400.暁に沈む


 どうも、船底まで吸血鬼を追っかけてきた勇者アレックスです。


 聖霊のみなさんの怒りの鉄拳に、吸血鬼野郎がボッコボコのギッタギタの黒焦げにされていく。


 ハッハァ、ザマぁねえぜ! 階段から飛び出してきた眷属3体を斬り捨てながら、俺は周囲を警戒する。まだ他に眷属はいねえだろうな……?


「グッウオオッ! オオオオ――ッ!!」


 と、思っていたら、焼けただれた顔をさらに醜く歪せ、吸血鬼野郎が叫んだ。まるで胸を掻きむしるように礼服をバリバリと破り、爪で自らを引き裂いてどんどん血まみれになっていく。


 なんだ!? 痛みで頭でもおかしくなったか!?


 いや違う、赤黒い血がうごめく――


「――オオアアァアァァァァッッ!!」


 竜巻のように、無数の血の刃が全方位に撒き散らされた。


 刃のひとつひとつに相当な魔力が込められていたらしく、奴をタコ殴りにしていた聖霊たちもずたずたに引き裂かれる。至近距離にいた連中が、ごっそりとスプーンで削り取られたかのように消滅してしまった……!


 クソッ! いかに聖銀呪の恩恵を受けられる聖霊でも、純度の高い魔法攻撃は耐えきれないか!


 少し離れていた俺でさえ、防護の呪文を展開していなければ危なかった。バチュッと肩のあたりに血の刃が飛んできたからな。こんな隠し玉があったとは――だが奴にとっても諸刃の剣だったに違いない。大量の血を消費したらしく、明らかに魔力のプレッシャーが弱まっている。


 これが普通の戦いだったら、蹴散らした敵から血を再補給できたんだろうが……


 残念だったなァ! 実体のない幽霊ばっかだぜ!


「【光あれフラス!】」


 間髪入れず、銀色に光り輝く闇の魔力を叩きつけてやる。「うがあアア!」と悲鳴を上げる吸血鬼野郎だったが、聖霊たちの攻勢が弱まった一瞬の隙をついて霧化し、そのまま床板の隙間に吸い込まれていく。


 ドガッ、バギッと木材が砕かれる音が足元から響く。


 船全体が不気味に軋み、さらには水が流れ込んでくるような音。


 ……やっぱ船を沈める気でいやがったなあいつ! なんか動きがきなくせえと思ってたんだよ! っつーかあれだけ弱らせても、まだこんな怪力があんのか!


『クソッあいつ逃げやがった!』

『まだ殴り足りねえぞオイ!』

『野郎、ブッ殺してやる!』


 地団駄を踏む聖霊のみなさんだが――


「みんな! 霊体ゴーストだから、床もすり抜けられるんだぞ!」


 俺の言葉に、はたと顔を見合わせる。


『そういやそうだったわ』

『ぜってぇ逃さねえぞコラァ!』

『野郎、ブッ殺してやる!』


 次々に床をすり抜けて吸血野郎のあとを追う聖霊たち。あいつの処理はみんなに任せよう、どうせそう遠くには逃げられやしねえ。


 それより、俺がすべきは人質の救出だ!!


「誰かいるか!?」


 船倉はいくつかの区画に分けられている。食料庫や倉庫の他、やたらと厳重に鍵がかけられた扉があったので、ダンダンダンと叩いた。


「……ぁ……ぅ……」


 ――かすかに人の気配。


「【光あれフラス!】」


 隙間から聖銀呪を流し込んで確認。焼かれない、人だ!


 アダマスで錠前を叩き斬り、扉を押し開ける。中にはふたりが鎖に繋がれ、転がされていた。ウッ酷い臭いだ――


 髪の長い小柄な人。ロメオの恋人か!? と思ったが、よく見れば少年だった。髪がこんなに長く伸びるくらい、閉じ込められていたのか――


「み……みず……」


 俺が抱き上げると、少年はか細い声でそう言った。長髪の少年の他は、ぐったりとした男がひとり。アダマスで鎖を断ち切りながら、入ってきた扉を振り返ると、上の方に汚い字で『非常食』と書き殴ってあった。


 マ、ッ、ジ、でッ、フザケやがって……ッッ! 100回灰になれ!!


 っていうか非常食ならせめて健康状態を保て!! それとも世話を任されてた湖賊がサボってたのか!? いずれにせよ許せねえ!


「すぐに飲ませてあげるからな、待ってろ……!」


 とはいえ、ここでキレても少年を怯えさせてしまうだけだ。俺は少年を片手で抱き上げ、男を背負う。念のため兵士たちの遺骨を服の下に忍ばせてきてよかった、背負籠の要領で骨を変形させ、男がずり落ちないよう固定する。身内に見られたらヤベーからその前に隠さないとな……アンテ、警戒任せるぞ!


『あいわかった、しかしもうそれほど時間は残されておらんぞ』


 部屋を出ると、さらに水音が近づいていて、船もどんどん傾いている。


「もうひとり、囚われてた女性を知らないか?」

「…………」


 腕の中の少年に尋ねたが返事はなかった、意識が朦朧としているようだ。男は気絶してるし。クソッ、ロメオの恋人はどこにいる……!?


 残りの区画、船尾側か船首側か――


 どちらに向かうべきか、俺が考えを巡らせた瞬間。



 バキバキメキィッ、と一際大きな音が足元から響く。



 やべぇ……まさか、もう竜骨キールが!


 轟音とともに足元が揺れ、近くの壁が。外の景色が――燃えるような夜明けの空が、目に飛び込んでくる。


 竜骨が砕け、船体が真っ二つに折れた――そう理解すると同時、まるで洪水のように水が流れ込んできて。


「うわッぷ」


 俺たちはなす術もなく、水流に呑まれた。




            †††




(やった、やってやったぞ……!)


 満身創痍でもがくように水底へと潜っていくダニエルは、頭上から響く破砕音に、それでも苦しげに笑った。


 逃げる前に竜骨を力の限り殴りつけ、爪で切り刻んでおいたのだ。船底に空けた穴もあわさって、船体がとうとう崩壊したのだろう。


(このままヴァンパイアハンターごと沈んでいけ……!)


 できれば、連中が乗ってきた船も沈めてやりたかったが、流石にもう余力がない。というより神官がよほどの間抜けでもなければ、何らかの防御魔法が展開されているだろう。万全の状態でも骨が折れる作業だ。


 いずれにせよ、今はあまりに血を失いすぎた――湖賊の生き残りで血を補給したくてたまらない。だがここで下手に浮上すると、待機している神官に狙い撃ちにされる恐れがある。


 次、聖属性に晒されたら、もう耐えきる自信がない――!


 悔しげに噛み締めた口の端から、ごぽっと空気が漏れ出る。肺の中が水で満たされていく感覚――言いようもなく不快だ! 死にはしないが、だからこそ永遠に溺れ続けるようなもの。


 夜の貴族、吸血種とはいえ、肉体のベースは人族だ。存在の維持に呼吸は必要としないものの、水中で過ごすようにもできていない!


(だが……耐えろ! まずは逃げるんだ、できるだけ遠くへ、深くへ……!)


 ボロボロになった礼服が、水を吸ってあまりにも邪魔だ。泳ぎが遅々として進まない、脱いでしまうべきか――だが着替えも装飾品も、全て船ごと沈みつつある――裸一貫で出直し――我ながら情けない――



 などと、思っていると。



『いたぞ!』

『待ちやがれコラ!』

『殺せ――ッ!』


 頭上から、水中とは思えないほどにハッキリした声が。


「!?」


 目を剥いて見上げれば。


 まるで、古い神話に伝えられる――


 天から舞い降りたという神々の遣いのような。


 白銀に光り輝く人影が! まっすぐ、こちらに、急降下してくる!!


「ごっボォァァ!」


 わずかに肺に残っていた空気さえも絞り出された。先ほどの激痛と恐怖が蘇る。


 大慌てで泳ぎだすダニエル。だが――速い! 怒れる霊たちの怒声が、ぐんぐんと背後に迫る!


 それはそうだ、向こうは霊体だ! 水中でも溺れないどころか、そもそも水の抵抗さえ受けない!


(どうする!? どうすればいい!?)


 水中では霧化も使えない! もはや体裁を取り繕う余裕もなく、少しでも速く泳げるように礼服を脱ぎ捨て、裸で必死に水をかくダニエル――



 その顔面を、ガンッと何かが強かに打ち据えた。



(ッ!? ――壁!?)


 ダニエルの方が、何かにぶつかったのだ! 手を伸ばしてみれば滑らかで継ぎ目のない、硬い壁のようなもの。ぶつかるまで気づかなかったが、それはほのかに魔力の燐光を散らしていた。


(魔力障壁!?)


 迂回しようとしたが、手で触れても切れ目がない。


 続いている。


 どこまでも……どこまでも!


 これは――平面かと思ったが、違う! 球状だ!


(馬鹿な!? どれだけ巨大なんだ!?)


 魔王城の宮殿の防御結界でもあるまいし! 殴りつけて突破しようとしたが、びくともしない。何という強度。血を失って弱りきった今の自分では、突破どころか傷をつけることさえ――


(いっ……いやだ! 出してくれ!! 助けてくれ!!!)


 ダンダンと障壁を叩くも、虚しいだけ。


『観念しやがれッ!』

『思い知らせてやる……ッ!』

『俺たちの苦痛! 無念! 痛みをなァ!』



 暗い水底が、明るく照らし出される。



 無慈悲な銀色に――!



(くっ……来るなァ――ッ!)


 なけなしの魔法、血の刃を振り回して迎撃しようとするも。


(あっ……)


 赤黒い刃は、水に溶け出して、すぐに消えてしまう。霧化と同じだ。水中では血がすぐに薄まって、魔法も――


『死ねァァァ!!』


 全方位を取り囲んだ銀色の亡霊たちが、一斉に殴りかかってきた。


 いや、殴るだけではない! 蹴る、突く、ひっかく――もはや触れられるだけで、全身を駆け巡る激痛!


「もがぁァァァ――! んぼぁッ! あがぁァァ――ッ!!」


 肺の中に空気は残されていなかったはずなのに、絞り出されるくぐもった絶叫。


 それは煙だった。全身を銀の光に焼かれ、煙が喉から噴き出している――!


 滅茶苦茶に暴れ回っても霊体は離れない。


 爪で切りつけてもただすり抜ける。


(血がァ! 血がァ、なくなる!!)


 存在を、維持できなくなる――


(死ぬ!? そんなッ! 嫌だァァ!)


 こんな、ところで! 魔王国を、父親の支配を脱し、せっかくここまで魔力を育ててきたのに――!


 今では強大な上位吸血種など見る影もなく、最下層の眷属にすら劣る脆弱さ。


(血! 血ぃ! 血ぃぃぃぃッッ!!)


 もがき苦しみ、目を血走らせ、その辺を泳ぐ小魚をひっ捕まえて食らいつき、生き血をすすってどうにか力を得ようとするが。



 その程度で、どうにかなるはずもなく。



 何もかもが、手遅れだった。



『『消えろォォォォォォッッ!!!』』



 一際輝きを強め、輪郭を曖昧にして溶け合いながら、爆発的な魔力を放出する聖霊たち。



「おぼォァァァァァ――――ッッ!!」



 もはや痛みという表現すら生ぬるい、全身に隙間なく灼熱する針を突き立てられ、滅多打ちにされるような、途方もない苦痛がダニエルを襲う。



 耳障りでくぐもった悲鳴は、湯が沸騰するような音にかき消されていき――



 不意に、静寂。フッとロウソクの火が消えたかのように、暗闇が戻ってくる。



 あれだけいた霊体たちは、影も形もなく。



 ただ、かろうじて人の輪郭を保った灰の塊と、



 かじりかけの魚の死骸だけが、力なく漂っている。



 やがて、その死骸目当てに、魚たちが集まってきて。



 灰の塊も無惨に泳ぎ散らされ――水底に沈んでいった。




          †††




(わたし……、死ぬんだ……)


 ――昏い目で、ぼんやりと天井を見上げていたジュリエッタは。


 ここに来て、濃厚な『終わり』の気配を感じ取っていた。


 轟音に始まり、湖賊たちの叫び、悲鳴、落雷や剣戟の音が遠くに響き、終いには船が揺れて、軋みを上げ、傾き、水が流れ込んできて――


 今はもう、腰のあたりまで浸かりつつある。


「…………」


 チャリッ、と手を縛り付ける鎖が音を立てた。それがいかに強固で外す余地がないかなんて、嫌になるほどよく知っていた。


(つかれた……)


 死の恐怖はない。ただただ疲れ切っていた。さっさと楽になりたかった。全てから解放されて。


 溺死は苦しそうで嫌だったが、まあ、せいぜい数分だろう。今までに受けた苦しみを思えば、その程度――どうということはない。


 肩まで水が来た。


 少しでも早く死ねるように、息を吐ききってから沈もう。


 そう思って、静かに溜息をつくジュリエッタだったが。


「え」


 メキメキと眼前の壁が張り裂け、隙間から差し込んだ光に、息を呑んだ。



 ――真っ赤に燃える空。



 夕暮れ? それとも夜明け? 時間感覚が曖昧でわからない。だけど、それは確かに空だった。


 船体が真っ二つになり、その拍子にジュリエッタを閉じ込めていた船倉も壊れて、外が見えたなんて――彼女は知る由もなかったが。



 いずれにせよ、それは一瞬のことだった。



 ばらばらに崩壊しながら、船は沈んでいく。



 柱に鎖で縛られたジュリエッタを――道連れにして。



「ごぼ……ッ!」


 冷たい水に包まれた。口から泡が吐き出されていく。陽の光に見惚れて息を呑み、吸い込んだ空気が、肺から失われていく。


 水面に向かって気ままに昇っていく気泡を、逆に沈んでいくジュリエッタは、半ば呆然と見送る。


(……やだ)


 陽光の降り注ぐ水面がどんどん遠ざかっていくのを見て、反射的に、そう思ってしまった。


(……死にたく、ないっ!)


 暗いままならよかったのに。


 光なんて差さなかったらよかったのに。


 外の景色が一瞬でも見えてさえいなければ――


 生きる希望を、死の恐怖を、思い出さずに済んだのに!!



 ――理屈じゃなかった。死にたくない、とひとたび願ってしまったら、それがもう全てなのだ。



(いやッ! いやぁぁッッ!!)


 必死にもがいて、鎖を外そうとする。それがどれだけ無駄な行為か、わかっていたはずなのに。


 水を蹴って少しでも浮上しようとする。だが彼女が縛り付けられた柱はあまりにも重く、無慈悲に水底へと引きずり込んでいく。


(たすけて……!)


 苦しい。息がもう続かない。


(だれか……!)


 救いを求める。だけどいるはずがない。ここに、自分を助けてくれる人なんて。


(ああ……)


 水面が遠い。


 暗いのは沈んだせい?


 それとも、意識が薄れてきたから?


 だんだんと、苦しくなくなってきた……


(ロメ、オ……)


 死んだ恋人の顔が脳裏をよぎる。彼の笑顔と死に顔が、交互に。


 このまま死ねば、冥府で――また彼に会えるかな。


 そう思えば――気が楽に――


 諦めたジュリエッタが、俯いて、意識を手放そうとした瞬間。


「ッ!? ぼはァ」


 驚愕に、肺から空気が絞り出された。


 ジュリエッタの真下に、巨大な怪物の影。


 水棲魔獣が、ギザギザの凶悪な牙を剥き出しにして、迫りつつあったのだ!


(なんで――!?)


 恋人を殺され、湖賊の慰み者にされ、乗っていた船が沈んで溺死しようとしていたところ、最後の最後に現れた水棲魔獣に食い殺される!?


 そんなの……あんまりにもあんまりではないか!!


 いくら即死して冥府に直行できるとしても!!


(いやァ――ッ!! ロメオ――ッ!!)


 ギュッと目をつむるジュリエッタ。


 ガパァッ、と大顎を開けた水棲魔獣は勢いよくジュリエッタに――



 ではなく、彼女を縛り付ける柱に、食らいついた。



 暴力的な破砕音とともに、柱が噛み砕かれる。さらに、慎重にジュリエッタの手の鎖も口に咥えて、バキンバチンッと噛みちぎった。


(…………っ!?)


 そして身を固くするジュリエッタをそっと頭の上に乗せ、力強く浮上していく。


 その不思議な魔獣が、『レイクサーペント』と呼ばれる種類であることを、実物を見たことがないジュリエッタは即座に判別できなかったし。


 そのレイクサーペントが、骨と皮と僅かな肉だけで構築されていることにも、水中だと暗すぎて当然のように気づけなかった。


 ぐんぐんと、水面が迫る。


 朝日の差し込む、明るい世界が――


「かはっ」


 水中から顔を出したジュリエッタは、必死で空気を貪った。湖面を吹き抜ける風が頬を撫でる。涙が溢れるほどに、世界が眩しい。


「あぁ……っ」


 だが、疲労困憊の彼女にとっては、ほんの少し残された手の鎖も重すぎた。


 力なく再び沈んでいこうとしたところ、何かが足を支えていてくれて。


 もがくようにして泳ぐうちに、漂流してきた樽に掴まることができた。荒い呼吸、それでも自由に息ができる。素晴らしいことに。


「はぁっ、はぁっ、……あれ?」


 気づけば、魔獣の姿はなかった。忽然と消え失せた――少なくとも、ジュリエッタはそう思った。



 無理もないことだ。



 水面に、陽光に近づきすぎた魔獣が。



 自分の下で、ぼろぼろになって崩れ去っていったなんて――



 生きるのに精一杯な彼女には、当然、気づく余裕なんてなかった。



『――ジュリエッタ』



 どこからともなく、かすかに、彼の声が聞こえた気がした。



「……ロメオ?」



 ジュリエッタは息を呑んで、辺りを見回す。



 幻聴? いや、そんなはずはない。



 確かに聞こえた! 彼の声が!



「ロメオッ!」



 だけど、どんなに探しても、朝日にきらめく水面が眩しいだけで――。




          †††




 波の下。



 恋人を残し、かつて巨大な魔獣の姿をしていたモノは。



 灰の塊になって、ゆっくりと沈んでいく。



 どこまでも暗く、深い、水底へと。



 ――果てしなく遠い世界へと。


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