390.湖の吸血種


 ――ほとんど風のない、蒸し暑い夜だった。


 凪いだ湖面には満天の星々が写り込んでいる。


 それでもなお、暗い。今宵は新月だ。


 闇の輩を掻き抱く、濃密な暗闇だ。


 船があった。ぽつねんと、まるで虚空に浮かび上がるかのように、何もない真っ暗な浅瀬に停泊している。


 中型の商船だ。船体に比して大きめのマストと帆を備えた快速船だが、今日のような無風状態では為す術がない。思うように目的地までたどり着けず、やむなく湖岸で錨を下ろして一夜を明かすこととなった。


 船首と船尾にはそれぞれ見張りがついているが、どちらも目をしょぼしょぼとさせて、居眠りしないよう必死の様子だ。無理もない、船乗りは重労働だ。日中、上級乗組員にドヤされて走り回り、もうヘトヘトなのに、わずか数時間でも寝ずに見張り番をしろというのもなかなかに酷な話だった。



 まあ、もっとも――



 彼らが万全を期して見張りに挑んだところで。



 音もなく、湖面を滑るように進む霧の塊に、気づけたかは怪しいが。



 船体を難なく這い上がった赤黒い霧が、船員の背後でするりと輪郭を取り戻す。


 礼服を身にまとい、ダンディなあごひげを生やした色白の美男。


 真っ赤な瞳と、その鋭い牙は、彼が吸血鬼であることを如実に示していた。


 その名を――ダニエル=チースイナという。


 魔王国の吸血種の頭領を務める、『吸血公』ヴラド=チースイナの長男だ。


「こんばんは」


 致命的な怪物に背後を取られてもなお、うつらうつらしたまま気づかない見張りの男の耳元に、含み笑いしながらささやきかけるダニエル。


「!? えっ」


 ビクッとして振り返ろうとする見張りの男、その間の抜けた声が彼の最期の言葉となった。


 ダニエルの鋭い爪が頸動脈を切り裂き、血液に魔力を流し込まれ――


「【流血花レフスト・アントス】」


 ドムンッ、と小さく太鼓を叩いたような音とともに、耳目から勢いよく鮮血を噴き出して男は即死した。見た目の凄惨さとは裏腹に、苦痛の限りなく少ない死であったことは、唯一の救いかもしれない。


「ふむ……不味いな」


 どこからともなく取り出したゴブレットに血を注ぎ入れ、一口含んだダニエルは顔をしかめる。


「酒飲みの病気持ちか。風味が最悪だな」


 ばしゃっ、とゴブレットの中身を捨てるダニエル。甲板に倒れ伏した死体が、さらに赤く染まった。


 と、こつこつとヒールの音が近づいてくる。


「ダニエル? そちらはどうでした?」


 ドレス姿の、妖しい美貌の女。にっこりと微笑んだ口元には、ダニエルと同様に鋭い牙が覗く――


「ああ、ヒルダ」


 ダニエルはおどけて肩をすくめた。


「ひどかったよ、酒飲みの病気持ちで、とても飲めたものじゃない」

「あら、それは残念」


 くすくすと笑う美女の名は、ヒルダ=シュシュリー。ダニエルの恋人だ。


 そしてヒルダの背後には、まるでゾンビのように、白目を剥いて追随する人族の姿があった。眉間には指の太さほどの穴が穿たれ、鼓動に合わせてぴゅっ、ぴゅっと血を噴き出している。


「こちら、活き締めしましたの。なかなかの当たりですわよ」

「ほほう、一口もらっても?」

「ええ、そのために持ってきたんですもの。召し上がれ」


 眉間の穴からゴブレットへ血を注ぎ入れる様は、まるでワイン樽の蛇口をひねってテイスティングするソムリエのようでもあった。


「おお、これは……なんと若々しい味わいだ、伸び伸びと育てられたに違いない」

「あっさりしていて、何口でもいけてしまいそう……!」

「うまい、これはうまい」

「とまりませんわ! サラサラですわ!」


 段々とふたりの目の輝きが強まっていき、鼻息も荒く、終いには首筋に直接噛みついて血をすすり始める。


 若々しい青年であった被害者は、哀れ、あっという間に体液という体液を搾り尽くされ、カラカラに干からびた抜け殻のような姿に成り果てた。


「うむ、美味しかった」

「でしょう?」


 正気を取り戻したふたりは、先ほどまでの醜態をなかったことにするかのように、上品に微笑む。


「前菜はなかなかだった」

「メインが楽しみですわね」


 そして手を取り合い――霧化して、船内へ侵入していく。


『この男なんてどうだろう、ほどよく脂が乗っていてコッテリしてそうだ』

『こちらの中年も悪くありませんわ、健康的で芳醇な味わいがしそう』

『おや、女もいるな。若くて張りのある肌――』

『ダニエル! 許しませんわよ、私以外の女に触れるなんて……っ』

『はははっ、わかってるよヒルダ。見ただけさ、見ただけ……』

『もうっ、油断するとすぐこれなんだから!!』

『おおっ見てご覧! 子どもだ、それも丸々としている。これはきっと美味いぞ!』

『デザートにいたしましょう!』

『その前に、ちょっと味見を――』

「……えっ、誰? えっ、うわぁ! ママーッ! やだ、たす――げッ」

『ああっ! ずるいですわよダニエル!!』

『うまい、これはうまいぞ! 大当たりだ!!』

『デザートにしたかったのに! もうっ、私も!!』


 じゅるじゅる、じゅるじゅる。


 寝静まっていた船内が、怪物たちに蹂躙されていく。


 ある者は生きたまま額に穴を開けられて血を抜かれ、ある者は首を引っこ抜かれて盛大な血しぶきでふたりを喜ばせ、ある者は全身を切り刻まれて痛みと苦しみの刺激的な味を提供させられ――


 船室を周り、目ぼしい獲物を粗方平らげたダニエルとヒルダは、大満足のほくほく顔で甲板へと戻った。


「いやぁ、この船は『当たり』だったな」

「美味しかったですわ」


 うっとりと微笑んだヒルダが、ダニエルと腕を組む。


「本当に、あなたについてきてよかった……」

「魔王国じゃこうはいかない。この湖は楽園だね」


 ふふふ、ははは、と笑いながら、手を取り合って星空の下でダンス。


 そのままふたり揃って霧化し、再び湖面を滑るようにして移動する。


 闇をかき分け、進んだ先には――



 また別の、船。



 オールと帆の両方を備えた、何の変哲もない連絡船――に、見える。


「戻ったぞ」


 ごくごく自然に、甲板で実体化するダニエルとヒルダ。


「「おかえりなさいませッ!」」


 そんなふたりを、ガラの悪い男たちが出迎えた。船内でも振り回しやすい、短めの弯刀で装備したゴロツキども。



 ――湖賊だ。



「このまま北北西に進めば船がある。見張りは片付けたし舵も壊しておいた、あとはお前たちの好きにするといい」

「へい! ありがとうございやす!」


 気取ったダニエルの言葉に、シュバッと一礼するゴツい悪人面の男。元は湖賊の船長だったモノだ。今は――夜闇の中でも見て取れるほどに、やけに顔色が悪い。


「女も生かしてある。いつも通り、片付けもしておけよ」

「もちろんでさぁ!」


 おおっ、と沸き立つ男たち。ヒルダは、こんな連中は視界に入れるのも穢らわしいとばかりに、ダニエルのことばかりを見ていた。


「少し休もうか」

「ええ」


 手を取り合って、仲良く船室に消えていくダニエルとヒルダ。


「よぅし、錨を上げろ! 行くぞお前ら!」


 船長が弯刀を振り上げて叫ぶ。口元から覗く犬歯は、人とは思えないほどに鋭く、尖っている。


 慌ただしく動き始めた船員たちも、リーダー格の連中は総じて顔色が悪く、目を血走らせていた。


 ――眷属化。


 オールを漕ぎ出した湖賊船は、水面をかき分け、闇夜の湖を進んでいく。


 迷いなく舵を取る船長、その赤みがかった瞳は、星明かりだけで充分に暗闇を見通していた。もはや彼にとって、暗闇は障害ではなく友だった――


「あった! さあお前ら、乗り込めー!」

「おおーっ!」


 ダニエルたちに蹂躙された船に接舷し、乗り込んでいく湖賊たち。


「はっはー女だァ!」

「いやーーっ! 助けて、誰かー! 勇者さまー!」

「こんなとこに勇者なんていやしねえよ! オラッ大人しくしやがれ!」

「うわっ、ひでぇなこの死体……」

「お前ら、いつも通り始末しとけよ」

「ウィッス……」


 船室を漁る者、女に狼藉を働く者、はたまた怯えて隠れていた乗客の首筋に、噛みついて血をすすり出す者。つい先ほどまで、ひっそりと暗闇で息をひそめて一夜を明かそうとしていた商船は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。


「ひでぇもんだな……」


 斧を取り出し、干からびた死体をぶつ切りにしては湖に放り込みながら、痩せぎすの湖賊の下っ端が嘆息する。


「聞かれるぞ」


 別の太っちょの下っ端が、全てを諦めきったような顔で、死体をそのまま湖に投げ捨てながら言った。


「あ、お前、それ……」


 痩せの下っ端は、咎めるような目で太っちょを見やる。ダニエルとヒルダが吸い殺した死体は、細切れにしてから捨てるよう、厳命されているのに。


「構いやしねえよ、どうせ魚の餌になる。それよりさっさと女のとこに行こうぜ、酒も見つかったってよ」


 ゲス顔をした太っちょは、おどけるような口調で言い、軽やかな弾むような足取りで去っていく。種族こそ違えど自分も人食いには違いない――そんな開き直りと諦めを滲ませる、露悪的な態度。


「…………」


 痩せの下っ端は、まだ処理途中の干からびた死体を見下ろした。


「……ま、いっか! 酒! 女!」


 まだ原型をとどめているそれを、そのまま湖に投げ捨てて、小躍りしながら同僚のあとを追う――



 おぞましい闇の宴は続く。



 よどんだ夜風は、その血生臭さを吹き流しもしない。


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