340.忍び寄る悪意


 オフィシアは慎重に、中心街へと舞い戻る。


 周囲を最大限に警戒しながら、屋根伝いに倉庫を目指した。アウトルクの依頼の目的がバレていた場合、イザベラとニーナ周辺も警戒されていて危険かもしれないが、どのみち大量の油と布生地を必要としているため、背に腹は代えられない。


(見張りは――いなさそうね)


 遠目に観察するも、特に衛兵などが張り込んでいる様子はなかった。灯りもついておらず、住民たちも寝静まっているように見える。


 警戒すべきは【隠蔽】の魔法で姿を隠した勇者や神官だが、これも、いなさそうだった。そういった上級戦闘員が手ぐすねを引いて待ち構えている、『嫌な感じ』がしなかったからだ。


 直感に過ぎないが、オフィシアは自らの直感を信頼している。


(……よし、誰もいない)


 果たして、それは正しかった。最上階の雨戸から音もなく侵入したが、待ち伏せの気配は皆無だ。


 この建物に暮らしているのは、イザベラ・ニーナ母娘の他は、ほとんど死にかけの老人が数名と、喋れない負傷兵のモックだけ。老人はもちろん、モックも雑魚で脅威にはならない。むしろ悲鳴を上げられるイザベラたちが一番厄介かもしれない。


(モックと老人は後回しでいいわね)


 まずはニーナを確保し、他の住民を制圧。ここを拠点に公都の各地へ火を放っていこう。そして夜明けとともに町の外へ脱出する――


 風向きや街の構造を前提に、どこに火をつけるべきか考え始めるオフィシアだったが――下の階に降りて、ぴたりとその足が止まる。


 キィ、キィと。


 イザベラたちの部屋から、何かが軋むような音。


(あれは……)


 ――糸車だ。


 おそらくイザベラが、糸紡ぎをしている!


(こんな時間に、まだ起きているの? なぜ?)


 月明かりを頼りに内職でもしているのか?


 寝込みを襲うだけでカタがつくと思っていたのに、面倒な! オフィシアは舌打ちしそうになった。


『お母さん、ほんとに元気になったね』


 と、ドアの向こうから、くぐもったニーナの声。


『ええ、身体が羽みたいに軽いの』


 弾むような声でイザベラも答える。オフィシアは眉をひそめた。イザベラはいつも喉に何かがつかえているような、弱々しい声しか発していなかったのに。


(『元気になった』、とは? まさか治療を受けた……?)


 アウトルクは生きているのか? 神官を招いて目的を達したのか? 状況が理解できずに困惑する。


『今日は、本当にお世話になったわね……』


 感慨深げなイザベラの声。


『やっぱり、きちんと御礼をしたいわ』


 御礼……どうやら治療されたのは間違いなさそうだ。オフィシアの知る病弱なイザベラは、ここまで途切れなく話すことができなかった。いつも途中で咳き込んだり、呼吸を整えたりする必要があった――


(なら、あの女の身分はされたのかしら?)


 神官による治療を受けたなら、なりすます手も……いや、そのプランを取るには今の公都は危険すぎる。


 どのみち、この女を殺すことに変わりはない。


『でも無理しちゃダメだよ、お母さん』

『ええ。でも本当に清々しいのよ』


 キィキィと糸車は回り続けている。


『もうちょっとしたら寝るから、あなたは先におやすみなさい』

『じゃあ、寝ながらお母さんのこと見てよーっと』


 ごそごそ、と衣擦れとベッドが軋む音。


『ふふ……』


 どうやらベッドに寝転がったニーナが、糸紡ぎをするイザベラを見守っているようだ。微笑ましげにしているイザベラに、ニーナもくすくす笑っている。そんな母娘の心温まる日常風景を、扉越しに幻視したオフィシアは――


(クソが……)


 イラッとした。


 部下は壊滅し、汚水にまみれてまで必死に生き残りの道を模索している自分に対して、濡れ手で粟に母が治療を受け、いかにも幸せそうな空気を醸し出しているのが、無性に腹立たしい。


(いい気なものね……誰のせいでこうなったと!!)


 オフィシアは今回の一件に、ニーナの連れてきたアレックスとかいう勇者が絡んでいるに違いないと思っていた。確証はないが、タイミングが合致しすぎている。直接的にせよ間接的にせよ、アレックスが一枚噛んでいる――そう直感していた。


 だからこそ許せない。


 元凶を連れてきた、ニーナの能天気さが。


 八つ当たりじみた憤慨が、オフィシアの邪悪な思考回路に火をつけ――



(……そうだ)



 いいことを、思いついた。



 音を立てないよう床に鞄を置いたオフィシアは、香水瓶のひとつを取り出す。


 意識を朦朧とさせる劇薬だ。それをたっぷりとハンカチに吸い込ませて、いつでも使えるように服のポケットに入れておく。


 さらに腰のナイフを抜き、一旦階段まで戻って――敢えて、とんとんと足音を立てながら登った。


『――――』


 廊下から近づいてくる足音に、イザベラたちが会話を止めて、耳をそばだてる気配があった。邪悪に口の端を吊り上げながら、オフィシアは部屋の前まで行き。


 こんこん、と。


 扉を、ノックする。


『…………!?』


 真夜中の来訪者。部屋の中、母娘ふたりの動揺が手に取るようにわかった。


「夜分にごめんなさい」


 いつも通りの穏やかな声で、オフィシアは呼びかけた。


「私よ、オフィシアよ。もう眠ってるかしら……」


 いかにも申し訳なさそうに。イザベラとニーナが顔を見合わせるさまが目に浮かぶようだった。


『……オフィシアさん? どうしたんですか?』


 布団を跳ね除ける音がして、とたとたと軽い足音が近づいてくる。


 ――ニーナの方が来た。


(計画通り)


 ニタァと笑ったオフィシアは、右手にナイフを構える。そのまま無警戒に扉を開けたニーナは――


「え?」


 困惑した。



 そこにいたのは、良質な商人の服に身を包んだ、優しげな美人ではなく。



 薄汚れた衣をまとい、悪臭を漂わせ、悪魔じみた笑みを浮かべる女だったから。



 ガバッ、と左手でニーナの口をふさぎ、抱き寄せるオフィシア。


「ッ!? なにを――」


 慌てて立ち上がるイザベラに対し、


「騒ぐな」


 先ほどとは打って変わって、底冷えのする声でオフィシアは言う。


「それ以上、声を出したら殺す」


 ニーナの首筋に、鋭いナイフを突きつけながら。イザベラは硬直し、ニーナは目を見開いて、混乱と恐怖で動けずにいる。


 それを確認し、満足気にうなずくオフィシア。



 ――先ほど思いついた『いいこと』というのは、これだ。



 当初は先にニーナを気絶させて制圧、続いてイザベラを殺害、という流れを考えていたが、気が変わった。



(このガキを気絶させる前に――)



 イザベラを殺すところを見せつけてやろう!

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