341.どす黒い真実


 糸車の前に腰掛けたまま、凍りついたように動けないイザベラ。


 信じられなかった。


 とてつもなく薄汚れた格好をしていて、普段の穏やかな雰囲気なんて影も形もないが――目の前のこの人物は、間違いなく、オフィシアだ!


 野垂れ死にかけていた自分たちを、救い出してくれた恩人。


 それがなぜ、娘の口をふさいで、ナイフを首に突きつけているのか。


 たちの悪い冗談でないことは、その邪悪な笑みと、ニーナの首に食い込んだ刃を見れば明らかだった。


「ふふふ……」


 震えるニーナと愕然とするイザベラに、笑みを濃くするオフィシア。


「こんばんは。お前たちを助けた『貸し』の、取り立てに来たわ」


 いったい何を、と言いかけたイザベラは、「声を出したら殺す」というオフィシアの警告を思い出し、慌てて口をつぐむ。


「さあ来い」


 ニーナの耳元にささやきかけ、無理やり歩かせる。ふーっ、ふーっと激しく乱れたニーナの呼吸、口をふさぐ左手に鼻息が当たってくすぐったい。まるで解剖用の実験動物を取り押さえているみたいで、嗜虐心をそそられる。


 ずんずんと近づいてくるオフィシアに、何が目的なのか皆目見当がつかないイザベラは、声を上げないよう口を押さえて、ただ震えていた。


「大丈夫よ」


 オフィシアは気色の悪い猫撫で声で話しかける。


「ニーナは傷つけないから」


 今はね、と心の中で付け加えた。


「騒いだら殺す」


 もう一度ニーナに念押ししてから、口を押さえていた手を離し、オフィシアは薬を染み込ませたハンカチを取り出した。


 そして素早く。


 再び、それでニーナの口を塞ぐ。


「ッ!? んぅ……ッ!?」


 突如として鼻腔を満たす、得体の知れないフローラルな香りに困惑するニーナ。


 香水瓶に入れて偽装するだけのことはあって、この薬はいい香りなのだ――そして効果が発揮されるまで、少し時間がかかる。吸わせすぎると呼吸まで止まるので加減が難しいが――



「今からお前の母親を殺す」



 つまり、ニーナが意識を失うまで、ほんの少しだけ猶予がある。


「んぅゥ!?」


 あまりにも物騒な言葉に目を剥くニーナ。首のナイフにも構わず暴れて抵抗しようとするが、うまく体に力が入らないことに気づく。薬が回り始めている――


「おっと。悲鳴を上げれば、娘の死期が早まるわよ?」


 思わず腰を浮かせたイザベラに、さらなる脅しをかけるオフィシア。


 イザベラはもはや、目に涙を浮かべて、力なく首を振ることしかできなかった。何が起きているのか理解できない。夫の遺骨が帰ってきて、病気まで治してもらって、今日はいい日だと思っていたのに、なぜこんな……


「や、め……て……」


 苦しげに声を絞り出すニーナをよそに、オフィシアはイザベラにナイフを向けた。


「さあ、せいぜい苦しみなさい」


 実に楽しげに、すくみ上がったイザベラの胴に、刃を振り下ろす――



 ガタタッ、と。



 ベッド脇の戸棚が、震えた。



 戸棚の引き出しから、銀色の光が漏れ出した。



「……は?」


 思わず目が点になるオフィシア。彼女の目が正しければ――銀色の手が伸び、引き出しを開けているように見えた。


 指先ほどの大きさの、銀色の光の粒が飛び出してくる。


『俺の妻と娘に――』


 遥か彼方から響くような、男の声。ハッと顔を上げるイザベラ――


『――触れるなァ!』


 カッ! と視界が銀に染まった。


「ぎィ――ッ!?」


 オフィシアの顔面や手に、焼きごてを押し当てられたような激痛が走った。思わずニーナを拘束する手が緩み、それを見て取ったイザベラが、椅子を蹴倒しながら立ち上がる。


「ニーナ!」


 ほのかな銀の光をまとったイザベラが、捨て身のタックル。オフィシアの体勢を崩してからニーナを奪い返して、部屋の外に逃げようとする。


 が、銀色の輝きは、長くは続かなかった。ぽとっと床に転がった遺骨は一瞬にして光を失い、物言わぬただの骨片に戻る。


「この――ッ何をしたッ」


 そして、整った顔に軽い火傷を負ったオフィシアが、怒りと困惑に目を吊り上げてナイフを振るった。


 イザベラの背に――


 ドスンッとナイフが突き刺さる。


「あぐっ」


 それでもなお、足を止めないイザベラだったが、病み上がりの身で、しかも身動きがままならない娘を抱えて走るのは、あまりに困難だった。


 動きが鈍ったところを、さらに二度、三度と後ろから背中や腰を刺され、血を吐きながら倒れ伏す。


「ニーナ……逃げ、て……」


 自分の下敷きになってしまったニーナを、必死で部屋の外に押し出そうとするが、ニーナはニーナで身体が動かず。


「お母……さ……」


 薬が回って朦朧としたニーナは、イザベラに手を伸ばしたまま、虚ろな目になって動きを止めてしまった。浅い呼吸、半覚醒状態だが、もはや意識はない――


「ああ……」


 口の端から血を流し、絶望の溜息をこぼすイザベラ。


「クソが……ッ」


 その髪を引っ掴み、オフィシアが無理やり顔を上げさせた。


「よくもやってくれたわね……!」


 オフィシアの表情は、まさに悪鬼そのものだ。こんな雑魚に、意味不明な仕掛け、あるいは魔法のような何かで一杯食わされてしまった。それが自分でも我慢ならなかったのだ。


「お前の娘は、惨たらしく殺してやる……」


 毒々しい声で、オフィシアは宣言した。


「生きたまま全身の皮を剥ぎ、手足の腱を切って、森に置き去りにして狼の餌にしてやる。この世に生まれたことを後悔させてやるわ……」

「やめて……なんで……そんな、こと、を……」


 ごぷっ、と血を吐きながら、顔面蒼白なイザベラが涙を流す。


「あはっ」


 オフィシアは、あくまでも邪悪に。


「――その顔が見たかった」


 だから、そうするのだ。



 少しだけ溜飲を下げたオフィシアは、ナイフの柄でイザベラの後頭部をゴツンと殴りつけてから、立ち上がった。



(さて……)


 今の銀色の光――聖属性と思しき魔法はなんだったのか? 魔法具か? だとしてもなぜ、イザベラのような貧民がそんなものを? 疑問は尽きないが、検証する暇もイザベラから聞き出す時間もない。どうせ聞き出す前に失血で死ぬだろうし。


 それより、今の騒ぎで他の住民が起き出したかもしれない。さっさと他の部屋もして回らねば。


(これ以上、物音を立てるわけにはいかないわ)


 とりあえずニーナをベッドに寝かせて、隠密行動を――




 ズガシャァンッ!! と轟音が響き渡った。




 背後、雨戸が木っ端微塵に砕け散り、床と天井がビリビリと震えた。壁の一部をもブチ破りながら、外から、何かが、部屋に突入してきたのだ。


「な――ッ!?」


 隠密行動どころか、とんでもない爆音。


 弾かれたように振り返ったオフィシアは――



「テメェ……ッ!!」



 それと、目が合った。



 ぱらぱらと壁材の破片を髪から振り落としながら、月明かりの下、両の瞳に怒りの火を燃やす――ひとりの男。



 勇者アレックス。



 そのひとが。



 なぜ。なぜこいつがここに。やはりこいつか。こいつなのか!!


「……ッ」


 疑問と納得が同時に浮かび上がる中、ぞわ、と総毛立つのを感じた。


 まるで粘り気のある風のように、オフィシアに死を意識させる、濃厚な殺意が吹き寄せてきたのだ――


 死ぬ。


 絶対に、死ぬ。


 自分はここで、息絶える。


 これまで、幾度となく自分を助けてきた直感が、無慈悲に、そう告げていた。


「う……動くな。この娘が、どうなっても……!」


 往生際の悪いオフィシアが取った行動――それは、人質だ。


 ぐったりとしたニーナを抱き寄せて、イザベラにしたように、首にナイフを突きつけてみせる。


 頭ではわかっていたのに。知識として知っていたのに。


 ――聖教会の狂信者どもが、この程度で止まるはずがない、と。


「…………」


 憤怒から、もはや仮面のような無表情に成り果てたアレックスが、ちらっと視線を動かした。オフィシアの足元に。力なく倒れ伏す、血まみれのイザベラに――


 その指先が、助けを求めるかのように、かすかに、動いた。


 どろり、と。


 アレックスから、どす黒い闇が溢れ出す。


「え?」


 呆気に取られるオフィシア。これは、闇の魔力? そんなバカな。なぜ? あり得ない、聖教会の勇者がいったい何を――



 まるで触手のように、イザベラとオフィシアを絡め取った闇の魔力は。



 ふたりを、結びつけた。



「ご……フ……ッ!?」


 瞬間、腰と背に氷を差し込まれたような感覚。こみ上げる鉄の匂い。オフィシアは堪えきれずにえずいて、吐き出した。自分の口からビチャビチャと床に流れ落ちた血を、呆然と眺める。


「あ……ぇ……?」


 力が入らない。がくんと膝をつき、扉に寄りかかって、どうにか姿勢を保つ。


 体温が。どんどん、流れ出していく。背中と腰から。バカな。そんなバカな。これは――知っている! この現象を、自分は知っているぞ!


 魔王国の夜エルフが、知らないはずがない!! これは、この魔法は――



「【転置呪】……!?」



 見れば、足元のイザベラは出血が止まっており、気絶してはいるものの、顔色も元に戻っていた。



 入れ替えられたのだ! 自分とイザベラの、状態を!



 なぜ、この血統魔法を、聖教会の勇者が使える!?



 愕然と、眼前のアレックスを凝視するオフィシア。


 聖剣を鞘から抜き放った勇者は、どこまでも冷徹な顔でこちらを見据えている。


 不意に、昼間の印象が蘇った。『老獪な夜エルフにゲームを挑んで、手のひらの上で転がされているような不快感』――


 さらに思い出す。パウロ宛に届けられた謎の手紙。『イクセルの名を騙り、魔王子の来訪を匂わせる奇妙な文面』――


 そして今、眼前に立つ男。『突然トドマールに現れ、闇の魔力を持ち、なぜかレイジュ族の血統魔法を使う勇者』――


 レイジュ族。


 まさか。まさか!


 目を見開くオフィシア。


 彼女の直感が、それらの点と点を、線で結びつけた。


 疑問だらけで、意味もわからない。でも、そうとしか思えない――!



「ジル、バ――」



 オフィシアの唇が、その名を紡ぐよりも早く。



「死ね」



 光り輝く聖剣が、オフィシアの頭を一刀両断にかち割った。



 彼女は最期に、真実にたどり着いたのだ。



 そしてその真実とは――



 禁忌だった。

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