339.策謀と奔走


 ――自分の家の前に人だかりができていた。


 コルテラ商会の支部から戻ってきたオフィシアは、それを見て、とてつもなく嫌な予感に襲われた。


 アウトルクの提案を受け、明日を待たずに行動に移ったオフィシアたち。ハワードとパウロは身分証の偽造などを進め、アウトルクは危険を承知で聖教会に治療の依頼に向かい、オフィシアは治療費を調達するためコルテラ商会支部へ赴いた。


 そして副支部長の権限で金庫から金目のものを持てるだけ持ち出して、帰ってきたら――これだ。


 家の雨戸は開け放たれており、衛兵の格好をした見知らぬ犬獣人が、スンスンと鼻を鳴らしながら顔を出していた。


 まずい。


 オフィシアは足早にその場をあとにする。日が暮れて、暗くなっていたのがせめてもの救いだ。犬獣人はあまり夜目が利かない――


「おい、聞いたか。殺人だってよ」

「火事だって話じゃないか? 黒焦げの死体が見つかったって……」

「そもそも人族じゃないらしい! 夜エルフだって神官様が言ってたぞ!」

「なんだって!?」


 耳を澄ませると、野次馬たちの会話が風に流れて聞こえてきた。


 まずい。まずい。まずい。


 金銀宝石の詰まった鞄を手に、人気のない路地に入ったオフィシアは、軽業師のようにひらりひらりと民家の壁を蹴り、屋根に飛び乗って煙突の陰に身を潜める。


 ……状況を整理しよう。


 まず、我が家が制圧されている。自分の――諜報員じぶんたちの正体は、ほぼ確実にバレたと見て間違いないだろう。


 いったいなぜ?


 ふと、昼間にニーナが連れてきた、得体の知れない勇者の顔がちらついた。やはりあいつか? あいつが死神だったのか? 根拠はないが、そんな気がした。


 ニーナめ、まったく余計なモノを招き寄せてくれた……!


「あのガキ……」


 端正な顔を歪めて小声で唸るオフィシア。


 もはやハワードとパウロの生存は絶望的だ。野次馬が言っていた『黒焦げの死体』は、おそらく聖属性に焼かれたふたり、あるいはそのどちらかだ。


 アウトルクはどうなった? ……無事だと思う方がどうかしている。順番的に、聖教会にノコノコと顔を出したアウトルクこそ最初に討ち取られた可能性が高い。


 最悪、自分以外は全員死んでいると想定して動くべきか。


(……いや、死んでいるならむしろマシな方ね)


 最悪中の最悪は、1、2名が生け捕りにされている状況だ。諜報員はみな、苦痛を軽減する訓練は受けているが、魔法や奇跡を駆使した拷問に死ぬまで耐えられるほど頑強でもない。


 夜エルフは拷問のプロなだけに、それがよくわかっている。医学的な苦痛に対し、精神はあまりにも脆弱なのだ。どんな崇高な遺志の持ち主も、拷問には勝てない――諜報網や魔王国にまつわる情報を、根こそぎ引っこ抜かれたら大問題だ。


 そのための自害用の毒指輪なわけだが、ハワードは確か、使ってしまったのだったか。もちろん先ほど合流したばかりなので、予備は用意できていない。


(まずいわね……)


 ハワードが捕虜になった可能性は高めに想定しておくべきだろう。抜け目のないアウトルクや、機敏なパウロは大丈夫だと信じたいが……


 この状況下で、自分はどう動くべきだろうか。


 持ち物を確認する。聖教会への治療費、および今後の軍資金のために商会から持ち出した金銀に宝石。携帯弓、毒矢が数本、ナイフ、香水瓶に見せかけた薬物が少々、そして商人らしいキルト生地の服。


(匂いをどうにかしなければ)


 鞄から、普段使っている香水瓶を取り出した。夜エルフ諜報員は、犬・狼獣人対策で、特殊な日焼け止めの匂いを誤魔化すために、何かしらの強めな香りを身にまとうことが多い。タバコしかり、香水しかり。


 だが正体がバレてしまった以上、それらの匂いは、獣人兵に追跡されやすくなる足枷でしかない。香水瓶も、その匂いをたっぷり染み込ませた服も、もはや危険物だ。


(何か、別の服を入手しないと)


 そして移動しなければ。


 服を脱ぎながら屋根の上を走っていく。ほぼ肌着と、暗器を吊り下げた革のハーネスだけの姿になって、これまで着ていた服をどこで処分するか悩む。


 しばらく駆けて、中心部から離れた貧民街に近い区画へと入った。下水につながるドブ川に目をつけるオフィシア。


「…………」


 選択の余地はない。ドブ川に、重石代わりの香水瓶を服で包み込んで放り捨て、自らもバシャッと全身浸かって汚水の臭いで香水と体臭を上書きする。


(……吐きそう)


 ヌメヌメした水の感触と、鼻がひん曲がりそうな悪臭。これまでコルテラ商会の上役として、そこそこいい暮らしをしてきたオフィシアには耐え難いものがあった。夜エルフ諜報員として様々な厳しい訓練も経験してきたとはいえ、イヤなものはイヤなのだ。当たり前だった。


(どうせなら、身体を拭いてから服を捨てればよかったわ……)


 綺麗な商人の服は、ドブ川に沈んでしまってもう見えない。未練がましく汚水の水面を眺めたオフィシアは、半ば現実逃避じみてそんなことを考えた。


(さて)


 鞄を拾い上げ、再び屋根の上に駆け上がって場所を変える。体臭はどうにか誤魔化した。だがこんな下着姿でいつまでも行動するわけにはいかない。


 逃げるにせよ潜伏するにせよ、目立たない服は必要だ。金はあるが古着屋はもう閉まっているし、そもそもこんな格好で買い物したら悪目立ちするし、となれば――


 目を細めて、オフィシアは屋根の上から路地を物色して回る。


「~~~♪」


 お目当ての獲物モノは、すぐに見つかった。酒場帰りと思しき酔っ払いの男。鼻歌を歌いながら上機嫌で歩いている――独りだ。そしてオフィシアより恰幅がいいが、実に庶民らしい、そこそこの服を着ている。


 音もなく、オフィシアは路地に降り立った。


「あん?」


 酔っ払いが怪訝な声を上げる。突如として、すらりとした美脚が首に絡みついてきたからだ。


くさ――」


 そして遅れてやってきたドブ川の異臭に、思わず声を上げた酔っ払いは――それが遺言となった。


 ぐるんっと男の首に足を絡みつかせたまま体を捻ったオフィシアが、その勢いで首の骨をへし折ったからだ。パキャッ! と乾いた音が響き、酔っ払いは即死した。


(よし)


 ナイフで殺すと血がつくし、補給ができない現状、薬物類は貴重だ。こうやって仕留めるのが一番汚れが少なくていい。


 手早く酔っ払いの服を剥ぎ取って、着込む。強盗の犯行に見せかけるため、剥ぎ取ったあとで何度かナイフを刺し、死因を偽装しておいた。このまま死体が朝まで見つからなければ、首の骨折も死後硬直で誤魔化せるかもしれない――


(体臭は対策した。一応は服も手に入れた)


 オフィシアは再び移動しながら、考える。



 ……いったい、どうするべきなのか。



(人族の女になりすますプランは破綻したわ)


 聖教会に病人を治療させることで、その身分を漂白してから、入れ替わってなりすまし公都に潜伏する――という計画だったが、突然の身バレで台無しになった。時間的な問題で、イザベラの治療がすでに完了しているとは思えない。


(そもそも、この計画も漏れたかもしれない以上、イザベラに近寄るのは危うい)


 仮に、ハワードが捕虜になったことを想定した場合、コルテラ商会が飼っている人族と入れ替わる計画もおそらくバレるだろう。捕まった諜報員が聖教会の拷問にどれだけ耐えられるかが問題だが……どうにか根性で1日は口を割らなかったとしても、明日の夜にはつまびらかにされる計算だ。


(もっと強情に口を割らない可能性もあるけど、期待しない方がいいわね)


 何事も低めに想定しておくが吉だ。コルテラ商会系列の建物も、待ち伏せされている危険性を考慮すれば、極力近寄らない方がいい。


(……じゃあ、今すぐ逃げ出す?)


 闇夜に紛れて公都から逃れる――それもまたいい案のように思えるが。


(……それができたら苦労しないのよね)


 汚水で湿った髪をかき上げながら、苦々しげに顔を歪めるオフィシア。


 オフィシアが逃げ出すであろうことは、聖教会むこうも想定しているはず。先ほどから街を駆けずり回っていて気づいたが、衛兵の姿がいつもより多い。公都が警戒態勢に入ったと見るべきだ。城門はもとより、公都を取り囲む城壁でも警備が強化されているだろう。


 いくら隠密に長けているオフィシアといえども、今この瞬間、警戒網を真正面から突破するのは難しい。


(『今』はないわね、少なくとも)


 警備にあたる人員も動員されたばかりで、神経を尖らせているはずだ。ここから、衛兵たちが疲弊する時間帯を見計らった方がいい。たとえば――明け方とか。


(まさか夜エルフが朝になってから逃げるとは思わないでしょうからね)


 となると、難民や公都から離れる隊商に紛れ込むのが理想的だが――


(…………)


 考え込む。今、公都は諜報員の存在にざわつき始めている。この状況を、どうにか自分にとって有利に動かせないものか?


(……破壊工作しかないわね)


 一般民衆の恐怖を煽る。街から逃げ出したり、町の外の親戚知人の元に身を寄せたくなるような情勢を作り出す。となると、破壊工作しかない。そしてこの手の人口密集地で恐れられる工作と言えば――


(火事)


 公都トドマールは石造りの建築物が大半だが、木材がないわけではないし、貧民窟などはあばら家同然の木造住宅が立ち並んでいたりもする。


 そこに、効率的に火をつけることができれば。幸い、今宵は雨も降っていないし、空気も乾燥している。風向きに気を使えば充分にやれる。大火になれば、公都の人員も対応に追われ夜エルフ探しどころではなくなるかもしれない。


(となると、油と火種がいるわ)


 そこはコルテラ商会の得意分野だ。公都にいくつも倉庫を抱えており、大量の物資のストックがある。さらにオフィシアの頭には、商会の帳簿が丸ごと収まっているのだ。記憶をたどればどこに何があるか、たやすくわかる――


「…………」


 そして脳内の帳簿を開いたオフィシアは、再び渋い顔をした。



(つくづく縁があるわね)



 食用・ランプ用の油と、綿花や糸、布生地のストックは、同じ倉庫にあった。



 そしてその倉庫は、トドマール支部の商館のほど近く、市街地に位置し。



 ――糸紡ぎの名人であるイザベラと、その娘ニーナの仮住まいでもあった。



(まあ、ちょうどいいわね。夜エルフの破壊工作で家を焼かれ、恐慌した貧民に紛れて公都を脱出する――)



 そして聖教会の連中が探しているのは、独り身の女オフィシア





 幸いなことに、香水瓶に見せかけた薬物を何種類か持っている。その中には、人族の意識を混濁させる毒もある。



(『病で意識が朦朧とした娘を連れて、公都を脱出する母親』。これね)



 実にしっくりくる設定ではないか。イザベラを殺し、ニーナを昏倒させ、街に火を放って、恐怖した大衆に紛れて脱出する――



 ひとたび公都の外に出れば、あとは自由だ。



(あのクソガキも処分して、この国ともおさらばよ)



 ニチャァと笑うオフィシア。



 ――かくして、方針は定まった。





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