331.突撃! 公都の諜報員 後編
「人殺しに追われている、か。なるほど――それにしては、あなたにはいくつか奇妙な点があるようだ」
確かに神官が視界に入って、自分は少しだけ進むのをためらった。だが薄暗い中、ほんの一瞬のこと。あの動きだけで、こちらの本心を気取られたとは思えない。
ひとつだけ確かなことがあるとすれば――どうやら自分は、逃げる方向を間違えたらしいということだ。とはいえ今さら引き返すわけにもいかない。さっさとこの路地を抜け出さねば。
そのためには、眼前の
口八丁でこの場をしのぐか、あるいはコイツを
「ヤベー奴に追われてるんスよ! 本当なんです!」
今にも泣きそうな情けない顔をしてみせながら、さらに歩み寄ろうとするパウロ。だが、エドガーがスッと体の向きを調整したせいで歩みが鈍った。
明らかに、腰の剣が抜きやすい体勢を取っている。
なぜ、そこまで警戒された? いったい何が――
「『追われている』の部分は疑っていないよ。あなたは本当に、
エドガーは目を細めた。
「問題は、あなたが本当に『無辜の民』なのかどうか、ということだ。それほど切羽詰まっておきながら、なぜ周囲に助けを求めなかったんだ?」
ぽつぽつと明かりの灯る周囲の家屋を示しながら、問う。
――正論だ。どうしようもないくらい。だがパウロは即座に答えを弾き出す。
「ひ、人気のないとこで、オレの連れが襲われて、たぶん、殺されちゃって……最後までは、見てないんスけど……」
敢えて、動揺を隠しきれていない風を装い、どもりながら弁解する。
パウロ=ホインツは腕利きの諜報員であり、数多の人族を丸め込んできた商人でもある。
「……だからオレ、もう、びっくりしちゃって。無我夢中で駆けてたら、神官様がいらっしゃったもんですから、藁にもすがる思いで……」
「なるほど。動転のあまり、周囲に助けを求めることすら忘れていた、と。……まあ確かに、そういうこともあるかもしれない」
理解を示すようにうなずくエドガー。
「そうなんスよ! ビビったら悲鳴も出ないんスね、初めて知りました……」
「いずれにせよ、あなたが無辜の民であるならば、私は神官としてあなたを守ろう。というわけで、だ」
にっこりと笑って。
「――右手の指先を見せてもらえないかな」
穏やかながら、有無を言わせぬ圧力。
「…………」
パウロの右手に、ギリッと力がこもる。
握りこぶしに隠した、聖属性に焼け焦げた指先――
「なに、怖がることはない。単純に興味があるんだよ」
ポッと魔法の光の球を浮かべて、エドガーは薄暗い路地を照らしながら言う。
「腰の短剣を見るに、あなたは右利きだろう? なのに先ほど、わざわざ左手で背後を指差した。右手が私の視界に入らないようにしながらね。なぜ、そこまでして右手を隠すのか気になったんだ」
その目は、好奇心に輝いている。
「仮に殺人鬼に襲われて負傷したのならば、神官に診てもらおうとするのが常人だ。なのにあなたは、私の目から右手を遠ざけようとしている。……いったい何があるんだい? その手に」
いや、好奇心だけではない。
どこか冷ややかな、怜悧な光もまた――
「
にこやかな笑みだけは、そのままに。
「……いやはや、参りましたね」
パウロは、困ったような顔で肩の力を抜いた。
「……神官様の名推理のおかげで、オレもちょっと落ち着いてきました。ありがとうございます」
「それは何より」
「で、期待を裏切っちゃって申し訳ないんスけど――」
スタスタと自然体でエドガーに歩み寄りながら、何気なく右手を差し出す。
「別に全然、大したものじゃなくって――」
無防備に、焦げた指先をさらけ出しながら。
思わずエドガーの視線が吸い寄せられる、その一瞬に。
パウロの左手が、閃く。
服の袖に忍ばせていた黒い毒針が、まるで矢のように放たれる。
「――そんなことだろうと思ったさ」
そしてエドガーの防護の呪文に、弾かれた。
「――――」
無表情のパウロと、不敵な笑みのエドガー。剣呑な視線が交錯する。
「【
エドガーが右手で剣を抜きながら、左手で光の矢を放った。
パウロは地を這うようにして疾走し、姿勢を低く保って魔法を回避。そして長い足を鞭のようにしならせ、エドガーの右肘を強かに蹴りつけた。鞘走る剣を腕ごと止めて、さらにベルトの内側に仕込んでいたワイヤーを引き抜く。
「シッ」
ビヒュッ、とワイヤーで打ち据えた。狙うはエドガーの顔面、目の周辺。こちらも防護の呪文で防がれたが、エドガーをギョッとさせる効果はあった。さらに、勢いと威力を失ったワイヤーは、もはや『攻撃』とみなされず、ズプンと障壁に沈み込む。
そこで器用にワイヤーを操り、エドガーの首に巻きつけるパウロ。
まるで、獲物に絡みつく蛇のようだ――焼け焦げた右手で腰の短剣を引き抜く。
そしてワイヤーを手繰り寄せながら、エドガーの心臓に致命の一突きを見舞う!
「ははっ」
だが、迫りくる刃を前に、エドガーは獰猛に笑った。
なぜ? 一瞬の疑念。
なぜこうも泰然としているのか、この男は。
――答えは、すぐにわかった。
「【
エドガーが、発光する。
バチバチと、帯電する。
ワイヤーに銀色の雷光がまとわりつき、火花を散らして――それを握るパウロは、全身を殴られたような痛みと衝撃に襲われた。
「ぐッ――んっがぁぁぁあああァァ!!」
意思とは関係なく、パウロの喉から絶叫が振り絞られる。
(雷――属性ッ!?)
筋肉が収縮する、視界が白く染まる、さらには聖属性が神経を焼く。ほんの一瞬の通電は、数十秒のようにも感じられた。
ブスブスと煙を上げながら、パウロは力なく倒れ伏す。
(ま……ず、い……)
痛みに比して、体のダメージはそこまで深刻ではない。だからこそ、まずい。この男が、自分を生かすために手加減したのが明らかだったから――!!
(毒……を……!!)
まずい、まずい!
ここで命を絶たねば!
自分は、ロクでもない目に遭う!! 聖教会に生きたまま囚われるなど、悪夢以外の何物でもない! 太陽に焼かれれば、闇の神々の御許に逝けなくなってしまう!
(動け――!!)
痙攣する左手にはめた指輪を――毒針を仕込んだ暗器を作動させ、自らに致死毒を打ち込もうとするパウロだったが。
「やれやれ、手間が省けてよかった。司教様のように、雷撃を自在に放つまでには至らなくてね、私も」
穏やかな声が、頭上から。
「まあ、それでも、この距離なら流石に大丈夫だ。【
バチンッ、と白い光が弾ける。
ロウソクの火を吹き消したかのように。
パウロの意識もまた、そこで途切れた。
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