396.獲物と捕食者


 湖賊たちに囚われて、何時間……いや何十時間が経っただろう。


 暗い船室でひとり、ジュリエッタは力なく床を見つめていた。


 彼女の境遇は悲惨の一言に尽きる。何が起きたのかは、ぼろぼろになってしまった服装を見れば明らかだ。両手を船の柱に鎖で繋がれ、ろくに身動きも取れない。


「ロメ……オ……」


 つぶやいて、自分でも驚いた。


 もう、とっくに枯れ果てたと思っていたのに。


 彼のことを思い出すと、ぽろぽろと涙が溢れて止まらなかった。



 ――ジュリエッタは商家の三女で、親同士の付き合いがある別の商家へ奉公に出ることになっていた。



 しかし実質的には身売りのようなものだった。件の商家の大旦那がジュリエッタをいたく気に入っているとのことで、彼女が家業をくれるなら、と資金援助を申し出たのだ。


 経営が思わしくなく、店が傾きかけていた両親は、喜んでそれを了承した。そしてジュリエッタはもちろん、しがない見習い職人でしかない恋人のロメオも、その決定に歯向かうすべを持たなかった。


 ふたりで逃げ出してしまおうか――なんて、そんなことも考えたけど。


 結局、諦めた。ただでさえ政情不安定で、実家と家族のある暮らしでさえこのザマなのに。若いカップルが手荷物ひとつで逃げ出したところで、いったいどんな未来が待っていただろう?


 ……まともに暮らしていけるはずがなかった。


『君を幸せにできる自信がない……』


 苦しげな、涙まじりのロメオの言葉を思い出す。『あなたと一緒なら、どんな苦難でも乗り越えられる』――そう言い切れるほど、残念ながら、ふたりとも子どもではなかったのだ。


 だから、今回の船旅が、恋人として過ごす最後の時間だった。


 覚悟はしていた。もうロメオとは一緒にいられないと。


 だけど……それがまさか……


 こんな形で終わるなんて、思ってもみなかった。


 ジュリエッタを船倉に匿い、剣を抜いて「大丈夫だから」と笑ってみせる彼が。


 そしてジュリエッタが見つかったあと、首筋を噛みちぎられ、顔面蒼白でこちらに手を伸ばしていた彼が。


 ――交互に脳裏に浮かび上がって、止まらない。


 ロメオは死んだ。死んでしまったのだ。


「なん、で……」


 こんなことに。なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。


 自分が奉公に出なければ。見送りにロメオがついて来なければ。


 彼が死ぬことは、なかったはずなのに――。


「う……うぅぅ……!」


 それが悔しくて、悲しくて、ジュリエッタはぼろぼろと泣いた。


 ロメオの後を追おうと、衝動的に舌を噛み千切ろうとする。


 だけど、舌に歯が食い込んで、血が滲んで――そこでやめてしまう。


「痛い、よぉ……」


 痛いのが怖かった。死ぬのも怖かった。


 だからどうしても続けることが、死に切ることができなかった。


 状態になってしまって、いつまで生かされるかもわからなくて――これ以上、尊厳を踏みにじられるくらいなら、いっそ死んでしまった方がマシだと頭では思っているのに。


 できない。


 そんな自分がまた情けなくて、腹立たしくて……。


「うぅー。ぅっ……うっ……」


 あまり声を上げると、また湖賊が興奮してやってくるかもしれないので、必死に歯を食いしばり、静かに涙をこぼす。



 ――と。



 狭い船室の扉の向こうで、ギィッと床板のきしむ音。


「ひっ……」


 誰かが来た。頼む、自分目当てじゃなく、他の用事であってくれ――そんな願いも虚しく、扉が開かれる。


「おお、まだ生きているな」


 だが入ってきたのは、予想と違って薄汚い湖賊ではなかった。



 礼服に身を包んだ、色白な美男――



「…………!」


 今度こそジュリエッタは絶句した。


 男の瞳は、ロメオを噛み殺した湖賊と同じ、血のような赤色で。


 そんな存在は、ひとつしか心当たりがなかったからだ。



 ――吸血鬼。



「やれやれ、ヒルダにも困ったものだ……」


 後ろ手に扉を締めながら、男はつぶやく。


「人族ごときにまで嫉妬しなくてもいいだろうに。それも、手籠めにするならばともかく――血を吸うくらいで、なあ?」


 貴公子然とした整った顔つきには不似合いな、ニタァリ……と下卑た笑みを浮かべながら。


 一歩、また一歩と、歩み寄ってくる吸血鬼。


「ひッ……」

「怯えなくてもいい、お嬢さん。野蛮な湖賊たちに、さぞかし手荒に扱われていたのだろう? 私はそんなことはしないとも」


 ジュリエッタのそばに立ち、その首を掴んで。


「――苦しめずに、むしろ極楽を味あわせてあげようじゃないか。ああ、久々の女の血だ――!」


 ギラギラと瞳を輝かせながら、舌なめずりする吸血鬼。



 ああ、自分はここで死ぬんだ、とジュリエッタは悟った。



 ぷつん、と自分の中で、何か張り詰めていたものが切れる音がした。恐怖がすぅっと消えていく。むしろ、どこかホッとするような気持ちにさえなった。死にたくても死にきれなかった往生際の悪い自分に、ようやくその時が訪れたのだ、と。


 もう何も考えたくなかった。


 恐怖さえ、生への渇望さえ――


「……酷い臭いだな」


 が、牙を剥き出しにして今にも食らいつかんとしていた吸血鬼が、スンッと鼻を鳴らして顔をしかめた。


「まあ、仕方がないが……ヒルダの手前、湖賊どもに手を出すなというわけにもいかないし……しかしこれではあまりに興が……クソッ、首筋も汚れてるな! 男の体液なんて御免だぞ……」


 ジュリエッタの首からを手を放し、「うぇっ」と嫌そうな顔をした吸血鬼が、なにか念じるような仕草を見せる。


 途端、その手からこんこんと水が湧き出し始めた。水属性の魔法――自らの手を洗い流した吸血鬼は、


「君も綺麗にしてあげよう。臭くて汚い恰好のまま死にたくはなかろう?」


 ニヤリと笑って、ばしゃばしゃとジュリエッタにも水をかけ始めた。


「…………」


 ジュリエッタは、ただただ黙って、されるがままにしていた。正直もうどうでもよかった。殺るなら早くしてくれないかな――そんな気持ちだけ。


「うん、大分マシになったぞ。水も滴るいい女だ。処女じゃないのが残念だが――」


 改めて、ジュリエッタの首を掴み、大口を開けた吸血鬼は。


「改めていただこう!」


 その牙を、ジュリエッタの首筋に突き立て――




 ――ようとしたまさにその瞬間、ぐわんっと異様な音が響いた。




 びりびりと、ジュリエッタの手を拘束する鎖伝いに、船の振動が伝わってくる。


「……何だ!?」

「うわーっ火事だーっ!」

「何だアレは!? ぎゃっ!」


 船室の外から、騒がしい湖賊どもの叫び声が聞こえてくる。


「いったいどうした!?」


 ジュリエッタを放り出し、つかつかと船室から出て手近な湖賊に尋ねる吸血鬼。


「おっ、おかしら! 大変でさぁ!」

「その呼び方はやめろ! 『閣下』と呼べと何度言ったらわかる!!」

「あっすいやせん、閣下ァ! 客船が襲いかかってきやした!」

「……は? 客船? 湖賊か?」


 素っ頓狂な声を上げる吸血鬼。


 湖賊船に乗りながら湖賊の襲撃を疑う、どこか間の抜けた反応――


「夜明け前だぞ!? どうしてそんな急に……こっちが何者なのかさえ、ロクに見えないはずだろうに!」

「なんでなのかはわかりやせん! とにかく向こうは魔法使いを乗せてるみたいで、警告もなしにこっちの帆が焼かれちまって大騒ぎでさぁ! しかもどんどん近づいてきやす、ありゃこっちに乗り込んでくるつもりですぜ!」

「……さっさと迎撃しろ!!」


 怒鳴り散らす吸血鬼。


「クソッ、いったい何がどうなって……間の悪い……!!」


 忌々しげにつぶやいて、未練たっぷりにジュリエッタを振り返った吸血鬼が、そのままバタンと船室の扉を閉めた。


 再び、暗闇にひとり取り残されるジュリエッタ。


「…………」


 また死に損なってしまった、と思った。



 ずん、と再び船が揺れて、甲板がさらに騒がしくなる。



 もうどうでもいいから、早く終わってくれないかな……とジュリエッタは昏い瞳で天井を仰いだ。



「ウワーッこいつ勇者だ――ッ!」



 そんな叫び声が、上の方から、かすかに響いた気がした。

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