329.邪法と弱点
悪魔とは異界の存在だ。
その体は魔力でできており、厳密には俺たちの世界の『生物』と言えないらしく、転置呪の対象に取ることもできない。
が、アンテは人化の魔法で生身になれる。
そして生身なら転置呪も通用する。
――では、傷病を抱えた状態で、生身から悪魔に戻ったらどうなるか?
もしも傷がリセットされるなら、人化したアンテに、無制限に傷を押し付けられることになる。リリアナの抜けた穴を埋められるかもしれない――
「今のお主にはわからんかもしれんが、このあたりの魔力が淀んどる」
と、思ったが、やっぱりダメだったようだ。悪魔の体に戻ったアンテが、胸をトントンと叩きながら言った。
「おそらくじゃが、例えば手足が欠けたまま人化を解除すれば、悪魔の姿でも欠損したままじゃろな。
アンテが胸に手を当てたまま唸る。
「……明らかに、普通に体が損傷したときより、修復が遅い感覚がある。げに恐ろしきは人化の魔法よ」
大魔神の修復力さえ鈍らせるのかよ……怖……。
「……苦しくはないのか?」
「ん、まあ、違和感があるくらいじゃの。お主が病を抱えていても不安なだけじゃ、獲物が見つかるまでは我が預かっておくとしよう」
「ありがとう。助かる」
ニヤッと笑ったアンテが、そのまま俺の中にスッと戻ってきた。
一時的にでも、負傷をアンテに預かってもらえることがわかったのは収穫だな。
…………ということは、アンテをボロボロの瀕死状態に保っておけば、いざというとき遠距離攻撃魔法のタネになる……? 傷病の苗床的な……
『いやいやいや流石にイヤじゃぞ!?』
わかってるよ。ボロボロだと怪我を引き受けてもらえないしな。
攻撃なら最悪、自分の手足を切って傷を押し付けりゃいいだけだし。
ただ、まあ、選択肢としてはアリかなって……
『何がイヤって、お主、もはやほとんど禁忌を感じとらんじゃろ! 我に対して!』
そうかもしれない。
アンテなら、何でも受け止めてくれると信じてるからな。
『ぬぅー……』
押し黙るアンテ。
『ただいまー』
と、今度は壁からニョキっと半透明の顔が生える。
バルバラだ。
『ふぅー、疲れた。魔力魔力』
壁に立て掛けてあった刺突剣に、吸い寄せられるようにして戻るバルバラ。本体を離れて活動していたため、かなり存在感が薄くなってしまった彼女に、俺はたっぷりと闇の魔力を注ぎ込んであげた。
「おかえり。どうだった?」
実は今まで、バルバラは霊体化して偵察に出ていたのだ。
何の? 言うまでもない。
夜エルフ諜報員――オフィシアの動向だ。
『スゴイね。最初から諜報員だと知らなきゃ、ぱっと見じゃ夜エルフだってわからないよ。普通に仕事して、帰り道に買い物をして、顔見知りと親しげに雑談しながら、自分の家に戻っていった』
なるほど、見事に溶け込んでいる、と。
だが、周囲に愛想を振りまき、良き市民を演じながら、
充分な距離を保った
無人の平野ならともかく、無数の住民がひしめく街中だもんな。視線を感じるのは当たり前で、しかもアンデッドの監視なんて、そもそも想定しないだろうし。
『ただ、あのオフィシアって女。家の前で同僚の二人組と合流してたよ。童顔の若い男に、キツネ顔の胡散臭い男』
その外見的特徴に、ピンと来た。
「アウトルクと、パウロ=ホインツか」
イクセルから聞き出していた、夜エルフ諜報員の容姿に合致する。
――夕方、人化の魔法で容姿をいじった俺は、パウロ=ホインツ宛の手紙を届けておいた。『ヴィロッサ負傷、ジルバギアス到着、支援要請』というノリの内容を符牒とともに伝え、差出人はイクセルということにしてある。
十中八九、筆跡でイクセルが書いた手紙じゃないことはバレるだろうが、それで問題ない。
この手紙は、オフィシアたちを混乱させ、その行動を制限することを目的としているからだ。
長年、魔王城で夜エルフとともに暮らしてきた俺は、連中の働きぶりを間近で目にしてきた。身内でも化かし合いが日常茶飯事で、調略や陰謀を巡らせるのが大好き。長命種であることを最大限に活かし、ノウハウの蓄積で複雑な事象もパターン化して学習、生来の冷酷さと合理的思考で最善手を取り続け、同盟の連携に着実に楔を打ち込んでいく。
諜報員として見た場合、奴らは手強い。俺ごとき6歳児が手玉に取るには難しい、一筋縄ではいかない相手――なのだが、ひとつだけ、弱点らしい弱点があることに俺は気づいた。
それは、奴らは常に、調略を『仕掛ける側』であり続けたこと。
先手を打ち、同盟を翻弄してきた夜エルフ諜報員たちは、皮肉なことにその優位性ゆえ、同盟の搦手に対処した経験がほとんどないのだ。
基本的に、夜エルフ諜報員が尻尾を出したら、聖教会や国軍は速やかに討伐隊を派遣する。様々な搦手を使う諜報員に対しては、戦闘のプロをぶつけるのが最も効果的だからだ。
つまり、『正体がバレる=勇者が殴り込んでくる』という構図で、そこまでいけばもはや諜報というより単純な戦闘だ。そして単純な戦闘では、勇者部隊に分がある。だから夜エルフどもは、正体がバレそうになった時点で、証拠隠滅してさっさと雲隠れすることが多い。
ゆえに、『自分たちの正体がバレたかもしれないのに、直接勇者が殴り込んでくるでもなく、ただ1通の意味深な手紙が届いた』という状況は前代未聞で、奴らはおそらく即応できない。聖教会はそんな迂遠なやり口を取らないからだ。
……ちなみに俺自身が、こんなまどろっこしい手を打ったのは、イクセルのときのような直接的な呼び出しが使いにくかったからだ。
たとえばパウロひとりをジルバギアスの名で呼び出し、宿屋でブチ殺したとして、他の諜報員はどう動くだろう?
呼び出しの手紙を受け取った時点で、パウロはそれをオフィシアや同僚に話すはずだ。その上で失踪したら、残った連中は手紙が罠だったと解釈し、即座に雲隠れするだろう。
かといって、オフィシアたちを全員呼び出すのも、それはそれであからさますぎるからな……
というわけで、魔王子ジルバギアスの来訪を匂わせるような、中途半端な手紙を送ることにした。これなら、俺が改めて接触する形にもつなげられる。
なまじ
仮に、この手紙が罠であった場合、イクセルのいたスグサール支部およびトリトス公国南部のルートは聖教会に制圧されている恐れがあり、オフィシアたちが逃げ出そうにも逃走経路は限られる。
北のアレーナ王国との国境を突破するのが最有力だが、そうするとそれなりに準備が必要なはずで、今日中にすべてを放り出して逃げるとは考えづらい――
「そうか、ふたりも合流したのか……」
今日のところはバルバラにオフィシアを監視してもらい、パウロとどこでやり取りするかを探れたら御の字、ぐらいに考えてたんだが。
普通にオフィシアの自宅に集まるとは。同盟も舐められたもんだぜ。
「ということは、トドマール周辺の諜報員が勢揃いか。家の中の様子は探れたか?」
『魔力で勘づかれたらマズいから、大事を取ってあまり近寄らなかったよ』
バルバラが肩をすくめた。
『中の会話には耳をそばだてたけど、カードで遊んだり酒を飲んだりしながら、普通の雑談をしてるみたいだった。正直、本当に夜エルフの集まりなのか、あたし自身でさえ疑わしく思えたくらいさ』
……合流した二人組が、たまたま諜報員と似た容姿の別人だった、という可能性も排除しきれないんだよなぁ。
俺だってアウトルクとパウロの顔を直接知ってるわけじゃないし。
『ただ……』
そこまで話して、バルバラが何やら怪訝そうに眉をひそめる。
「ただ?」
『3人しかいないはずなのに、家には
……なるほど。
「会話は、4人分聞こえてきたのか?」
『いいや。だからおかしかったのさ。あくまで3人の声が響くだけ――なのに、幽霊みたいに、もうひとりの気配があった』
半透明の
だが――俺はバルバラの感覚を信じている。彼女はいくつもの修羅場をくぐり抜けてきた剣聖だ。そんなバルバラが口に出すほどに違和感を覚えたならば、そこには、確かに、何かが『居た』のだ。
「……オフィシアに合流したのは、アウトルクとパウロ=ホインツの諜報員ふたり組と考えて間違いなさそうだな」
俺は立ち上がり、壁に立て掛けていたアダマスをベルトに差す。
「もうひとり、別の諜報員が家に待機してたんじゃないか? その
今日の手紙はあくまで様子見で、明日、別の手紙を届けるつもりだったんだが。
『どうする?』
バルバラが不敵な笑みで尋ねてくる。俺の答えなんてわかってるだろうに。
「手間が省けた」
俺もまた、ニヤリと笑ってみせた。
「一網打尽にしてやる」
――まとめて狩りに行こうじゃないか。公都に巣食う夜エルフどもを。
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