454.祈りと呪いの狭間で


「――ええい、付き合ってられるか!!」


 泥まみれのジルバギアスが、憤慨したように立ち上がる。槍を握る手がわなわなと震えていた。


「お前が何と言おうとも! 俺は耐えられんぞ! お前のような英傑が、こんな……こんな下らない戦場で、老いさらばえて死ぬなど! 到底受け入れられん!」


 ――何を言っているのだコイツは。


 アーサーは、これで何度目になるかわからない、白けたような呆れたような気持ちになった。勇者と魔族が戦えばどちらかが死ぬ、そんなの当たり前だろう。首を獲られるか、老いて死ぬか、それがちょっと違うだけで。


 が、どこかヤケクソじみて叫んだジルバギアスが、あろうことかこちらに背を向けて、ダッシュで逃げ始めたのにはアーサーも目を剥いた。取り囲む騎士たちを薙ぎ倒し、包囲を突破しようとしている!


「……逃がすかァ!!」


 この期に及んで逃走だと! ふざけるのも大概にしろ!


 アーサーは銀色の盾を掲げ、叫ぶ。


「【戒めの鎖アリシダ・エンドロン!!】」


 アーヴァロンの一部がほどけるようにして鎖に変化し、獲物に食らいつかんとする蛇のように、魔王子の左腕に絡みついた。


「なに――!?」


 ガチンッ、とアーサーの左手の盾と魔王子の腕が結び付けられる。聖なる鎖が闇の輩の肌を焼き、ぎりぎりと締め付けて離さない。


 咄嗟に槍で切り払おうとする魔王子だったが、鎖化したアーヴァロンには傷ひとつつけられなかった。片手で切断するにはあまりに頑丈すぎる。神官たちが使う普通の【戒めの鎖】の魔法とは、比べ物にならないほど強固。


 それもそのはず、この鎖こそが【戒めの鎖】の原型となった伝説なのだ。たとえ強大な魔力を誇る魔王子であっても、容易に逃れることはできない――!


「【水泡フスカーレス!】」


 ダメ押しとばかりにアーサーは水弾を放った。魔王子の足元に立て続けに着弾し、土壌がグズグズな泥溜まりに変えられていく。これで踏ん張りがきかなくなり、鎖の切断がますます難しくなった。


 仮面の奥、忌々しげに赤い瞳でこちらを睨む魔王子に、アーサーは目尻や頬に深いしわを刻みながら獰猛に笑い返す。


「逃がすな!」

「今だ、殺れ!!」

「うおおおおおおッッ!」


 そこへ、雄叫びを上げた勇者や剣聖たちが次々に斬りかかり、魔王子の防護の呪文に全力の一撃を叩き込んでいく。がりがりと削られる魔力の障壁、アーサーもまた鎖を収縮させ、魔王子と互いに引き合うような形で一気に間合いを詰める。


「チッ――」


 心底鬱陶しそうに舌打ちした魔王子は――



 一切の躊躇なく、槍で自らの左腕を切り落とした。



「【転置メ・タ・フェスィ】」


 間髪入れず、おぞましい闇の魔力が込められた槍を手近なヴァンパイアハンターに突き入れる。ひらりとかわそうとした若き吸血鬼狩りの青年だったが、ギリギリ回避が間に合わず、足先をチッと穂先がかすめてしまう。


 途端、水が詰められた革袋を殴打するような鈍い音が響き渡った。


 青年の脚が炸裂し、左腕までもが不自然にぼとりと落ちる。勇猛果敢なヴァンパイアハンターもこれにはたまらず絶叫し、白目を剥いて気絶した。反対に、メチメチと生々しい音を立てて、新たに生えてくる魔王子の左腕。


 何度見ても、何度見せつけられても、絶望的な光景だった。



 ――だが、アーサーは勇者だ。



 これしきのことで、くじけはしない。


 一瞬、ほんの一瞬、魔王子の動きが止まった! 魔王子に肉薄し、エクスカリバーからさらなる力を引き出す。


 強烈な、凶悪な光を放つ聖剣を――


「喰……らえぇぇぇッッ!」


 渾身の力で、振り下ろす。


 銀の刃を受け止めた魔王子の魔力の障壁が、軋みを上げて砕け散った。


「【迅雷アストラフト!】」


 それを待っていたとばかりに、全身に雷をまとったレキサーが双聖剣を閃かせて躍りかかる。そして魔王子の首に刃を突きたてんと――


「……図に乗るなよ人間どもがァ!!」


 魔王子からどす黒い魔力がまるで雪崩のように全方位に放たれた。



「【腕萎えよ――怯えよ――恐慌せよ!!】」



 息が詰まるほど高密度な、おぞましい闇の魔力。それでいてどこか悲壮さを感じさせる呪詛だった。剣聖の動きが止まり、騎士が剣を取り落とし、筆舌に尽くしがたい恐怖を感じて逃げ出そうとする者までいた。


『【――――】』


 さらに、魔王子を中心として、得体の知れない異質な魔力の波動が広がる。途端にガチンと型にはめられたかのように、剣を持つ手が動かなくなった。


 ――またもや、『禁呪』とやらか!!


 レキサーは魔力を振り絞り、どうにか呪詛を振り払おうとしたが、手が言うことを聞かない。


 あと少しなのに。防護の呪文は剥がれ、魔王子の首が、目と鼻の先にあるというのに! 雷魔法で加速し、速度は最高に乗っている。なのに――!


 動け、剣よ! 少しでいい、かすり傷でもいいのだ、そうすればきっと……!


 そう思った瞬間、ぐるりと頭を巡らせた魔王子と、

 

「【絶望せよ】」


 どす黒い呪詛をたなびかせた穂先が――



 来る。



「ッッ!」


 咄嗟に掲げた左腕が、そしてその手に握っていた双聖剣の片割れが、魔王子の刃を受け止めた。


 とてつもない衝撃。


 レキサーの全魔力を振り絞っても足元にも及ばない隔絶した『力』が、絶望を呼び起こす呪詛が、刃を伝って腕に流れ込んでくる。母の名を冠した聖剣、【マリア】が甲高い悲鳴のような音を立てて粉砕された。


「ガぁっ――!!」


 それを悲しむ間もなく、レキサーの左腕もまた爆散する。だが聖剣が犠牲になったおかげで威力が逃され、致命傷には至らなかった。あのまま刃が接触し続けていたら上半身が弾け飛んでいたかもしれない。


 ――こんな化け物に、本当に勝てるのか……?


 ふと、そんな弱気な考えが鎌首をもたげた。


 ――いいや、これは魔王子の呪詛だ!!


 レキサーは奥歯が砕けるほどに、歯を食い縛る。


 禁呪に絡め取られ、剣を振るうことすらままならないのは、この際、仕方がないとしよう――



 だが!!



 この心は!!



 人類の敵に、立ち向かうという精神は!!



 魂のあり方だけは、決して、呪詛などには屈しない!!



「いい加減に落ちろォ――!」


 抗おうとするレキサーに、魔王子が再び槍を振るう。


「【――絶望せよ!!】」


 迫る、刃。


 ……時の流れが、酷く遅く感じられた。月夜にきらめく、古ぼけた穂先までもが、くっきりと見える。不思議な既視感を抱いた。この剣は、どこかで見たような。アーサーの叫びが、遠くに聞こえる――


 負けるものか。


 負けて、なるものか!!


「【絶対に――】」



【――諦めてはならない】



「おおおおォォ――ッッ!!」


 己を奮い立たせるように叫んだレキサーは、残った右手に握る双聖剣を、父の名を冠した【ニコラ】を、口元に運んだ。



【どんなに絶望的な状況でも、戦いを放棄してはならない】



 べろりと刃を舐める。


 ドワーフ製の鋭い両刃の剣だ。勢い余って頬は裂け、唇が切れ、血が滴り落ちる。口元を血まみれにしながらも、壮絶な形相で魔王子に飛びかかるレキサー。


 突然の奇行に魔王子もギョッとしたようで、槍の勢いがわずかに鈍った。レキサーが盾のように掲げた【ニコラ】に穂先がぶち当たり、粉砕し、流れ込んだ呪詛が右腕をも爆散させた。


 だが、それでもレキサーの突撃は勢いを失わない。眩いばかりに雷を纏いながら、体当たりじみてジルバギアスに肉薄し――



【剣が折れたなら、獣人のように噛みつき引っ掻いてでも傷をつけよ】



「ぐるぁぁぁぁッッ!」


 歯を剥き出しにしたレキサーは、ジルバギアスの首に噛みついた。まるで彼が忌み嫌う吸血鬼のように。魔王子の首の肉に、歯を突き立てる――


「がぁっ――クソッ、こいつ――ッッ!!」


 思わぬ攻撃に魔王子も動揺し、引き剥がそうとした。


 だがレキサーは、両腕がなくなってもなお、闘犬のように魔王子の首に噛みついたまま離れない。どころか、魔王子の動きを止めるためさらに全身から雷を放つ。


「ぐがあぁっぁあッッ!」


 聖属性が込められた電流を首筋から流し込まれ、魔王子も悲鳴を上げた。レキサー自身が雷の化身となったかのような凄まじい放電、アーサーや周囲の勇者すら寄せ付けないほどの――



【ドラゴンのように獰猛に、そして悪魔のように狡猾に、自らの命を引き換えにしてでも敵を討て】



 ボコボコボコ……まるで湯が沸騰するような不気味な音が、レキサーの体内から響いてくる。レキサーの瞳があり得ないほど充血し、鼻や耳からも血が噴き出す――


「「やめ――!」」


 ろ、と奇しくも魔王子とアーサーの声が重なった。


 尋常ならざるレキサーの気迫に、何か不吉なものを感じ取ったから。


「――――」


 レキサーが、ふっと魔王子の首から口を離した。顔は血まみれの傷だらけで、正視に耐えない有様なのに、酷く穏やかな表情をしていた。


 ずたぼろの唇が、動く。



 あとはたのんだ。



 レキサーが、落雷のような一際強烈な発光とともに、体の内側から弾け飛んだ。雷魔法の暴走。撒き散らされる。血が、肉が、臓物が。


 そしてそれらは、極限にまで聖属性の魔力が練り込まれ、魔王子に至近距離から襲いかかった。


「……がああぁぁぁぁぁあああぁぁッッ!!」


 血まみれの魔王子が絶叫を振り絞る。全身に降り掛かったレキサーの血が、銀色に輝き沸騰していた。ジュゥーッと立ち昇る煙。レキサーの決死の覚悟が、死後もなお呪いとなって闇の輩の身を蝕んでいる……!



【もしも敵を討ち果たしきれずに、息絶えようとも、その勇気ある行動は決して無駄にならない】



「「…………!!」」


 周囲の帝国軍の兵士や騎士たちは、レキサーのあまりにも壮絶な死に様に絶句し、愕然としていた。


 だが。


「……効いてるぞ!」


 ヴァンパイアハンターのひとりが叫んだ。


「レキサー司教に続けェ――ッ!!」


 血走った目で。



【なぜならそうして傷ついた敵を、】



「レキサー司教……ッッ!」


 アーサーは唇を噛み締め、アーヴァロンを再び掲げる。



【次なる勇者が必ず討ち果たすから】



「【戒めの鎖アリシダ・エンドロン!】」


 防護の呪文の再展開すらままならず、痛みに悶絶する魔王子の胴体を、今度こそ鎖で捕らえる。レキサーの銀色の血に加え、鎖から流れ込む聖属性の光がさらに魔王子を痛めつける――!


「ぎぃぃいぃァァァッ!」

「今だ殺れ――ッ!」

「殺せェ――ッ!」


 アーサーが、ヴァンパイアハンターたちが、聖剣を魔王子に叩き込む。


「……ク――ソがァァァッ!」


 しかし、再び魔王子を中心に魔力の波動が広がった。禁呪。アーサー以外の動きが鈍り、呪詛を振り払ったアーサーのエクスカリバーも、槍と再展開された防護の呪文に止められる。


「ふざけやがって――ッッ!」


 魔王子は怒り狂っているようだった。仮面の奥の赤い瞳は興奮で瞳孔が開ききり、全身を苛む激痛から呼吸も荒くなっている。


「【転置メ・タ・フェスィ!】」


 目にも留まらぬ槍の突き。


 至近距離でエクスカリバーを振り下ろした直後のアーサーは、回避できずにそれをアーヴァロンで受け止めた。


「ぐ――ッッ!」


 鎖化に魔力を割いているため、恐ろしい勢いで魔法抵抗が食い破られる。魔王子が負った火傷が丸ごとアーサーに押し付けられた。


 全身が焼かれるような激痛! ――だが、不思議と辛くは感じなかった。


 アーサーが既に極限状態にあるからか。


 それとも、戦友が自らの命と引き換えに遺していった『勲章』だからか――


「クソッ……クソがックソがックソがァァァァッッ!」


 逆に、魔王子は未だに苦しんでいた。傷を押し付けた先から、レキサーの血に全身を焼かれ続けているからだ。いくら防護の呪文を再展開しようとも、レキサーの血肉が洗い流されるわけではない。


 そしてそこに込められた聖属性は、レキサーの死後、弱まっていくどころか、ますます光を強めているようにすら見える……!



【だから、決して戦いを諦めてはならない】



「死ねええェェェッッ!!」


 さらなる『力』をエクスカリバーから引き出しながら、アーサーは腕を振るう。


 ちらと視界に入った自分の手が、驚くほどしわだらけになっているのが見えた。



 だが、構うものか。



 ここで! 討ち果たすのだ!!



「舐めるなァァ――ッッ!」


 それでも魔王子は闇の魔力をまとい、暴風のごとき槍捌きで反撃してくる。エクスカリバーが弾かれた。呪詛がアーサーを蝕み、腕の皮膚が爆ぜた。だが戦いながら治癒の奇跡を使う。【戒めの鎖】がある限り、魔王子はアーサーから離れられない。


「ぅおらァァァァァ――ッッ!」


 若き勇者たちが、ヴァンパイアハンターたちが、入れ代わり立ち代わり聖剣を叩き込んでいく。


「うわああああああぁぁぁァァァッッ!!」


 どこか悲鳴じみて叫んだ魔王子が、槍を振るう。まともに槍の穂先を受けた勇者が血煙となって死に果てた。


 だがその血煙を突き破って、次なる勇者が剣を振り下ろす。


 これほどまでに追い詰めても――魔王子は強い!!


 ひとり、またひとりと削られていく!


 並の戦士ならば、とっくの昔に諦めて、裸足で逃げ出していただろう。



 だが、それでも。



 それでも!!



【心が折れてもなお、敵を討て】



 人類の敵を駆逐する。その想いが勇者たちを衝き動かす――!



「が――ハッ」


 突然、魔王子が血を吐いた。転置呪で周囲に傷を押し付けて、火傷以外は特に問題なかったにもかかわらず。


「……馬鹿な」


 ハッとしたように自らの右手に目をやる魔王子。アーサーはその隙を逃さず斬りつけたが、魔王子はすぐに我に返って迎撃してきた。


 至近距離での鍔迫り合い。ふとアーサーも魔王子の右手を見て、気づいた。中指にはめられた指輪の宝石が、激しく明滅していることに。


 ――これは。


 アーサーは名門勇者として、王侯貴族ともそれなりに付き合いがある。だからひと目でわかった。この指輪は、暗殺を防ぐための毒検知の魔法具……!


 なるほど、ジルバギアスも王族だ、毒殺防止のアクセサリーのひとつやふたつを身に着けていてもおかしくはない。通常、この手の魔法具は、毒杯や毒の盛られた料理を手にした際、それを持ち主に警告するものだが。


 それをかいくぐって、何らかの手段で毒を使われてしまったときも、周囲や持ち主に知らせる機能がある。速やかに癒者ヒーラーを呼ぶために。


 その魔法具が、今になって効果を発揮した。


 そして直近で、魔王子に痛撃を与えたのは、ひとりしかいない。


「レキサー司教……!」


 先ほどから、魔王子が散々転置呪を使っているのに、毒が消えていないということは、まさか転置呪は毒に無力なのか? その穴を突いたのか?


 ――やってくれたのか。流石、歴戦のヴァンパイアハンターは違うな、と。


 アーサーは尊敬の念と、一欠片の悲しみを胸に、壮絶に笑う。


「なんと……ッ!」


 奇妙なことに、魔王子もどこか感嘆したような声を上げていた。


 呑気なものだ。


 死が近づいているというのに。


 だがそこまで考えて、さらに苦笑した。――自分も同じだと気づいたからだ。


「手が震えているぞ、ジルバギアス……ッッ!!」


 アーサーはエクスカリバーを押し込む。力負けしなくなっていた。アーサーが限界を超えて力を引き出していることもあるが、明らかに、魔王子が弱まっている。


「ふざけ……るな!!」


 身震いして、ぐいっと押し返してくる魔王子。仮面の奥で、赤い瞳が泣き濡れているようにも見えた――



「【我が名は――ジルバギアス=レイジュ!】」



 腹の底から絞り出すような声。



「【最強の、魔王に至る戦士にして――】」



 その存在感が膨れ上がる。



「【――血の雨と殺戮をもたらす、死と絶望の担い手なり!!】」



 闇色が、視界を埋め尽くす。



「【絶望せよ――ッッ!!】」



 それはもはや、懇願のようですらあった。周囲の全ての存在から力と勇気を奪い取るかのような、おどろおどろしい暗黒が広がっていく。



 だが――その中で、アーサーは剣を掲げた。



「【聖なる輝きよヒ・イェリ・ランプスィ】」



 エクスカリバーを。



「【この手に来たれスト・ヒェリ・モ!】」



 眩い光が、天を衝くばかりの銀色の刃が、闇を打ち払う。



「【我が身は無辜の人々の剣】」



 捧げる。身を。心を。魂を。



 命を。



 エクスカリバーから流れ込んでくる膨大な力とは裏腹に――手足の末端から体の芯まで、まるで氷のように冷え切っていく。


 だが、それでもいい。


「【人類の敵を、ここに討ち果たさん――!!】」


 全力で――踏み込み。


 アーサーは、その手の光を、振り下ろす。


「「うううぅおおおおおおおお――――ッッ!!!」」


 魔王子と勇者の雄叫びが、重なった。


 どす黒い闇と、眩い銀の光が、激突する。


 とてつもない魔力が渦を巻き、ぶつかり合い、喰らい合い、弾けては押し寄せて、地がひび割れ、大気が悲鳴を上げ、物の理がひしゃげて押し潰されていく。


 もはや全ての存在が、魔の法にひれ伏し、歪められていく。時や空間さえも、曖昧になっていく――



 だからだろう。



 アーサーの真なる聖剣が、魔王子の槍を押し込み、その頭をかち割ろうとした――まさにその瞬間。



 ぐり、と足を捻るような感覚があった。



 ――踏み込みが甘くなる。最後のひと押しが!



 ……それは、魔王子の足元に大量の水弾を打ち込んだせいで、アーサー自身が泥に足を取られた――と考えるのが自然だった。


 が。


 ただ足を取られたにしては。


 何者かの手が、足首を掴むような――異様な感触があった。


 魔力が吹き起こす突風で何も聞こえないはずの耳に。


 声が届く。


 ゾッとするような、冷たい女の声が。



『【あの子に仇なす、あらゆるものに災いあれ】』



 アーサーのエクスカリバーが――押し返される。



 ジルバギアスの槍に。



「――おおおおおおおおォォォッッッ!!!」



 そして、



 刃が、振り抜かれた。




          †††




 ――嵐が過ぎ去ったかのような光景だった。


 丘の上で、きらびやかな鎧を身にまとった近衛騎士たちが、呪詛にもみくちゃにされ、ある者は気絶し、ある者は息絶え、折り重なるようにして倒れ伏していた。


 地面は、泥だらけの血まみれだ。草花は踏みしだかれ、薙ぎ倒され、新鮮な肉片が至るところに飛び散り、吐き気を催すような臭気を漂わせている。


 そんな惨状とは裏腹に、晴れ渡った星空には、静かに三日月が浮かぶ。


 銀色の夜の女王が、どこか冷ややかに下界を見下ろしている――




「ご……ふっ……」


 英雄は、泥だらけの大地に膝を突いた。


 口の端から血が流れている。止まらない。次々に溢れ出す。じわ、とその胸元からも赤色が滲む。


 魔王子の槍に、切り裂かれたのだ。


 その手から、真なる聖剣がこぼれ落ち、地面に刺さる前に幻のように消え失せた。


 英雄は、途方に暮れたように夜空を見上げた。


 寒い。


 もう、体が――言うことを聞かない。視界がぼやけている。手足の感覚がない。


 見下ろすまでもなく、肉体が、限界を迎え――枯れ木のようになっていることが、わかった。



 ――水気のある足音。



 ああ。魔王子だ。


 仕留めきれなかったか。これだけ死力を振り絞っても。


 ……いや、ここで諦めてどうする。最後まで抗うんだ。


「【聖なる……輝き、よ……】」


 おかしい。こんなに、魔法が使えないなんて、


 今まで……そんなこと、なかったのに……


 立て、……立つんだ……


 少しでも……この、魔王子に……



 魔王子、に……?



 ふと、その『顔』が目に入って。



 英雄の思考は、止まった。



「…………。っ!?」


 茫然とした英雄の視線に、息も絶え絶えな魔王子は、ハッとしたように己の顔に手を伸ばす。


 そして、


 かぶっていた骨の仮面が――聖剣の最後の一撃で、かち割られていたのだ。


 あのとき、英雄の踏み込みがなぜか鈍っていなければ、仮面だけでは済まされず、頭部も両断されていたのは間違いない。



 だが、そのせいで。



 ――魔王子の素顔が、あらわになっていた。



「……アレックス?」



 英雄は、震える声で。



「なん、で――?」



 それ以上は、言葉にならなかった。



 ぱちゃっ、と水たまりに倒れ込む、枯れ木のように老いきった肉体。



 そのまま、二度と再び動かない。



 ただ、銀色の輝きを失った目が、驚愕に見開かれたまま――。




 稀代の英雄は、ベッドではなく、戦場の泥の中で。




 壮絶に、老いて死んだ。

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