375.水先案内人
「……あなたには、冥府に還ってもらおうかと」
この霊魂は、俺の魔力で無理やり存在を補強され、かろうじてその自我を保っているに過ぎない。
補強を解除して霊界に送り返せば――彼の魂は自然に、そして速やかに、消滅するだろう。情報が漏れる恐れもない。
『――――』
ゆら、と霊魂が揺れた。
彼は黙したままだった。己の運命を受け入れるように。だが、彼の霊魂を包み込む闇の魔力は、嵐が迫りつつある湖面のようにさざめいていた。
「やはり、未練があるか」
俺は静かに問う。
未練を感じるだけの自我が、あなたにはまだ、残されているのか。
『私は、死にたくなかった』
ぽつりとつぶやくように。
『具体的には思い出せない。だが私には、まだ死ねない理由があった』
ズズ……と霊魂が、にわかに圧を強める。
『許せない。私を殺した奴を、絶対に許すことはできない』
亡霊の眼差しが、俺を貫く。
『このままでは、死んでも死にきれない。せめて私を殺した奴に復讐したい。あなたは吸血鬼を退治すると言っていた。私には、私の存在すべてを賭して、あなたに協力する意志がある』
――魂の核は感情だ。自我を失ったアンデッドは、死の直前の怒りや憎しみに心が支配され、怨霊そのものと化している。そこで死霊術師に自我や理性を強化されれば、感情の制御が可能となり、理性的に振る舞えるようになるのだ。
だがそれは――彼らの感情が、想いが、消えてしまうことを意味しない。
仮初の理性の下には、激しい情動が渦巻いている――
そしてそのあり方は、どうしようもなく、俺の琴線に触れた。
「わかった。あなたの協力に感謝する」
俺は一も二もなくうなずいた。
「あなたは、あなたの意志により、己を害した闇の輩への復讐を誓う。そうだな」
『はい』
「……であるならば」
――彼は、人類の敵ではない。
【
「実験的ではあるが、あなたに選択肢を与えたい」
俺が差し出した聖銀呪の光に、思わず、結界の中で後ずさる霊魂。
「この輝きは、あなたの魂を燃やすだろう。しかし、あなたが本当に人類の守護者であるならば、あなたを即座に滅することはない」
俺が、【名乗り】を習得するために、初めて殺した人族の兵士たちも。
死霊術で呼び出したときは、もう魂がボロボロになっていた。
それでも、彼らは聖銀呪の輝きに触れ、焼かれることなく理性を取り戻した。
であれば、だ。吸血鬼へ一矢報いるという、明確な目的を持つこの霊魂ならば。
きっと――彼もまた――
「聖なる輝きはあなたの魂を燃料として、あなたに闇の輩を討つ力を与えるだろう。本来、霊魂のままでは、吸血鬼に対して被害を与えることは難しい。しかしこの輝きを身にまとうことができれば、触れるだけで闇の輩を――」
まだ全部説明し終えていないのに、霊魂が手を伸ばして、輝きに触れた。
ザァッ――と漆黒の影に包まれていた霊魂が、一気に銀色に染まり、はっきりとした輪郭を取り戻す。
『これは……。思考が、明瞭になりました』
太っちょな中年男の霊が、自身の銀色に輝く手を不思議そうに見下ろしている。
「……よかった。成功した」
『失敗する可能性もあったのでしょうか』
「うん……その場合は、焼かれて消えてたんじゃないかな……一応、そのリスクについても話すつもりだったんだが……」
『それは、少し早まったかもしれませんね。失敗しなくてよかった』
ちょっとバツが悪そうな顔をする、オッサン霊。……あの遺体、腐敗して膨れてたんじゃなくて、元からこういう体型だったんだな……。表情もはっきりわかるようになったし、存在の厚みも増している。湖の亡霊あらため人類の守護聖霊だ。
これは――デカいぞ。
吸血鬼どもを狩るのに、これほど心強い味方もいない。水草の根を分けてでも探し出し、奴らをブチ殺すことができるようになった……!
「他に、何か思い出せたことは?」
『…………残念ながら、何も』
ゆるゆると首を振るオッサン聖霊。
『自分の名前はおろか、出身地も……カ……ェ……カェ……ム……だめですね。思い出せません』
「そうか……それは残念だな」
年かさ兵士も結局、自分の名前は思い出せないままだもんなぁ。死んでどの記憶をどれだけ保持できるかは個人差が大きい。
『その点、お主は自分の名前は覚えていてよかったの』
……確かに! 【名乗り】が使えなくなるところだった。
「名無しのままだとちょっと不便だから……よければ、そうだな、マーティンと呼んでもいいか?」
『はい。構いません』
オッサン聖霊あらため、マーティンは大人しくうなずいた。
ちなみに、パッと思いついたこの名前は、エルフの叙事詩に登場するとある人族の旅人だ。病気で行き倒れていたところを不憫に思った森エルフに治療され、元気になって再び旅立ったが、後日、川の上流から死体になって流れてきた。
どうやら強盗に襲われたようで、マーティンと取っ組み合った状態で、ガラの悪い男の溺死体も一緒に流れてきており、マーティンを助けたエルフはやるせなくて嘆き悲しんだ、というお話だ。
この叙事詩そのものは「人族ってただでさえ寿命短いのにホントすぐ死んじゃうよね、可哀想だね」的な内容なんだが――事実だけど腹立つな――マーティンが、自身も命を落としながらも強盗を道連れにして一矢報いた、というところが俺にとっては印象的だったので、ふと思い出したのだ。
このオッサン聖霊にも、ぴったりな呼び名だと思う。
「ありがとう。マーティン、あなたはその姿で活動している間、あなたの存在そのものを消耗してしまう。なので一旦眠ってもらって、また用事があるとき――吸血鬼を探すときとか、奴らが現れたときとか――に呼び出そうと思う」
『わかりました。ご用向がございましたら、何なりとお呼びください』
胸に手を当てて優雅に一礼するマーティン、まるで商人みたいな仕草だな。もしかしたら、生前はそれなりに上位の商人だったのかも――
そんなわけで、マーティンには、遺髪に宿ってもらって非活性化してもらうことになった。
『吸血鬼探しは、アタシも協力するからね。聖属性をまとえないのはアレだけど』
新たな幽霊仲間の加入を受けて、バルバラもやる気を見せている。
「ああ、頼りにしてるぜ!」
情報提供者にして、心強い味方もできた。
さて、アーサーに同行する旨を伝えに行くか――
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