310.想定外の連続
――コルテラ商会、スグサール支部。
上階の事務室には、テキパキと帳簿や書類を捌いていく働き者な商人がいた。
線は細いが眼光は鋭く、ペンを走らせる手が止まることはない。複雑な計算も暗算でササッと済ませてしまい、いかにも『できる』雰囲気を身にまとう色黒な男。
その名も、イクセル。
夜エルフの潜入工作員ではあるが、スグサール支部長の片腕として名高い、古参の商人のひとりだ。
「ふぅ……こんなものかな」
帳簿をぱたんと閉じて、肩を揉みながら溜息をつくイクセル。鋭かった眼光がいくらか和らぎ、柔和な表情が戻ってくる。
「お疲れさまです、イクセルさん。はい、お飲み物をどうぞ」
「ああ、ありがとう」
若い事務員の娘が、井戸で冷やしたハーブティーを運んできた。なかなか気が利くじゃないか、と思いながら喉を潤すイクセル。
「あのぅ……イクセルさん」
「ん? なんだい?」
「わたしぃ、ビーフシチュー作ったんですけど……もしよかったらぁ、今夜、うちに食べに来ませんかぁ?」
完全に、瞳にハートマークを浮かべている事務娘。
「あはは……ビーフシチューかぁ……」
めっちゃグイグイ来るなコイツ、と思いながら、特殊メイクの匂いを誤魔化すための
――夜エルフの潜入工作員として、人間関係は円滑であるに越したことはない。
なので、工作員たちはおしなべて愛想がいい。だが距離感が近くなりすぎると正体がバレかねず、加減が難しいのだ。色恋沙汰や裸の付き合いなんてもってのほか。特にイクセルのように、人化の魔法が使えないタイプの工作員にとっては。
長く尖った耳は丸く整形し、特殊メイクで肌色や顔つきを、カラコーンで目の色を変えて人族になりすます。夜エルフは人族基準では美形なため――メイクで多少野暮ったい顔に変えてあるが――異性を惹きつけてしまいがちなのが悩みのタネだ。これは、工作員なら男女問わずつきまとう問題でもある。
イクセルの場合、死別した妻を今でも想い続けているという設定で、わざわざ妻の肖像入りペンダントを持ち歩き、時々寂しげに見つめては溜息をつくフリまでして、色恋沙汰をスルーしてきたのだが……
「ねぇ、イクセルさん? どうですかぁ???」
この事務娘は全く気にしていないらしい。
「あはは……」
馴れ馴れしくしてんじゃねーぞ劣等種が、と内心で罵りながらも、それをおくびにも出さない演技力が工作員には求められる。
品行方正に振る舞い、周囲の人々を助け、善良なる商人として人界に潜むこと10余年――「若いね」と言われるたびに、ちょっとずつメイクで老け顔を意識して誤魔化してきたが、そろそろ限界を感じる。本部に異動を要請していいかもしれない。
「イクセルさぁ~ん」
決して、この娘が鬱陶しすぎるから、とかそんな理由ではなく!
「イクセルさん、お手紙です」
と、そのとき用心棒の男が事務室に入ってきた。
「テオドールの旦那からでさぁ」
「テオドールから?」
まるで旧友の便りが届いたかのように、パッと明るい笑みを浮かべて、緊張を隠すイクセル。
しかし……手紙か。
「テオドールが来てたのかい?」
「ああいや、旦那のお知り合いから渡されやした」
「へえ。その知り合いさんは、どこに?」
「手紙だけ頼まれたってんで、そのまま立ち去っていきやしたが」
「お名前は?」
「あ、いっけね。聞き忘れてたなぁ」
この役立たずのボケナスが――という罵倒を飲み込んで、「あー、そっかぁ」と苦笑いするに留める。
テオドール、もといヴィロッサ本人が直接来ていない――検問が突破できそうになかったのか? だから第三者に手紙を託した? それに、なんだこの手紙……わずかに魔力を感じる。
封蝋はいつものようにカラスの紋章だが。
早速封を切り、手紙を取り出す。開いた瞬間、思わず声を上げそうになった。
『ジルバギアス=レイジュ』
普通の文章以外に、魔力の文字で書かれていたからだ。
あからさますぎる! いくら人族が魔力に鈍いからって!!
――そう、これこそが目下のところ最大の懸案。
第7魔王子ジルバギアスの追放だ。本部からの手紙でことのあらましは把握しているが、巻き込まれる身としては面倒以外の何物でもない。
それでも、ヴィロッサに物資と情報を提供するだけなら楽なもんか、と思っていたのだが……何やら流れが変わったようだ。
それにこの手紙、ヴィロッサとは筆跡が違う。夜エルフの符牒は問題なく使われているものの、『いつもの宿屋に来てくれ』? ヴィロッサが待っているのか? だがそれならなぜ本人が訪ねてこなかった?
――罠か?
ちら、とそんな疑念が頭をよぎったが、否定する。罠にしてはやり方がまどろっこしすぎる。もしも何者かが自分の尻尾を掴んだなら、今ごろ聖教会の執行部隊がこの商会に押し寄せてきているはずだ。こんな手紙で釣るような真似はする意味がない。
第一、ジルバギアスの追放は
いずれにせよ、ちょうどいい。
「悪いね、今夜はちょっと仕事ができちゃったみたいだ」
手紙を畳みながら、事務娘に心底申し訳なさそうな顔を向ける。
「そう、ですかぁ……」
しょんぼりする劣等種。おととい来やがれ、と内心でその顔にツバを吐きかけた。
「今度埋め合わせはするよ、ごめんね」
このフォローの言葉が、また面倒な事態を招くのだろうなぁと思いつつも。
イクセルは、問題を先送りにするのだった。
†††
そして、その夜。
ヴィロッサことテオドールの定宿を訪ねた。それほど人の往来がないこの田舎街には、そもそも宿屋が数えるほどしかない。ここは、そんな数少ない宿屋のうち、比較的グレードの高いところだ。
旅商人や巡礼の聖教会関係者が主な客層で、そのような施設に闇の輩が近寄るはずがない、という心理的盲点をつくチョイスでもある。
手紙に符牒で記してあった通り2階に上がると――個室が連なる廊下の突き当たりのドアノブに、赤いハンカチが結ばれていた。目印だ。
夜エルフらしく、足音を立てずに歩く。ドアの前で耳を澄ませ、中の様子を窺ったが、……全く音がしない。
――いるのか?
ノックすると、しかし、すぐに反応があった
精悍な、茶髪の青年が顔を出す。かなり魔力が強い人族だ、そしてコイツはヴィロッサではない!
「おっと、失礼。部屋を間違えたようだ」
笑って立ち去ろうとしたが。
「イクセルか?」
青年がささやくように問うた。その手には――カラスの紋章の指輪! 手紙に封蝋を施した指輪印章だ! なぜこの青年が、これを……!?
「テオドールの知り合いだ」
青年が空中に指で文字を書いた――魔力の文字。『ヴィロッサ』の名。
「積もる話もある、入ってくれよ」
ドアを開け放って手招きする青年。しばし迷ったが、部屋の中を覗き見ると、青年以外にもうひとり銀髪の少女がいてベッドに腰掛けていた。
……二人組。
なんとなく、事前に渡されていた情報に符合するものがあり、嫌な予感がしたが、イクセルに選択肢はなさそうだった。部屋に入ってドアを締めるなり、青年がパンと手を叩く。空気が張り詰める感覚。無詠唱の防音の結界!
「……テオドールは?」
「不慮の事故で、今アイツは動けない」
硬い表情で青年は答えた。
「お前は、イクセルであってるんだな?」
「……そうだが」
「そうか、それは重畳」
ホッと息をついた青年の姿が、不意にぼやけた。
その背が少し縮み、代わりに存在感が膨れ上がる――
「なぁッ!?」
熟練の諜報員であるイクセルをして、驚愕の声を抑えるのは不可能だった。青年が途端に、青肌に赤い瞳、銀髪に立派な角を生やした魔族に変貌したからだ!
驚きのあまり、しばし棒立ちになってしまったイクセルだったが、慌てて作法を思い出し――何十年ぶりだろうか――その場に膝をつく。
「あなた様は……!?」
まさか、この青年、ジルバギアス=レイジュそのヒトだというのか!?
「うむ。ジルバギアス=レイジュである。大儀だったな」
やはり! いや、しかし、なぜ。というか、どうやって? いかにして世間知らずの魔族の王子が、検問をくぐり抜けたというのか。
「なぜ、殿下がここに……!」
「色々あってな……想定外の事態が重なって、ヴィロッサが動けなくなってしまったんだ。代わりに俺が来た」
あんたがここにいること自体が想定外だよ! という言葉は飲み込んだ。
いくら人化が使えるからといって、工作員でもあるまいし、それでホイホイ来れるなら苦労はしない……!
(……いや、まさか、泳がされているだけか!?)
実は聖教会に目をつけられているのでは。この街での動向が監視されているのではないか? 途端に不安になるイクセル。もしそうだったら自分も破滅だ……!
「安心しろ、気取られてはいないはずだ」
イクセルの心を読んだかのように、ジルバギアスは不敵に笑って言った。
「とある画期的な方法を使って検問を突破したからな」
「画期的な方法……にございますか」
聖属性の検問を超える手段はそう多くない。森エルフの皮を使った精巧な革手袋をつけ、素手に見せかけて耐えるという文字通り力業な『手』はあるが、もしそれ以外の方法があるなら教えて欲しいくらいだ。
「いったい、どのような……」
「それはな……近くに寄れ」
防音の結界を張っているにもかかわらず、ささやきかけるように口元に手を当てるジルバギアス。
興味津々で、イクセルは耳を寄せた。
完全に、ジルバギアスが次に放つであろう言葉に気を取られていた。
そう、想定外だったのだ。ジルバギアスがここにいることも。
その手が――突然、近づいたイクセルの喉を掴むことも。
さらには化け物じみた力で、握りしめられることも。
「ぐぎッ」
そのまま一撃で、首の骨をへし折られて即死することも。
――何もかもが、あまりに、想定外だった。
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