっと、差し出してくる。
産湯で洗い清められ、あの元気な産声が嘘のように、すやすやとおくるみの中で眠る赤子――
あの人そっくりな金髪に、産まれた直後とは思えないほど整った目鼻立ち。
そして。
閉じられたまぶたの下でも、はっきりとわかる、
ぎらぎらと光り輝く、銀色の左目。
「【
震える声で、老神官は言った。
そっと、眠る赤子の左まぶたを、指で開いてみせる。
――言い逃れのできない、まごうことなき、銀の瞳。
「この子は――【アーサー】です」
……そんな。どうして。
「なんで……?」
かすれた声で、妻はつぶやいた。
知識としては、知っている。
だが理解できない。
できるはずがない!
「なんで……!! あの人は……!?」
だって、あり得ない、この子が【
「あの人に、何が起きたの!!」
悲痛な母の叫び声に、ふぇ、と声を上げた【アーサー】が、再び火がついたように泣き始める……
――ヒルバーン家の【アーサー】。
古代より、勇者王の血を継ぐ稀代の英雄。
だが、その生誕は、必ずしも、
祝福に包まれるとは――限らない。
†††
アーサー=ヒルバーン、カェムランの地にて戦死。
魔王子襲来、帝国軍潰走の報とともに、その訃報もまた、アウリトス湖一帯に静かな波のようにして広がっていった。
一般民衆は驚き、悲しんだ。ヒルバーン家といえば名門で、聞いたことがない奴はモグリだ。
地元に伝わる英雄譚では必ず名が挙がる勇者。感覚的には、有名な役者が死んだと聞かされたようなものだった。直接面識があるわけではないが、親しみのある存在。だから驚き、悲しんだ。
漁師や船乗りは、一段と悲しみ、嘆いた。水棲魔獣の脅威に日頃から晒されている彼らにとって、ヒルバーン家の勇者はまさに守護者であり、救世主だからだ。
特に現アーサーはクラーケンを退けたという逸話の持ち主で、さらには湖賊とグルになった吸血鬼まで討滅したという。湖の平和を守る英雄が、命を失った――船乗りたちの悲しみは、アウリトス湖よりも深い。
一方で、マフィアのごろつきや無法者どもは、鼻で笑った。「偉そうにしてた名家の勇者が、いい気味だ」「ザマァねえや」と。
しかし酒場などで不用意にそれを態度に出せば、このときばかりは、荒くれ者の船乗りたちに寄ってたかってボコられる羽目になった。
そして、一番の深い悲しみに沈んでいたのは、他ならぬヒルバーン家の関係者たちだろう……
――ヒルバーン本家の邸宅。
燦々と日が照る庭で、木剣を振るう幼い少年の姿があった。
汗にまみれても、歯を食い縛って、一心不乱に素振りをしている。
「……あまり根を詰めると、体に毒だぞ」
「……おじうえ」
声をかけられて、少年は手を止める。
聖教会の鎧に身を包んだ男が、少年にカップを手渡した。
「これでも飲んで、一休みするんだ」
カップに冷たい水を注ぐ。
水魔法で生み出された、キンキンに冷えた水――
「…………」
泣きそうな顔で、カップを見つめた少年は、一息にそれを飲み干した。
そして叔父にカップを突き返し、再び素振りを始める。
「ぼくは、強くならなきゃ、いけないんだ……!」
ぶんっ、ぶんっ、と。
無駄に力が入りすぎていて、お世辞にもキレのある動きとは言えなかったが。
――その目に浮かんだ執念の色だけは、本物だった。
「父さんが……まぞくに、やられちゃって……! 母さんは、へいきそうにしてるけど、ひとりになったら泣いてるんだ……!」
そういう少年も、涙を流しそうになっていた。
「ぼくが、父さんのかたきをうつ……! ぜったいに……!!」
びゅっ、と勢いよく振り下ろすが、疲れで握りが甘くなり、木剣がすっ飛んでいってしまった。
「あぁっ……!」
「……気持ちはわかる。わかるが、あまり無理をしてはダメだ」
溜息をついた男は、木剣を拾い上げて少年に手渡す。
「……うぅっ」
己が情けない、とばかりに顔を歪める少年。幼さには不釣り合いなほど、焦燥感にまみれた表情――
「焦るな。お前には魔法の才がある。だからこそ、こうして本家で早めに修行できているんじゃないか。だから焦ることはない……」
「でも……!」
「もう少し自分をいたわれ」
そっと少年を抱きしめて、ぽんぽんと汗だくの背中を叩く。
「お前の父さんも……アーサーも、お前が傷つくことは望んじゃいないさ」
きっとな、と落ち着いた声で。優しさと、深い悲しみをたたえた声で――
「うぅ……うぅぅぅ……!」
我慢できず、ぼたぼたと大粒の涙をこぼした少年が、木剣を強く握りしめたまま、ひしと叔父にすがりついた。
しばらくそのまま、胸を貸して、思い切り泣かせてやる。きっとこの子も、英雄の息子として、皆の前では気丈に振る舞っていたのだろう。特に母の前では――
その健気さが、また一段と涙を誘うとは、思い至らずに……。
「おじうえ……」
「うん?」
「ぼく、父さんに比べたら、ダメダメだよ。剣もへたっぴだし。お勉強も……そんなだし」
「うん」
「……こんなぼくでも、りっぱな勇者に、なれるかな?」
「……ああ。もちろんだ!」
男は、精一杯に微笑んだ。
「俺だって、
こんなこと言われたらかえって不安かもしれないけどな、と苦笑いしながら。
わしゃわしゃと、少年の――アーサーの息子の頭を、撫でる。
「【お前も、立派な勇者になるんだ】」
アウリトス湖に息づく、勇者王の末裔たち。
【――ヒルバーン家は、代々勇者の家系である】。
――――
※次回は(おそらく)聖わんこ視点です。
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