469.湖の"怪物"
――着水しても、水飛沫ひとつ上がらないというのは奇妙な感覚だった。
一切の抵抗を感じることなく、アーサーは水中に飛び込む。
そして眼前、自分の背丈ほどもある巨大な黄色の瞳が、ぎょろりと蠢いて。
『やあ、久しぶりだな』
なんだコイツは――と言わんばかりの視線。
次の瞬間、音もなくアーサーの背後から巨大な触手が絡みついてくる。
――そして、当然のようにすり抜けた。
いや、それだけではない。アーサーを構築する聖銀呪により、触れようとした部分が満遍なく焼かれ、ビクッと巨体を縮こませるクラーケン。
(これは恐ろしいな、生身だったら今ので絡み取られてた)
霊体なのでノーダメージだったが、アーサーをして反応できないほどの超スピードの攻撃だった。流石、水中では無敵と言われるだけのことはある。
ただし。
『無敵は今日で返上だ』
ここに、天敵が来る。
エクスカリバーを構え、真っ直ぐに突っ込むアーサー。水の抵抗はないのに、泳ぐ感覚で高速移動できる。どうせなら空もこんな感じで飛べればいいのに、などと呑気なことを考えながら、クラーケンの目を狙う。
アウリトス湖の都市国家群では、古くからクラーケンの解剖が行われてきた。ゆえに、クラーケンも他生物と変わらず、眼球の奥に脳があることはわかっている。
『ブチ抜く――!』
目を貫いて、そのまま脳みそにまで聖銀呪を流し込んでやる!
――が、敵もさるもの、本能的に危機を察知したのか、ブワッと真っ黒なスミを吐いて逃げの構えを見せる。
ゴーストゆえの感覚というべきか、スミで物理的に視界が塞がれても、その中に浮かび上がるようにしてクラーケンの存在を知覚できた。
なので追撃は問題ないが、逃げられるのはまずい。水棲魔獣に本気で泳がれたら、いくら水の抵抗がなくても追いつけるかどうか……!
これほどの巨体と凶暴性を併せ持ちながら、未知の脅威からは即座に離れる用心深さ。それこそが、このクラーケンを魔王たらしめるほどに成長させた、最大の要因なのかもしれない。
が。
『【
『【
『【
真っ暗に染められた水中を、まるで嵐のように銀色の雷光が切り裂いた。
『助太刀するぞアーサー君!』
レキサー司教たちだ。アーサーよりもさらに正確に、クラーケンの巨体に取り付く形で降下したヴァンパイアハンターたちが、一斉に雷の魔力を解き放ったのだ。
食い散らかされた小クラーケンのおこぼれに与っていた無数の魚たちが、一瞬の激しい痙攣ののち、水泡のように水面へ浮かび上がっていく。
もちろん、アウリトスの魔王とて例外ではない。
触手が縮み上がって、動きが止まる。
『【
不気味なほどの、銀色の輝き。
『【
眩い光を放つ刃が、巨大なクラーケンの瞳にめり込んだ。
ジャッ、と焼けた鉄を肉に押し当てたような音。
「――――――ッッッ!!」
水中が声なき声に鳴動した。
内側から焼かれた黄色の瞳が、瞬く間に、ボコボコと泡立って白濁していく。
レキサー司教たちの雷魔法を振りほどくようにして、巨体が急加速。全力の逃走、しかしアーサーはクラーケンに取り付いていた。
いや――
基本的にはあらゆる物体をすり抜けるゴーストだが、本人がその気になれば、床に立ったり座ったりもできる。移動するものに掴まることもできる。
――そうして取り憑いたゴーストを、物理的に振り払う術はない。
スミの切れ間から見えていた月光が遠ざかり、視界が完全に暗闇に染まる。水圧は感じ取れないのでわからないが、おそらく急速潜航しているのだろう。
今までは、それであらゆる脅威から逃れられたに違いない。
――だが今回の相手は、どんな悪霊よりもタチが悪い、聖霊だった。
『さぁ、すぐに楽にしてやる!!』
獰猛な笑みを浮かべたアーサーは、クラーケンの瞳にグイグイと刃を押し込み、自らもめり込んでいく。
さっさと脳みそを破壊したいのだが、魔獣はそこそこの魔力を持つ生物なだけに、体の中心に近づけば近づくほど霊体でも抵抗を感じるようになった。
なので。
仕方なく、エクスカリバーで
「――ッッ!! ――――ッッッ!!!」
想像を絶する苦痛――めちゃくちゃに、何本もの触手がかきむしるようにして、瞳を抉り取らんとする勢いで殺到するが。
全て虚しくすり抜け、ただ聖銀呪で焼かれていくばかり。
『【
相変わらず元気なレキサー司教たちの声も聞こえる。自分と同じようにクラーケンに取り憑いて移動しているようだ、楽しくなってきた。
そして――
終わりは、唐突に訪れる。
瞳の奥、白っぽいワタのような塊に聖銀呪が流し込まれ。
まっ黒焦げになった瞬間、糸の切れた操り人形のように、クラーケンは止まる。
と同時に、アーサーにまとわりついていた魔力的な抵抗も消え去った。魔獣が死亡し、魔力が雲散霧消したのだろう。
アウリトス湖で語り継がれてきた『魔王』、超巨大クラーケンの最期は、あまりにも呆気ないものだった。
『終わったようだね』
『ええ、お陰様で』
死骸をすり抜けて外に出る。レキサー司教たちもまた、水中に浮かんでクラーケンの死骸を見下ろしていた。
真っ暗な、どれほど深いかもわからない、湖の底――
アウリトスの魔王の巨体が漂う他、銀色に輝く、自分たちの姿しか見えない。
『流石にちょっと消耗した感じがしますね』
エクスカリバーをふわりと霧散させながら、アーサーは言った。
『ただ、アレクが言ってたような、精神的な摩耗? ってのは、自分じゃわからないですね。この調子だと普通にしばらく戦えそうです』
『私もだな。恐れていたほどには自我が擦り切れた感じはしない。眠くなってくる、という話だったか? 眠気もないな、むしろギラギラだ』
『自分もあんまりわかんないですねーそんな感じはしません』
『……おれはちょっとフラフラします』
一同の中でも、少し感想が分かれる。
『ふむ……なるほど』
レキサー司教がうなずいた。精神的消耗を訴えたヴァンパイアハンターは、アレクとの共闘にあまり乗り気でない――というか、『この死に方には納得できない』と強く主張していた者だった。
元が魔力強者なのは前提として、『いかに無理なく自然体で振る舞えているか』が聖霊化を維持し続けるひとつのポイントなのでは――? と。
アーサーとレキサー司教は、直感的に思った。口には出さなかったが。
『しかし、強力な魔法を行使した割に、あまり反動を感じないのが恐ろしいな』
ヂヂッ、と雷の魔力を循環させながら、レキサー司教。
『気づいたかね? この魔獣が息絶えた瞬間、魔力が流れ込んでくるような感覚があった。この魔獣の力を我々が
『うわー』
アーサーは我がことながら引き気味の顔をする。
『いかにもアンデッドっぽいや……』
『ぽい、というか、そのものだからな。むっ! ひょっとすると吸血鬼に取り憑いてやれば、逆に奴らの魔力を吸い取ってやることもできるのか……?』
『普通にブチ殺した方が早そうですけどね』
『はははっ、そうだな。違いない』
冷静なアーサーの指摘に、レキサー司教も苦笑い。
『……はぁ。なんともはや、遠くまで来てしまったものだ』
頭上を見上げ、レキサー司教が嘆息するように言った。
遠く――。距離的にも、存在的にも……。
『生身だったら間違いなく死んでましたね、これは』
後者のニュアンスには気づかなかったかのように、アーサーは興味深げに周囲を見回しながら答えた。
肉体があったら、途中で振り払われていただろうし、よしんば耐えきったとしてもこんな湖底まで引きずり込まれたら水圧でやられていた。
『あ! 変なカニみたいなのがいますよ! こんな深さにも生き物がいるんだ!』
『おお! こんなときでなければ探検と洒落込みたいところだ』
『暇な時間は地面の底に潜ってみるだけで楽しそうですね』
『それはいい。未知の洞窟などもあるかも……待てよ、この能力、地下に潜む吸血鬼狩りにもぴったりだな!』
呑気に会話するアーサーとレキサー司教を、他のヴァンパイアハンターたちは呆れ顔で眺めている。
いや――今の自分の境遇に、思い詰めた顔をしかけていた者も、ふたりの『いつも通り』っぷりに、思わず苦笑していた。
『さて、本当に名残惜しいが、そろそろ戻ろうか。アレックス君が気を揉んでいるかもしれない』
『そうですね。……司教は、彼のことアレクって呼ばないんですか?』
『ううむ。正直、迷っているのだが……私の中では、彼は……やっぱりアレックス君という感じがするんだ』
『なら、それでいいかもですね。問題なく通じるわけですし……』
『うむ……』
巨大クラーケンの死骸を残し、浮上していくアーサーたち。
……その後、水面に出たはいいが。
アウリトスの魔王は思いのほか長距離を移動していたようで、空を見上げてもドラゴンは見当たらず。
沖合だったので目印もなく、合流にとても苦労する羽目になるのだった。
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