302.同胞たち
お庭でぽかぽか、おひさまがきもちいい。
色とりどりの、お花もきれい。あ、ちょうちょがとまっている。
羽の鮮やかな模様に心惹かれて、匂いをかごうとしたら。
『わふ?』
ふわりと羽ばたいたちょうちょが、鼻先にとまった。
思わず寄り目になって、じっとちょうちょと見つめ合ってしまう。
『わうわう』
ちょうちょが逃げないように、トコトコとゆっくり歩いて、彼に見せに行った。
『ん? どうした?』
ベンチで読書していた彼は、顔を上げるなり、プッと吹き出す。
『あっはっは。可愛いな』
鼻先にちょうちょをとめたまま、得意げにおすわりして胸を張っていると、本を閉じた彼がひざまずいて、視線の高さを合わせてきた。
そっと……鼻先のちょうちょに、手を伸ばす。
だけど触れる寸前に、ふわっと羽ばたいて逃げてしまった。
『ああ……』
青肌の指先をすり合わせ、ちょっと残念そうな顔をする彼。
『わう……』
いっしょに空を見上げる。青い空に黄色いちょうちょが、ぱたぱたと飛んでいく。
『あいつは自由だな』
寂しげに笑った彼が、優しく抱きしめて、頭を撫でてきた。
心地よい――幸せ――
『リリアナ』
『わふん』
『お前も、もう自由なんだ』
……え?
不意に、冷水を浴びせられたように。
辺りは真っ暗で、暖かな庭園は消え去っていた。
『元気でな』
立ち上がった彼の後ろ姿が、どんどん遠ざかっていく、消えていく。
いや、彼だけじゃない。優しい白竜娘も、ふわふわな白毛の虎娘も、みんな……
『わうん! わうん!』
待って! 置いていかないで! 走って追いかける。思わず手を伸ばし――
『あ……』
手。まっさらな手。
ああ、そうか。自分はもう。
犬じゃないんだ――
†††
「――アレクッ」
跳ね起きたリリアナは、森にいた。揺れる、生きたツタのハンモック。のどかな鳥たちの鳴き声。
「…………夢」
力なく、ぽすんとハンモックに横たわった。
木漏れ日が、やけに眩しかった。
――昨日、山脈を突破して無事同盟圏に逃れたリリアナは、疲労のあまり、山の麓の森に駆け込むなり、気絶するように眠り込んでしまった。
かろうじて樹上にツタを伸ばし、この寝床を作ったところまでは覚えている。
山を降りる頃には日が沈みかけていたので、夕方に寝入ったとしてもまるまる半日近く眠っていたことになるのか。魔法をぶっ通しで使い続け、ほぼ休みなく全力疾走に登山まで強行となると、さすがのハイエルフでも限界だったらしい。
逆に、それだけ無茶をしても、半日眠れば完全回復してしまうのが、彼女の恐ろしいところでもあったが――
「よし、行きましょう」
とりあえずドライフルーツを頬張り、目覚めの食事とする。さらに、人化の魔法を中途半端に使って、普通の森エルフになりすました。
「どれどれ……」
魔法で出した水鏡を覗き込んでみると、髪が少し伸びて、こんがりと日焼けした森エルフが見つめ返してきた。
肌色が変わったのはもちろん、耳が短くなり、魔力もほどよく弱まっている。
「……この魔法、使い方次第でいくらでも悪さできそうね……」
純粋な人族にこの魔法は覚えられるんだろうか、と今さらな疑問を抱いたが、確かめようもなく。
荷物を背負い直したリリアナは、途中で見かけた果実をもぎ取ってかじりながら、森を出て街道を進んでいった。
農民の一団や、獣人の狩人とすれ違ったが、そのたびに思わず身構えてしまった。だけど軽く挨拶するほかは、声をかけられることもなく。
しばらく歩くと、山頂から見えていた街にたどり着いた。
そして――街の城壁の外にキャンプを張る、森エルフの旅団も見つけた。
「ああ……」
こんがり日焼けした同胞たちの姿に、思わず涙が溢れ出してきた。
同族と会うのは、もう8年ぶりになるのか。長命種のハイエルフにとっては一瞬といっていい時間だが、リリアナにとっては、長すぎる空白だった。
「ん? 見ない顔だな」
「どうした?」
「何があったの? あなた、ひとり?」
立ち尽くしたまま、はらはらと涙をこぼすリリアナに、森エルフたちが不審がって歩み寄ってくる。
奇異の視線――服装のせいだ。リリアナは、イザニス族の戦士から剥ぎ取った狩衣を身に着けている。つまり魔族の服であり、動物の毛皮だった。本来、森エルフは植物性の繊維を編み上げた生地しか使わない。
「私……その、逃げてきて……」
言葉に詰まった。こんなに、たくさんの森エルフが。尖った耳の、小麦色の肌をした容姿端麗な若者たち。
しかし、リリアナが里でよく見かけていた若者たちと違って、どことなく殺伐とした雰囲気を漂わせている。この地方に派遣された森林弓兵で、実戦経験もあるのかもしれない――
「逃げてきた……? 名前は? どこの出身だ?」
リーダーと思しき森エルフの男が、警戒しつつ尋ねてきた。
「名前は……『タチアナ』です」
答えながら、リリアナは魔力を編み上げる。煌めく魔力の燐光――
森エルフたちが、静かにどよめいた。
『タチアナ』は森エルフの叙事詩に登場する、古代の人族の王女の名だ。継母に命を狙われたため身分を偽って逃亡し、紆余曲折を経て森エルフの里に身を寄せ、数年後に継母が病死するまで隠遁。最終的には祖国に舞い戻り、女王になったという数奇な運命の持ち主だ。
森エルフの間では、『のっぴきならない事情で身分を偽る貴人』の代名詞であり、リリアナが今しがた編み上げてみせた魔力は、森エルフの詩人が、この叙事詩の語り出しに描く模様でもあった。
つまりリリアナは、この『タチアナ』の名乗りが叙事詩の文脈を汲む偽名であり、何らかの事情を抱えていることを匂わせたのだ。
同時に、一瞬で複雑な魔力の模様を編み上げた手腕は――並の森エルフなら数呼吸はかかるところ、まばたきほどの時間で――リリアナが導師級の使い手であり、『身分を偽る貴人』に相応しい、森エルフの上位層出身であることを証明していた。
「……タチアナ様。何かお望みはございましょうか?」
改まった態度で、リーダーの男が再び尋ねてくる。
「サンクタ・シロに向かいたく」
リリアナは答える。
「ですが、お恥ずかしながら着の身着のまま、さながら『エリモスの花園』で……」
これも森エルフ特有の言い回しだ。とある人族の王が、王妃のために森を伐採して花園を造ったが、干魃に見舞われて花園はおろか周囲一帯が荒れ果ててしまい、国が困窮してしまった、という故事にちなんだ表現。要は一文無しであることを示す。
季節柄、リリアナは森さえあれば食いつなげるが、道中ずっと深い森が続くわけではないし、地域によっては通行税なども取られるかもしれない。免状も通行証も持っていない現状、ある程度の路銀がなければ、面倒なことになりかねなかった。
「我ら弱小旅団ゆえ、ご期待に添えるほど御用立てられるかはわかりませんが」
「ほんの少しで構いません、もちろん一筆したためましょう」
「それと、弓兵のものになりますが、よろしければお召し物も」
「お心遣いに感謝します」
そうして丁重にもてなされたリリアナは、いくばくかの路銀に森エルフらしい旅装一式までを手に入れ、故郷――聖大樹の森を目指して、再び歩みを進めるのだった。
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