386.新たな犠牲者


 ――アウリトス湖、北部のどこかで。


 その夜、一隻の船が浅瀬に錨を下ろしていた。鈍足な大型の貨物船。


「……蒸し暑いな」


 船室でハンモックに横たわっていた男は、額の汗を拭って、眠れない様子で天井を睨む。


 男の名を、リベルトという。都市国家アテタイに拠点を置く商人だ。


 この頃、北部一帯では船舶の行方不明が相次いでいる――小型船や中型漁船のみならず、大型の貨物船や客船まで。魔獣の仕業か、はたまた湖賊のせいか。原因は未だ明らかになっていない。


 聖教会や各都市国家の海軍が、躍起になって原因究明・治安回復に努めているが、まるで霧を掴もうとしているかのように手応えはなく、徒に時間が過ぎるばかり。


 時折、湖岸で漂着物が見つかることから、船が沈められていることはおそらく間違いない。船主の多くは損失を恐れて出航を控えるようになった。


 届くべき荷が届かず、あるいは運ぶための船が訪れず、北部水域の物流は緩やかに麻痺しつつある。


 だが、そんなときだからこそ。


 勝機を――あるいは商機を見出す者もいた。自らの命と安全を担保に富を掴まんとする者、もしくは止むに止まれぬ事情で危険に飛び込まざるを得ない者。


 リベルトもそのひとりで、どちらかというと、後者だった。彼は材木を手広く扱う商人だが、物流麻痺のせいで資金繰りが悪化しつつあり、このまま商品が捌けなければ商会を畳むことになりかねなかった。


 従業員たちと家族の生活がかかっている。さらにいえば娘の嫁入りまで控えている大事な時期だというのに、夜逃げなんてしていられない。


(どうにか……今回の取引で……)


 ハンモックを揺らしながら、リベルトは暗闇の中、ギリッと手を握りしめた。


 商会と家族の命運を賭けた大商い――彼が直々に出向いて、湖岸の街と取引をすることになったのだ。せめて、船の行方不明の原因がはっきりするまでは大人しくしておいた方がいい、と家族には止められたが、背に腹は代えられない。


 ――娘の花嫁衣装は用意してあるんだ。


 せめてあの子には、不安なくドレスを着させてあげたい。


(魔獣にせよ湖賊にせよ、できるだけの備えはしてきた)


 自分に言い聞かせるように、胸の内でひとりごちる。


 屈強な船乗りに加えて、商会お抱えの用心棒たち。そして彼らが「凄まじい腕前の持ち主」「とんでもない達人」と評した、流れの剣士まで雇っている。リベルト自身も多少は剣の心得があるが、確かにあの剣士は尋常ではない使い手のように見えた。クラーケンでも出てこない限り、どんな脅威にでも打ち勝てる――そう思っている。


(見張りはちゃんと起きているだろうか)


 ふと不安になったリベルトは、ハンモックから起き上がった。


 いざというときに備えて、普段よりも見張りを増強してある。船の四方をそれぞれ警戒させる徹底ぶりだ。何か異変があればすぐに気づくはず――


 だが、全員がそう考えて、サボっていたら目も当てられない。どうせ眠れないし、夜風に当たりたくも感じたリベルトは、そっと部屋を出た。



 ――静かだ。



 壁伝いに、ほぼ真っ暗闇の船内を歩いて行く。湿っぽい空気。生暖かい風。


 全てがしんと静まり返っている。たださざなみの音だけが響く――甲板にさえ出てしまえば、星明かりがぼんやりと視界を照らしてくれる。


「……おおい」


 心細くなって、思わず誰かを呼んだ。見張りたちはちゃんと起きているだろうか。そんなことを思いながら。


「…………」


 返答なし。誰からも。


「おおい」


 おかしい。最低でも4人は見張りについているはずなのに。まさか本当に寝ているのか?


 リベルトは足早に甲板を歩く。船首に椅子を置いて腰掛けている見張りのもとへ。姿勢がおかしい、妙に前のめりだ。やっぱり居眠りして――


「おい馬鹿、眠りこけてるんじゃあない」


 その肩をポンと叩くリベルトだが。



 ぱさっ。



 手のひらに伝わった、あまりにも軽く、乾いた感触にゾッとする。藁人形でも叩いたのかと思った。見張りの船員が身代わりに凝った人形でも置いていたのかと。


 だが、違った。そのまま姿勢を崩し、倒れ込む――かつて船員だったモノ。まるで干し魚のようにカラカラになった、虚ろな眼窩がこちらを見上げている。


「なっ……」


 思わず数歩後ずさったリベルトは、ドンッと背中に何かが当たるのを感じて、さらにギョッとした。


「おやおや。まさか気づかれるとは」


 ――落ち着きのある男の声。


 弾かれたように振り返れば、なぜか礼服姿の、妙に顔色の悪い美男が立っていた。


 馬鹿な! 一瞬前まで、こんなやつはいなかったはず――


 しかもその瞳は、闇夜でおどろおどろしく、赤く光っていて。


「たまたま起き出してきたのではなくて?」


 かと思えば、今度は側面から女の声。かつかつとヒールの音、こんな貨物船には不似合いなドレス姿の美女が立っていた。こちらも顔色は悪く、当然のように――



 瞳が、赤い。



 ――闇の、輩。



「っ!!!」


 咄嗟に、腰の剣に手を伸ばすリベルト。しかし次の瞬間、冷たいような熱いような異様な感覚が右肘あたりを撫でた。


 ボトッと鈍い音を立て、リベルトの右腕が甲板に転がる。しばし呆気に取られて、鮮烈な痛みを知覚したリベルトの喉から悲鳴が振り絞られ――


 ――る直前に、肘からぼたぼたと流れ落ちる鮮血が、まるで自らの意志を持つ蛇のように蠢き、リベルトの首に巻き付いた。


 ……息ができない!! 痛い! 苦しい!!


「かっ……がはッ……!」

「活きのいい奴だ。同盟圏の後方は、皆が元気だな」

「本当に、わざわざやってきた甲斐がありましたわね」


 喉に残った左手をやり、悶絶するリベルトをよそに、男女が呑気な会話を交わす。


「どうだ、まだ食べられそうか」

「そろそろ満腹ですわ。でもデザートにはちょうど良さそう」

「私もそう思っていたところだ」


 うふふ、ははは、と顔を見合わせて笑ったふたりは。


 甲板に尻もちをついたリベルトを、酷薄に見下ろす。


「ああ、レイジュ族どもに気を使わず、踊り食いできるのは本当に気分がいいな」


 美男が手を振るうと、リベルトの右手肘の血液が脈動し。


「【流血花レフスト・アントス】」



 爆ぜた。



 全身が、体の表面が、焼きごてでも当てられたかのように灼熱する感覚。それが痛みであることに気づいたのは、一瞬、意識を喪失して甲板に倒れ込んでからだった。痛い! 痛い痛い痛い!!! 全身が焼けるようで、それなのに、そしてあんなに蒸し暑い夜だったのに、寒気が這い上がってくる。


 痛い。苦しい。


 もはや声さえ――


「ああ、この味。やっぱり風味が違いますわねぇ」


 じゅる、じゅる。


 不快な音。すぐ近く。何の音。わからない。恍惚とした女の声――


「やはり痛めつけると味がスッキリするな。後口にぴったりだ……」


 じゅる、じゅるる。


 男の愉悦を滲ませる声。暗い、寒い、誰か、誰か――


 何が何やらわからない、混乱と苦痛のさなか。しかし濃厚な死の気配を本能的に察知していたリベルトは、声にならない悲鳴を上げ続けていた。


 嫌だ、ダメだ、死にたくない。死ぬわけにはいかない。だって娘の花嫁姿をまだ見ていない。第一、取引が。家族が。商会が。自分はまだ、こんなところで倒れるわけにはいかない。帰らなければ。帰りたい、帰りたい!


 誰か、助けてくれ。


 しかしそんな願いも虚しく、リベルトの意識は暗闇に呑まれていき――




 …………。




 突如として、まるで水底から引き上げられたかのような感覚。




 急激な覚醒。視界が一気にひらける。


 ――ここは?


 気づけば、何の変哲もない、手狭な部屋にリベルトはいた。苦痛はまったくなく、身体も軽い。


 ――自分は助けられたのか……?


 見れば眼前には、凛々しい顔立ちの青年が立っている。その隣には銀髪で金色の瞳の可憐な少女。ふたりとも険しい表情で、それでいて、どこか物悲しげな目でこちらを見ていた。


 ――私はどうなっている?


 一切の苦痛はなかったが、その憐れむような目に、『自分がどんな状態なのか』が無性に気になった。


 だが、それ以上、何かを考える前にリベルトはギョッとしてしまう。


 なぜなら青年の背後に、半透明な野性的な美女の姿を認めてしまったから。


『うわぁ! おばけだ!!』


 思わず数歩後ずさるリベルトに、美女は目をぱちくりさせてから、苦笑した。


 いや、ただ苦笑と呼ぶには、あまりにも苦み走った笑みだったかもしれない――


『そりゃあね、お互い様ってやつさ』


 リベルトを指さしながら、美女は言う。


『……え?』


 そこで初めて、リベルトは自分の体を見下ろした。



 そして気づいた。



 ――美女と同じような、半透明な己の姿に。

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