382.幸福と自由


 ――きっときみを幸せにはできない。


 そうアレクに言われた瞬間の、レイラの心情を一言で表すなら。


『?』だった。


「わたし、ずっと幸せです」


 そっと胸に手を当てながら、レイラは言う。


 思い返せば、アレクに――ジルバギアスに引き取られるまで、ずっと真っ暗な竜生だった。幼い頃に母を殺され、父と引き離され、竜の姿に戻ることさえ許されずに、虐げられ続けていた。


 生きるのが率直に言って苦痛だった。だけど、父が助けに来てくれるかもしれないという、ほんの僅かな希望にすがって、生き続けていた。――もっともその希望も、魔王子ジルバギアスが完膚なきまでに粉砕してしまったわけだが。


 おそらく父の死を聞いた瞬間と、父を殺したその魔王子に『献上』されると知った瞬間が、レイラの竜生における絶望のピークだった。


 でも、ジルバギアスのモノになってから、すべてが変わった。竜たちに小突かれたりいびられたりすることもなくなったし、周りはみんな優しかったし(比較的)、竜の姿に戻ったり、飛行の練習をしたりもできるようになった。


 ガルーニャやリリアナという友達(?)もできた。それだけでも、レイラはかなり幸せだった。


(でも、それだけじゃなかった)


 死霊術を学んだジルバギアスが、父の霊魂を呼び出して。


 色々あってジルバギアスの正体を――アレクのことを知り。


 父の記憶や技も受け継ぐことができた。


(――わたしの、宝物)


 すべてが愛おしい。正直なところ、父を殺された恨みが、本当に欠片もないのかと問われると嘘になる。だけど、それらをすべてひっくるめて、愛しているのだ。


 昔は自分が世界で一番不幸だと思っていた。


 だけど蓋を開けてみれば、もっととんでもない地獄で、のたうち回り血反吐を吐きながら、それでも前に進もうとしている人がいた。


 ある種の尊敬だったのかもしれない。あるいは、憐憫や同情か。もしかしたら自分を解放してくれて、最期に父とも会わせてくれたことに対する恩義。


 何がきっかけかは今となってはわからないが、アレクの支えになりたい、この人を応援したい、とレイラは願うようになった。


 そして今、同盟圏で、これ以上ない形で希望が叶っている。


 大好きなアレクと、一緒にいられる。幸せだった。幸せなのだ。


 でも、できるなら――アレクにとってもっと『特別な』存在に、名実ともになりたかったし、何ならアレクを『自分のモノ』にしたかった。


 けれど当のアレクは、『レイラを幸せにできないから』と言ってそれを拒む姿勢を見せている。ちょっとよくわからない。


「アレク?」


 なので、真意を問うことにした。


 彼の手を取ったレイラは、そっと自らの首元に導く。



【キズーナ】に、触れさせる。



 途端、アレクの心象風景が、瑞々しい野山の香りの記憶が、魂にこびりついた血と炎と煙の臭いが、押し寄せてきた。


(……ああ)


 レイラは、理解した。


 アレクの――ほとんどかすれ切って見えない『幼い頃の故郷の記憶』、彼が思い描く『ありふれた理想の家族のあり方』、そしてそれらがすべて灰燼に帰した怒り、悲しみ、憎しみ――


 アレクにとってかけがえのない大切なものが、ひとつずつ戦火にくべられていき、燃え尽きていく。そして最期には、アレク自身がその業火に焼かれようとしている。その傍らには、巻き添えになって無惨に焼け焦げていく自分レイラ――そんなビジョンを、共有した。



 しかし共有した上で、



 捻じ曲げた。



 焼け焦げていくレイラは、悶え苦しむよりも、むしろ――微笑んで、アレクを抱きしめた。竜の姿に変わる。この程度の炎で、ドラゴンの鱗が傷つくとでも? アレクを前脚で引っ掴み、翼を広げて、大空に舞い上がる。どこまでも自由に――


『えぇ……』


 ビジョンを上書きされたアレクが、呆気に取られるのが伝わってきた。


 今となっては、レイラは卑屈でも自虐的でもなく、破滅願望者でもないので、わざわざ自分から死にたいとは思わない。この先にどうしようもない破滅が待ち受けていて、アレクと心中することになったとして。まあ、最期まで一緒にいられるならそれはそれでアリだなという気はするが、歓迎したいとは思わない。


 だって、そんな理不尽な結末に対して、抗う力を、翼を、意志を。


 自分にくれたのは、他でもないアレクだから。


(――アレクの気持ちは、わかりました)


 彼の手を包み込み、そっとその背中に抱きつきながら、レイラは思う。


(アレクは、わたしの好意を受け止めるからには、わたしのことも幸せにしたいと願っていて。アレクが思う『幸せ』というのが、……えっと、その)


 改めて言語化しようとすると、照れちゃうけど。


(わたしと……結婚して、可愛い子どもたちに囲まれて、みんなで仲良く、穏やかに平和に、田舎で畑を耕しながら暮らしていく――そんな感じなんですね)


『う、うん……』


 改めて言語化されるとちょっと恥ずかしかったらしく、アレクがきまり悪そうに、しゅんと小さくなる。


 アレクの責任感の強さが、こんなところにも出ていた。レイラの好意を受けるからには、全力で、理想の形で応えたい。そう願った結果がコレなのだ。


(…………)


 この時点で、レイラの中では愛おしさが爆発しそうになっていた。その感情に直に触れて圧倒されたアレクが思わず「うおっ……」と声を出す。


(……でも、そうはできない、そうはならないと、思ってるんですね)


 アレクの気持ちは、複雑だった。


 まず、思い描く理想はすべて喪われて、今さら戻らない、という諦め。


 次に、罪なき人々を蹂躙し、家来や仲間を裏切り、禁忌の道を邁進する自分には、そんな幸せを手にする資格はない、という自罰的思考。


 そして本来はドラゴンであるレイラに、人族としてのあり方を押し付けてしまうのではないか、そもそも異種族婚ってどうなの、という恐れや疑問。


 それらに加えて、レイラが悲惨な境遇から広い世界を知らないこと、色々あってお互い依存してしまっているのではないか、それをいいことにレイラの力を利用し続けていいのか、という葛藤。


 自分から『解放』されて、レイラはもっと自由に生きた方がいいのではないか、という良心の呵責。


 でもレイラがいなくなったら実際困る、そんな利己的な考えが頭をよぎる己への、失望、怒り、後悔――


 今のアレクは、すべてを曝け出していた。【キズーナ】で互いの魂に触れていてもなお、普段は心の奥底に蓋をして仕舞い込んでいたような気持ちを、すべて。


(ああ……)


 それらをすべて噛み締めたレイラは――



(じゃあ、わたしも)



 我慢するのを、やめた。



(アレクのことが好き。愛している。誰よりも心が強いのに、こんなにも繊細で弱いところもあって、放っておけない。可哀想。そんなところもすき。わたしのこと本当に大切に思ってくれてるのがわかる。だから臆病になっちゃってる。大好き。たまらない。本当にすき。このまま食らいついちゃいたい)


(アレクとずっと旅をしていたい。使命もしがらみも全部放り捨てて、気ままにのんびりと暮らしていきたい。正直人族が滅んじゃっても、わたしは割とどうでもいいけど、今まで知り合った人たちがみんな死んじゃうのはイヤだ。それでアレクが悲しむのはもっとイヤだ。アレクの笑顔が見ていたいの。アレクには、幸せになってもらいたいの)


(みんなのことを守ろうとするアレクが好き。どんな状況でも勇者であろうとする気高い心が好き。でも、自分を犠牲にしてみんなを救おうとしているところは、嫌い。だってアレク自身が救われないから。アレクにも救われて欲しい。リリアナがいない今、助けられるのはもうわたししかいない。わたしがアレクを救いたい、もっと力になりたい)


(わたしとの幸せな生活、ちゃっかり少しは考えてくれていたアレクがすき。子どもは3人くらいほしいな、なんて思っちゃってるところがすき。でもそれをぜんぶ思い描いた先から諦めちゃってるところはイヤ。諦めないで。もっと自分のことも考えてほしい)


(でも、今まで裏切ったヒトたちのことも忘れてなくて、苦しんでるアレクも、本当にたまらなく愛おしい。可哀想。なのに頑張ってるアレクがすき。必死で自分を奮い立たせているアレクが、涙が出るくらい愛おしいの。あなたのことを放っておくなんてできない。それができるなら、わたしはもう誰も愛せない)


(アレクを、わたしのモノにしたい。わたしがアレクのことしか考えられないくらいにアレクもわたしのことしか考えられないようにしたい。そんなことしちゃダメだってわかってるけど、この気持ちを消し去ることはできない。だってアレクの存在は、わたしにとってもう大きすぎる。わたしに最大の絶望と希望を与えてくれたヒト。あなたを忘れて生きていくことなんてできるはずがない)


(なんでわたしはこんなふうになっちゃったんだろう? 周りを見て、ご本とかも読んで勉強して、自分がちょっと変なんじゃないかってことは薄々気づいてる。もしかしたらアレクに依存してるのかもしれない。でも、そんな自分が好き。こんなふうにしてくれたアレクも好き)


(でも、同時にアレクのことは、やっぱり憎い。なんでお父さんを殺したの、なんてたまにそんなことを思っちゃう自分も嫌い。ずっとそのことを考えたら頭がおかしくなっちゃいそう。おかしくなっちゃったのかもしれない。だからわたしをこんなふうにしたアレクに、責任を取ってもらわなきゃ。わたしの竜生に、人生に、アレクがいないなんてもう考えられない。あなたは、ずっと、わたしの憎い王子様でいて)



 アレク、アレク、アレク――限りない思慕と愛憎を、普段は自重したり抑えつけたりしていた感情を、解き放った。



「…………」


 直撃を受けたアレクは、もはや絶句している。


「今さら」


 レイラは敢えて、口に出した。


「アレク抜きで、生きてくのは、無理です」


 レイラは幸せなのだ。そばにいないと無理な人がずっとそばにいるから。


(わたしにも、もっと普通のドラゴンらしい自由な生き方があるんじゃないか、ってあなたは考えてましたね)


『……うん』


(まずハッキリ言わせてもらいますけど、わたし、ドラゴンらしい生き方にはそれほど魅力を感じてないです)


 え、とアレクが間の抜けた声を漏らした。


(ずーーーっと人化して生きてきたので、慣れちゃったこともあるんですけど。そもそも『ドラゴンらしい生き方』って何ですか? 金銀財宝を集めたり、適当にその辺を飛び回って肉付きがいい動物がいたらバリッと食べちゃったり、ホワイトドラゴンなら日向ぼっこしたりとか、そんなのですか?)


 ぶっちゃけレイラもドラゴンなので、光り物はけっこう好きだ。


 しかしどれだけ宝石や装飾品を集めても、結局それらを身につけて楽しむには人化する必要がある。起源からして【人化】とはそういう魔法だ。


 食事に関しても、人化して食べた方がいい。食材は料理した方が美味しいし、たとえば牛一頭なら、ドラゴンの姿だとバリバリペロッと食べてしまうが、人化すれば何十食も楽しめる。


(空を飛んだり、泳ぎたかったりすれば、そのとき竜の姿に戻ればいいだけです。あと別に、恋愛対象としても、ドラゴンは……正直ちょっと、今でも同族には苦手意識はありますし……)


 アレクがドラゴンになったら、絶対カッコイイ! という乙女心はあるが、それはそれとして。



(あなたは、私に自由をくれました)


 そっと、呆然としたアレクの頬に、手を添える。



(竜の洞窟にいたときと違って、わたしはいつでも竜の姿に戻れます)


 首輪をつけられ、人化を強いられているわけではない。


(――でも、敢えて人化したまま、あなたに寄り添える)


 今、このときのように。


 それを選んでいるのは、他でもない、レイラ自身だ。



(竜の洞窟にいたときと違って、今なら自由に空も飛べます)


 ブレスも吐けるし、魔法も飛び方も会得した。どこにだって行ける。


(――でも、敢えてあなたと一緒に歩いたり、船に乗ったりできる)


 人化したまま、アレクとともに。


 それを選んでいるのは、他でもない。



(わたし自身。飛べるけど、飛ばない。どこにでも行けるけど、行かない。ドラゴンの姿に戻れるけど、戻らない。ぜんぶ、ぜんぶわたしが選んでいるんです)


 それこそが、アレクが与えてくれた、


(『真の自由』。そうでしょう?)



 その問いかけに。



 愕然としたアレクの心に、じわ――と悔恨が滲む。



『ごめん……俺……』


 レイラの『幸せ』を心の底から願っていたが、それは独りよがりなものにすぎず、レイラ自身の意志を蔑ろにしていた――と。


 自責の念があっという間に膨れ上がり、逆に現実の肉体はしおしおと萎んでいくかのようだった。沈痛の面持ち――見ているこちらが気の毒になるほど、めちゃくちゃに反省していた。


 別にレイラは、そんなアレクを愛おしくこそ思えど、欠片も怒ってはいないので、(もちろん許しちゃいます! ぜんっぜん気にしなくていいんですからね!)という気持ちなのだが。


「ダメです。許しませんっ」


 内心が筒抜けなのはわかった上で、そう口に出した。


 アレクが責任感の強すぎるタイプなのはわかっていたつもりだったが、ここまでとは思っていなかった。


 自分には破滅的な結末が相応しい――そう思い込んでいる。人の痛みを知るアレクだからこそ、その判断は妥当なのかもしれない。そしてアレクが心の底からその結末を望むなら、好きにさせるのもひとつの愛の形なのかもしれない。


 だけど。


 レイラはそれを、望まない。


「……大事な人をみんな、守ろうとするあなたがすき」


 これ以上ないくらい、愛してる。


「でも、お願いです。わたしの大事な人を、大事なあなたを、傷つけないで」


 修羅の道を突き進むなら、それを支えよう。ともに苦しみを分かち合おう。


 だけどその行く先を、結末を。


 今から不幸な形で、思い描かないで。



「もしもこの先、あなたが、進んで不幸になろうとしたら」



 今回、アレクがレイラの意志を顧みなかった仕返しに。



「わたしが、全力であなたを幸せにしようとします」



 アレクが心の底から望んでいて、でも諦めてしまった夢の未来に。



(わたしが、乗せていってあげます)



 ――アレクが、目を見開いた。



「レイラ……」


 つっ、とアレクの頬に、涙が一筋伝った。


 ああ――彼は、ずっと、苦しんできたのだ。どんなに自罰的でも、責任感が強くても、好き好んで苦しい思いをしたいわけじゃない。ただ、使命感と怒りに駆られて、前へ前へと進み続けているだけなのだ。


 だからこそレイラの言葉が、沁みた。地獄に光明がさした。愛しさと、申し訳無さと、ありがたさと――様々な想いがないまぜになってレイラに押し寄せてくる。


 だけど、ここまで言ってもなお、彼は『楽』にはなっていなかった。良心の呵責を手放していない。自責の念を、完全に拭い去ることはできていなかった。


 ……仕方のないことだ。ここで開き直らず、苦しみを背負う人間だからこそ――


 禁忌の大魔神も、彼に魅入られたのだから。


 それでも、いい。アレクの根本は変わらなくても、レイラが打ち明けた本心を、彼は拒絶しなかった。



(絶対に、あなたのことは、逃さないんですからね)



 強く、強くアレクを抱きしめながら、レイラは思う。



(もしもあなたが知らないなら、教えてあげますけど)



 金色の瞳を爛々と輝かせ、にっこりと微笑んだ。



(わたしってけっこう、傲慢で、強欲なんです)



 ――誇り高きドラゴンなので。

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