305.女王と聖女


 沐浴を終えたリリアナは、モーンが用意してくれていた長衣に着替えて、逸る心を抑えながら『花の間』――聖大樹の最上部へと向かった。


 エルフの森を一望できる、展望台のような広間。『花の間』という名の通り、蓮の花に似た巨大な聖大樹の花がいくつも咲き誇り、虹色の輝きに包まれている。


 そして広間の中央、花弁の玉座に腰掛けるは、ハイエルフの女王。


 ――エステル=エル=デル=ミルフルール。


 リリアナは、よく母に似ていると言われる。垂れ目がちなリリアナと違って、母はもっとキリッとした目つきの、美しくも女王らしい威厳を漂わせる顔立ちだ。


 ただ、今は女王らしさなんてなく、娘との再会を待ちわびる母の顔をしていた。


 玉座の後ろには、里の重鎮たちも揃い踏みだった。顔馴染みの導師、幼いころから世話になっている爺や、聖大樹連合議員たち――


「みんな……」


 とうとう広間に姿を現したリリアナに、みながどよめいた。


「姫さまぁ!」

「よくぞお戻りに!」

「おお、神よ! 感謝いたします……!」


 口々に喜びの声を上げる周囲の面々だったが、しかし、弾かれたように玉座から立ち上がった女王だけは、口元を手で覆って顔を青ざめさせていた。


「リリアナ……! ああ、なんてこと……!」


 聖大樹と同調し、定命の者を超越した視点を持つ彼女は、リリアナの魂に刻み込まれた無数の傷跡――おぞましい過去を察知した。察知してしまったのだ。


 一見、無事に帰ってきたようなリリアナも、女王からすれば、傷だらけの変わり果てた姿に他ならなかった。


「本当に……リリアナ、なのよね……? ああ、なんて……なんてこと……」


 涙ぐみながら、リリアナをギュッと抱きしめてくる母エステル。同時に、聖大樹の力の奔流が吹き込まれてくる。少しでもリリアナの魂を癒やそうとするかのように。


「母さま……ごめんなさい、私……」

「いいの。いいのよ……! 帰ってきてくれた、それだけでいいの……!」


 本当に、ものすごく心配させちゃった――と、今さらのように申し訳なく思う。


 我ながら、今この場に、無事にいられるのが信じられなかった。魔王城にいる間、時々こんな夢を見ていた気もする。聖大樹おうちに帰って、みんなに暖かく出迎えられて――


 そう、『夢』だったのだ。叶いっこない夢。


 だけど――今やそれが、現実になっていた。


「ただいま……」


 万感の想いを込めて、リリアナは言う。


「おかえりなさい……!」


 号泣しながら、抱きしめるだけじゃなく、優しく頭も撫でてくるエステル。久しく忘れていた、母の指の感触。リリアナもまた幼子のようにギュッとしがみついた。


 しばし、再会の喜びを噛みしめる。


「……母さま、姉さまたちは?」

「ちょうど今は、みんな出払ってるわ。森の様子を見たり、同盟との交渉に向かったり――戻ってきたら、きっとびっくりするわね」


 ふふ、と微笑むエステルだったが、真面目な表情に切り替える。


「……それで、何があったのリリアナ」


 ふわっ、と床に花が咲いて、ほのかに光るテーブルと椅子になった。


「強襲作戦に参加したのは、確かなのよね? あなたったら、書き置きだけ残して出ていっちゃうんだから……」

「ごめんなさい。強襲作戦に参加して、魔王城に囚われてたの。話せばすっごく長くなるんだけど――」


 リリアナは語った。これまでのこと。強襲作戦に参加し、勇者たちと魔王城に降下するも、奮戦虚しく囚われの身となり、夜エルフ監獄で拷問漬けの日々――


 7年間に渡って毎日皮を剥がれたり、考えうる限りの辱めを受けたと淡々と語ったが、それを聞いて激昂した爺やが「おのれ夜堕ちどもォグェハ」と泡を吹いて倒れてしまったので、慌てて治療するなどのハプニングもあり。


「――それで、どうやって逃げ出したかなんだけど、みんなごめんなさい」


 リリアナは、困り顔で周囲の面々を見回した。


「ここから先は、母さまにしか話せないの」

「ええっ」

「なんですと」


 それぞれにツタや花の椅子に腰掛けて耳を傾けていたエルフたちが、困惑して顔を見合わせる。


「私が帰ってこられた理由そのものなの。母さまに話した上で、誰に、どこまで情報を開示するか、判断を仰ぎたいのよ。事の次第によっては、対魔王戦争が変わるわ。それくらい重要な秘密なの」


 リリアナは、かつてないほど真剣に、母を見つめた。


「……わかったわ。そこまで言うからには、ただならぬ事情があるんでしょう。みなには悪いけど、まずは私が聞きます」


 いいわね、とエステルが念押しすれば、これに逆らえる者はいない。


 防音の結界により、リリアナとエステルのふたりだけが隔離される。とはいえ視界は普通に通っているので、唇から言葉を読み取られないよう、リリアナは口元を手で隠しながら話し始めた。


「……アレクサンドルって勇者がいたんだけどね」

「ああ。覚えてるわ。あなたが書き置きにも記してたアレクって男」


 ちょっと渋い顔をするエステル。リリアナが出奔した元凶のひとつとでも思っていそうな顔だった。そしてそれは、あながち外れでもない。


「うん。彼は魔王城で、魔王と戦って死んだんだけどね」

「ふむふむ」

「第7魔王子ジルバギアスに生まれ変わってたの」

「…………」


 ぱちぱちと目をしばたたかせる女王エステル。???と疑問符が浮かんでいた。


「なんて?」

「勇者アレクサンドルが、第7魔王子ジルバギアスに生まれ変わってたの」

「……言葉は理解できるけど、意味がよくわからないわ」

「強襲作戦の2年後――つまりアレクの死から2年後。気がついたら、ジルバギアスとして生を受けていたって話よ。これもあとで話すけど、禁忌の魔神の見立てでは、捕食の魔神の権能で魔王に魂を喰われたけど、我が強すぎて吸収されることなく、子どもとして魂が引き継がれてしまったんじゃないかって……」

「禁忌の魔神の見立て……???」


 情報量が多い。


 リリアナも、説明するのに苦労した。まず信じがたいということもあるが、アレクに救出されてからの2年弱は、奇跡にして怒涛の日々だった。


 順を追って話していく。監獄で死を願っていたある日、ジルバギアスが見学に来たこと。すると聖属性を見せられ、正体を明かされたこと。悪魔の魔法で自我を封印して、ペット扱いで身柄を預かられたこと――このあたりでエステルはめまいに襲われたようだった――そして魔法が解除されたあとも、自我を取り戻すのが怖くて、自分を犬だと思い込んで暮らしていたこと。


「な、なんてこと……!」


 エステルは両手で顔を覆って嘆いていた。


「――――?」

「――――!」


 ただならぬ様子の女王に、防音の結界越しに固唾を呑んで見守っている周囲の面々も、何やらざわついている様子だ。


「心配しないで、母さま。アレクが色々良くしてくれたおかげで、私、楽しく暮らせてたから」

「…………」


 エステルのハイエルフの象徴たる長く尖った耳が、しゅんと力なく垂れる。


 リリアナは構わず、さらに話を進めた。エヴァロティ攻略戦。自治区の代官就任。第4魔王子エメルギアスとの衝突。それに伴う、リリアナの自我の目覚め。


「――それで、砦が荒れ果てたのをいいことに、私が行方不明になったことにして、逃してくれたの……」


 途中まで飛竜で送られて、あとは走って魔王国を脱出。


 ここ、サンクタ・シロに帰り着いた――


「リリアナ……」


 涙ぐんだエステルが、再び席を立って、リリアナを抱きしめた。


「よく、頑張ったわね……あなたって子は、本当に……昔っからお転婆で……」


 もはや言葉にもならない。


「……アレクはこのまま、ジルバギアスになりすまして、魔王を倒すつもりよ。禁忌の魔神と契約したから、同族を手にかければかけるほど力を得られるの」


 母に頭を撫でられながら、リリアナは言葉を続ける。


「現時点で大公級。……彼、魔族としては6歳とちょっとよ? エヴァロティ攻略戦で、同盟軍を手にかけて劇的に成長したわ。あと10年か、20年もすれば、凄まじい力の持ち主になる。50年も経てば魔王にだって並ぶかもしれない」

「…………」

「だから森エルフも、諦めないで、って。私はそれを伝える必要があったの」


 そっと――エステルが体を離す。



 リリアナは驚いた。



 母は、いかめしい女王の顔をしていた。



「あなたが、そしてが、明かす相手を私に限定した意味がわかったわ。……一応、念のために確認するけど、【本当なのよね?】 リリアナ」

「【本当よ】」


 ここ、聖大樹の内部で、魂を読み取れる女王に嘘は通用しない。


「……実は近頃、魔王軍から聖大樹連合に降伏勧告が届くようになったのよ。魔王軍に与し、農業や畜産にも協力するなら、聖大樹は焼かず、寛大にも一部地域での自治も認めてやっていい、とね」


 エステルは、皮肉げに、そしてどこか酷薄に笑う。


「まったく、森エルフわたしたちに農業や畜産をやれ、だなんて――わかってて言っているのかしら?」


 自然主義かつ菜食主義な森エルフは、もちろん農業にも畜産にも否定的だ。(自分たちはそれなしで暮らしていけるが、他種族はそうもいかない、という点には目を瞑るとして。)


「本気にせよただの揺さぶりにせよ、魔族らしからぬやり口だとは思っていたけど。あなたの話で合点がいったわ。ゴルドギアス、ハイエルフの力が欲しくなったのね」


 リリアナの恩恵を享受するジルバギアスを見て、闇の輩でも場合によって活用可能であることを知り、「ただ滅ぼすには惜しい」とでも思ったのか――


「そして、あなたがもたらした情報。……魔王軍に対する、極めて有力な交渉材料にならないかしら」

「!?」


 想定外の言葉に、リリアナは顔からザァッと血の気が引くのを感じた。


「そんな、母さま!? 何を言って……!?」


 正体を明かされてしまったら、彼は破滅だ! リスクを承知で信頼して逃してくれたというのに、そんな……!


「……いえ、ダメね」


 しばし、無言で考えを巡らせたエステルは、肩の力を抜いてかぶりを振った。


「仮にこちらが恩を売っても、魔王国が報いるとは限らないわ。魔王国内の協力者をいたずらに失って終わりになりかねない」

「そうよ! それに、そんなこと許されないわ! 彼は私の恩人なの!」

「わかってるわよ、リリアナ」


 エステルは儚く微笑んだ。


「私個人としては、彼にはどれだけ感謝しても足りない。娘を救ってくれた恩人を売るなんて、到底許されない行為だわ。でもね、リリアナ。私は女王として、あらゆる可能性を吟味しなければならないの」


 理想と現実の間で葛藤しているのは、リリアナだけではない。


 それはわかる。わかるが――


「安心しなさい、言ってみただけよ。交渉材料にすることはないわ」


 ――検討した結果、あまり意味がないと思ったからでしょ? という言葉は、どうにか飲み込む。


 母が意地悪で言っているわけではない、とよくわかっていたからだ。


 そして彼女がこんなことを口に出した時点で、自ずと見えてくるものがある――


「そんなに、揺れてるの? 森エルフは」

「……私としては、森エルフの結束にくさびを打ち込むための、夜堕ちどもの策略かと思っていたわ」


 同盟から離脱し、魔王軍に与すれば戦わずに済む。森を焼かれることに比べれば、農業や畜産に従事する方がマシ――そう考える者が出てきてもおかしくない。


「夜堕ちどもを受け入れる魔王軍が、律儀に約束を守る保証なんてない。ということで今は離脱派を抑えられているけど、『火砕流』の脅威が目前まで迫ったら――どう転ぶかはわからないわ」

「…………」


 第2魔王子『火砕流』ルビーフィア。焦熱の権化たる彼女は、森エルフの悪夢そのものだ。


 小規模な湖なら蒸発させてしまうほどの、噴火のごとき火力の前には、森エルフはあまりに無力だった。


「ジルバギアスが実は味方であることがわかれば、士気は確実に高揚するでしょう。でもそうすると、彼の身に危険が及ぶ。なりすましという最高の強みも失われる。頭が痛いわね……」


 花のテーブルに肘をついて、エステルは眉間をもみほぐした。森エルフにて最強の治癒力を誇る、ハイエルフの女王さえ、頭痛とは無縁でいられないのか……


「リリアナ」

「……はい」

「あなたに、改めて感謝を。あなたがもたらした情報には、聖大樹の果実をもしのぐ価値があるわ。明かす相手は、現時点ではごく少数に留めます。爺やと、私の子どもたちと、議員の上級代表ぐらいかしら。最低でも宣誓の魔法が使えるくらいじゃないとダメね」

「それがいいと思う……」


 失望感に襲われながら、リリアナはうなずいた。


 できれば、何か、こちらから積極的に、アレクを支援できるような案も母と検討したかった。



 だが、それどころではなかった。



 母が、一瞬でもアレクを売ることを検討するほどに、聖大樹連合の結束が揺らいでいたなんて……



「…………」


 じわ、と思わず涙が滲む。


 これからずっと――アレクは、魔王国で孤軍奮闘しなければならないのだ。


 何か、してあげたかった。力になってあげたかった。なのに……


 こんなことなら、彼の元を離れずにいた方が……


「ごめんなさい」


 心中を察したエステルが、申し訳無さそうにつぶやいた。


「……さ、リリアナ。みんなを待たせっぱなしにしているわ。今日のところは、これくらいにしておきましょう」


 ――どうしようもない、難しい話は。


 そう言って、エステルは励ますような笑みを浮かべ、防音の結界を解除した。


「陛下……お話は?」

「ええ、終わったわ。……たしかにリリアナが言う通り、非常に繊細な扱いが求められる情報だった。オーダジュ」

「なんでしょう、陛下」


 爺や――オーダジュと呼ばれた老エルフが前に進み出る。


「あなたを含め、議員上級代表は会議室へ。話があります。エルーダ、ゲートルト、あなたたちも一緒に来てちょうだい。他のみなは――」



 指示を飛ばす母の声は、どこか遠く……



 ――気がつけばリリアナは、自室にいた。



 聖堂の、リリアナの部屋。何年ぶりだろう、ここに戻ってくるのは。


 干し草の敷き詰められたふかふかのベッドに、力なく横たわるリリアナ。


 何をするでもなく、ただぼんやりと天井を見つめていた。


 死ぬ気で、辛い気持ちを乗り越えて、故郷まで帰ってきたというのに。


 同盟に希望をもたらすどころか、森エルフの結束さえ危ういという体たらく。


 かといってこれ以上、自分ができることはほとんどなく。


「…………アレク」


 もはや生きて再び、彼と相見あいまみえられるかさえ定かでなく。


 途方も無い喪失感だけが、胸の内に広がっていく――


「…………」


 ふと、頭に手を伸ばしてみた。


 なでなで。


 彼の手の感触を思い出しながら、頭を撫でてみる。


「…………」


 ――違う。


 これじゃない。


 くしゃっと表情を歪めたリリアナは、おもむろに、防音の結界を張った。



「ぅぅ……」



 そして、枕に顔をうずめ――



「うぅうんっわぉんわぉん! わぅんわぅんわぅん! わふん、くぅーんくぅーん、きゅーん……っ!」



 会いたい、会いたい、会いたい!!



 吠えたける声は、悲痛な鳴き声に変わっていく。



『聖女』リリアナ=エル=デル=ミルフルール。



 魔王城での過酷な日々が、彼女に刻み込んだ傷は、あまりに深く。



 完治する見込みは――全くと言っていいほど、立っていなかった――。


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