303.聖女の苦悩
――リリアナは街道を北上し、トリトス公国に入った。
この国を経由して東へ向かう。そして山岳民族のテリトリーや獣人部族連合国家を越えれば、エルフの森に入れる。
まともな街道が整備されていないので、人族には不便極まりないルートだろうが、森エルフにとっては自分の家の庭みたいなものだ。
数日後には故郷に帰れる。里のみんなに会える――そう思うと、リリアナの胸にもこみ上げてくるものがあった。
(……それにしても、路銀を借りといてよかった)
先ほどの森エルフ弓兵たちの旅団は、けっこうな額を貸してくれた。最初は遠慮したのだが、「必要になるはずだから」と強引に押し付けられたのだ。
実際、トリトス公国に入国して、思った以上に通行税を徴収されたので、彼らの見立ては正しかったことになる。関所で衛兵に尋ねたところ、昨年から税が引き上げられているらしい。
それもそのはずで、トリトス公国は旧デフテロス王国、つまり現魔王国に接しているのだ。今や国家存亡の危機にあり、風前の灯火と言って差し支えない状況。
デフテロス王国の難民が押し寄せたこともあり――話によれば、エヴァロティ王都脱出軍の大部分がこのトリトス公国に身を寄せたのだとか――財政が圧迫されているようだ。
国王ツギワイヤ4世は、王宮のロウソクを3分の1にまで削減し、私財を切り崩したり軍の備蓄を放出したりと、資金繰りに奔走しているそうだが、そんな話が市井でささやかれる程度には逼迫している。
だから、街の様子も酷かった。
公国東部の、とある地方都市。おびただしい人、人、人――以前、この国に立ち寄ったときは、よく言えばのどかな、悪く言えば閑散とした雰囲気を感じたものだが、今は猥雑で殺伐とした、
「戦の備え! 剣と盾はいらんかね! 安くしておくよ!」
いかにも戦場から拾ってきたような武具を売りさばこうとする商人。
「なんとも、白湯みたいなスープだな……」
屋台のスープをすすりながら、文句をこぼす剣士。
「お兄さん、このあとどう?」
際どい格好で、白昼堂々『営業』する娼婦。
「お恵みを……どうかお恵みを……」
そして、数え切れないほどの浮浪者。
「そこの、美しい森エルフのお嬢さん……この哀れな退役兵に、お恵みをいただけませんか……」
リリアナもまた、呼び止められた。道端に座り込み、皿代わりのボロボロの兜を置いて、懇願する人族の兵士。
「あなた……腕が……」
足早に歩いていたリリアナも、思わず立ち止まってしまった。兵士の右腕は肘までの長さしかなく、ドス黒い血が滴る不衛生な包帯に包まれていた。患部はおろか、体もロクに清められていないようで、ツンとした悪臭が鼻をつく――
「はい……前線で、悪魔に引き千切られ……おかげで、働くこともままなりません。どうか、どうかお慈悲を……」
悲痛な声を漏らす兵士を前に、リリアナは唇を噛み締めた。
今は普通の森エルフになりすましているが、リリアナが本来の力を発揮すれば一瞬で癒やせる怪我。
だが、ここで正体を明かすわけにはいかない。
『聖女』リリアナは行方不明だ。魔王国内にまだ潜伏しているかもしれない、と思わせた方が、魔王国を混乱させられるし、アレクも身動きが取りやすくなる。だから、可能な限り正体を隠し続けなければならない。
加えて、欠損さえたちまち癒やす奇跡の力を見せつければ、この場が大騒ぎになるだろう。この兵士だけではない、周囲には似たような傷病に苦しむ浮浪者が、ごまんといるのだから……。
「……ごめん、なさい」
――理想と現実の落差に打ちのめされるのは、これが初めてではなかった。
生まれつき癒やしの力に秀でていたリリアナにとって、怪我や病気は、見かけたら治してあげるのが当たり前だった。
森エルフの里でも重篤な傷病に限らず、腰を痛めた老エルフを癒やしてあげたり、弱った動物たちを元気にしてあげたり、そうするのが自然で、ごくごく当然だと思っていたのだ。『限界』を感じたこともなかった。
そんなリリアナが森の外に出て、戦場を知って――
最初は、手当たりしだいに癒やそうとした。だけどダメだった。リリアナは数百、数千という死傷者を前に、初めて己の限界を知った。
不可能だった。全員を、完璧に治療することなんて。
魔法の使いすぎで倒れること数回、自分が気絶している間に、本来は救えたはずの命がポロポロとこぼれ落ちていった、と知ったときの衝撃たるや。
そうしてリリアナは学んだ――取捨選択することを。
瀕死だが即戦力の古参兵を癒やすか、それとも軽傷の新兵10名を癒やすか。逆に瀕死の新兵と、軽傷の古参兵10名だと、どちらを優先するべきか? 自分の余裕、戦況に応じて、
せざるを得なかった。
そしてそれは、心優しいリリアナにとって、苦痛以外の何物でもなかった。
『うわん、うわん!』
今も――心の中の、純真無垢な存在が、この兵士を、周囲の人たちを、可能な限り癒やしてあげよう! と提案している。
だけど、ダメなのだ。それをしてしまえば、収拾がつかなくなる。奇跡の力を求めて人々が殺到し、大混乱に陥るだろう。怪我人を癒やそうとして、さらに負傷者が出るようでは目も当てられない。そうでなくとも、この都市に溢れる怪我人を全員完治させようとしたら、いったい何日かかるだろう?
そんな余裕は、今のリリアナにはない。
時間的にも、魔力的にも、政治的にも――
『聖女』リリアナが、ここにいてはいけないのだ。
「ごめんなさい……お金がないの……」
そうつぶやいたリリアナは、そっと兵士の、血塗れの腕に手を伸ばした。
ほぅ、と温かな光が、その傷をわずかに癒やす。
「あ……」
兵士が驚いている。じくじくと傷を苛む痛みが、スッと消え去ったからだ。欠損はそのままだが、傷そのものはきれいに塞がっていた。さらに、無事な左手に、コインを1枚握らせた。
「私には、これくらいしか……」
「と、とんでもねえ。ありがとうございます、ありがとうございます……!」
目に涙を浮かべて何度も頭を下げる兵士に、ますます居た堪れない気持ちになったリリアナは、足早にその場を去った。
ダメだ、こんなことじゃ。
自己満足の域を出ていない……根本的な解決にならない。
「お恵みを……」
「うぅ……痛えよぉ……」
「どなたか、パンを……ひとかけらでも……」
だって、まだこんなにもたくさん、怪我や病気で苦しんでいる人たちがいるのに。
聖女の力を解き放てば、みんな元気にしてあげられるはずなのに……
「ごめん、なさい……」
歯を食い縛るリリアナは、はらはらと涙をこぼしながら、先を急ぐ。
……思えば、この口惜しさこそが、リリアナを駆り立てたのだ。
魔王城に。
いくら頑張って前線を支えても、魔王軍が攻めてくる限り、死傷者は減らない。根本的に『癒やす』には、魔王国を滅ぼすしかない。
そう感じていた矢先、魔王城強襲作戦を知り、しかもアレクが参加するらしいと聞いた。
だからリリアナもまた、魔王城に乗り込むことに決めたのだ。
結果は知っての通りだが――それでも。
(知らせなきゃ)
彼の地で、闇の輩の根城で、孤軍奮闘する勇者がいることを。
(……アレク)
魔王国を倒すために、同盟圏を救うために、自分もまた最善を尽くさねば。
涙を拭ったリリアナは、さらに歩みを速める。
――東へ。トリトス公国を抜けて、獣人部族連合国家を越えれば、エルフの森が、故郷が、リリアナを待っている。
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