301.国境突破


 走り出したあとは、嘆き悲しむ暇なんてなかった。


(逃げなきゃ――)


 早駆けの魔法を使い、リリアナは全速力で森を駆ける。


 深い緑の原生林。おおよそ地面に平らな場所はなく、ゴツゴツとした木の根が張り巡らされ、苔むした岩石が無造作に転がっている。さらには、無秩序に生い茂るツタや木の枝。常人ではほとんど身動きもままならないだろう。


 それでもリリアナは、森を吹き抜ける一陣の風のように走る。


 とんっ、たんっと軽やかな足音を立てながら、迷いなく軽やかに、それでいて迅速に。行く手を遮る茂みも枝葉も、まるで頭を垂れるように、自ら退いてうやうやしく道を開いていく。


(ありがとう)


 森に愛されるエルフならではだ。もっとも、これが普通の森エルフなら、ここまで顕著な『導き』は現れない。ハイエルフの強大な魔力と神性があってこそ。


「…………」


 しかし、心安らぐ森の中にいるはずなのに、リリアナは重圧に苛まれていた。


 孤独だ。


 今はもう、魔王子ジルバギアスの庇護もなく、彼のペットでもなく、脱走したハイエルフとしてこの地にいる。


 一刻も早く、脱出せねば。


 もしも捕まりでもしたら、悲惨な目に――



 ぎらりと剣呑な輝きを放つ刃物、火、嘲笑、痛み、鎖の音、湿っぽい空気、水音、てらてらとぬめる石の床



「…………ッ!」



 突如、『監獄』での悪夢が蘇りそうになったが、どうにか振り払う。


 ――自分が捕まるだけなら、まだいい。だけど実際には、アレクにとっても致命的な事態を引き起こしてしまう。


(それだけは、絶対にダメ)


 様々なリスクを承知で、彼は自分を逃してくれたのだ。


 その想いに応える義務が、今の自分にはある!


 だから駆けた。脇目も振らずに駆け続けた。


 ハイエルフの再生力と魔力に物を言わせて、ほとんど休憩も取らずに、道なき道をひた走る。


 夜明け前の薄明かりにまどろんでいた森が、だんだんと明るんでいく。小鳥たちが歌い、色とりどりの花々が目につくようになった。木漏れ日が差し始め、樹上に実る果実の香りを嗅ぎ取る。日向ぼっこにちょうど良さそうな、倒木が折り重なった森の空き地も見つけた。


 これが故郷の森だったら、ゆったりとした空気を楽しんでいただろう。


 だけど、今のリリアナには、そんな余裕はなかった。


 喉が渇けば魔法で水を生み出し、走りながら口に運んで渇きを癒やす。ハイエルフの再生力をもってしても、拭いきれない疲労感があれば、故郷の森を思い浮かべて気を紛らわせる。


 時折、森が途切れて平野や草原に行き当たれば、早駆けの魔法を隠蔽の魔法に切り替えて、姿勢を低く保ち進む。獣人の集落や、明らかにヒトの手の入った畑などを見かけることもあった。最大限に気を張りつつ、東へ向かう。


「……あら」


 そして強行軍を続けること数時間、太陽が天頂に登るころ、森の奥深くでリリアナは初めて足を止めた。


 いや。


 その場で跳躍し、頭上の枝を掴む。



 ズオォッ、と空気が蠢いた。



 一瞬前までリリアナがいた空間を、巨大な影が突き破っていく。



「――シュゥゥ――――ゥゥゥ――」


 空気の漏れ出るような、不気味な鳴き声。大木をそのまま横たえたような、太い胴をくねらせる魔物。


 大蛇だ。


 冠にも似た棘を額に生やす怪物が、鎌首をもたげる。


 ――覇王大大蛇カイザーバジリスク。森の生態系の最上位に位置するヘビ型の魔獣。


「シュゥゥ――ルルル――」


 細長い(と言ってもリリアナの腕くらいはある)舌をチロチロと覗かせ、再びリリアナに噛みつこうとする大蛇だったが。


「お腹が空いてるの?」


 リリアナは申し訳無さそうに、まばゆい光を放った。


「――シャァァ!?」


 視界を真っ白に塗り潰されて、動転するカイザーバジリスク。


「ごめんね」


 その頭に飛び乗り、リリアナはちょんと指先で額をつついた。途端、とろんとした目つきになったカイザーバジリスクは、脱力し、ズシンと倒れ伏した。


 何のことはない。最大限に癒やしの力を流し込んであげたのだ。おそらく生まれて初めての心地よさに包まれて、すやすやと幸せそうに眠っている。


「……ちょっと休憩しようかしら」


 さすがのリリアナも、ふら、とめまいに襲われた。体力より先に、魔法の使いすぎで精神力がすり減っている。


 すぴすぴと寝息を立てるカイザーバジリスクの頭に腰掛けて、リリアナはしばしの休息を自分に許した。


 リュックから小さな巾着袋を取り出す。中身は、はち切れそうなくらいに詰め込まれたドライフルーツ。


「……おいし」


 もそもそと頬張る。あまーいブドウに、甘酸っぱいアンズ、スライスしたリンゴにモモ――どれもこれも、リリアナの大好物のおやつだ。


『これ、せっかくだし持っていってください!』


 このアンズは、レイラが自分の分を入れてくれたんだっけ。


『リリアナーおやつの時間にゃー。あ、みゃーも一口……』


 そう言えばガルーニャは、こっそりつまみ食いしたりしてたなぁ。


『……おいしいか? よかった。はい、あーん』


 アレクがあーんしてくれたモモ、世界でいちばん美味しかった。


「……くすん」


 いつの間にか、ドライフルーツを頬張るリリアナの目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。


 どれもこれも、そのまま持ってきたはずなのに、まったく味わいが違う。


「わぅん……」


 泣いても、鳴いても、優しく撫でてくれるひとは、もういないのだ。


 そんなリリアナを慰めるように、そよ、と涼やかな風が吹き抜けていく。リリアナはハッとして顔を上げた。空気の香りが変わりつつあることに気づいたのだ。


「……行かなきゃ」


 手から魔法の水を湧き出させて、顔を洗う。


 洗い流す。


 感傷に浸るのは、あとでいい。


 カイザーバジリスクの頭から手近な木に飛び移って、するすると登っていく。


「……見えた」


 森の果てには――ゴツゴツとした険しい山脈が続いていた。



 あの向こう側が、同盟圏だ。



 山脈の切れ目の平野部には街が広がっているはずだが、当然、そこは魔王軍が制圧済み。見つからずに国境を突破するには、あの山を越えるほかない。


 ドラゴンなら一瞬で飛び越えられるのだろうが――


「!!」


 そう思った矢先、頭上に影が差す。ドラゴンだ! 2頭がセットで行動している、間違いなく魔王軍の哨戒飛行――


「…………」


 その場でじっと身じろぎもせず、ドラゴンたちを見送った。山脈をなぞるように飛んでいる――あれは通常の哨戒なのだろうか、それとも――


 いずれにせよ、見つかるわけにはいかない。


 視界からドラゴンたちが完全に消え失せてから、リリアナはひらりと木から飛び降りた。荷物をまとめて、再び走り出す。今度は早駆けの魔法ではなく、隠蔽の魔法を使いながら。



          †††



 ――頭上にドラゴンがいるかも知れない状況で、森から抜け出すには、いくらかの勇気が必要だった。


 隠蔽の魔法はリリアナの魔力を隠し、ぼんやりと姿をかき消してくれるが、完全に透明になるわけではない。注意力と視力に優れたドラゴンならば、あるいは物理的な視覚で隠蔽を見抜いてしまうかもしれない。


 今のリリアナなら、並のドラゴン2頭くらいなら撃退可能だろうが。


「それでも、見つからないのが一番」


 ごつごつとした岩肌に手をかけて、地道に山を登っていく。遠見の魔法で偵察したところ、人が通れそうな箇所には見張り塔や物見櫓が設置されており、獣人兵や夜エルフ猟兵が詰めているようだった。


 なので、敢えて、常人では絶対に登れそうにない箇所を攻略していく。


「~♪」


 岩陰で歌を口ずさむリリアナ。メロディに合わせ、切り立った崖のような岩肌に、スルスルとツタが伸びていく。


「よし」


 しっかりと根を張っていることを確認してから、隠蔽の魔法をかけ直して、ツタをロープ代わりに登っていく。命綱もなく、無謀な挑戦のように見えるが、このくらいの高さなら落下したところで全身の骨が砕けてしまうだけだ。


 リリアナは、死なない。


「ふっ……ふっ……!」


 歯を食い縛り、額に汗を浮かべながら、懸命に登る。


 いい感じの岩陰や割れ目があれば、そこに身を潜めて小休止。呼吸を整え、ときに魔法で足場を整え、ときにツタを伸ばし、隠れる場所がなければ隠蔽の魔法を維持したまま素手でどうにか登っていく。


「私は……帰る……!!」


 いかにハイエルフでも、慣れない環境、孤独と不安、いつ発見されるともわからぬ緊張の連続は堪えた。


 それでも、登り続ける。立ちはだかる巨大な岩壁の向こうに、自由が待っている。


 いや、それだけではない。


 アレクという希望の光を、届けられる……!


「あっ」


 と、汗で手が滑った。ズルッと身体が崖から落下しそうになり、咄嗟に突き出した岩に指をかけた。


「んぎゅぅ……!!」


 バチィッと手の爪が剥がれ、手のひらが裂けたが、どうにか落下せずに済む。


 ヒュォォ……と冷たい風が、宙ぶらりんになった足、汗ばんだ肌を撫でていく。


 無事な手で岩を掴み直し、ぺろぺろと血塗れの手を舐めた。シュゥゥ……と傷が癒やされていく。


「私は……森に、帰る……っ!!」


 登る。登る。ひたすらに登り続ける。



 そして、天頂から陽が傾き始めた頃――



 リリアナはとうとう、山の稜線に手をかけた。



「ああ……」



 そこから見た景色に、思わず溜息のような声が漏れる。



 至って普通の、森が広がっていた。どこまでも『普通に』、瑞々しくて、平和で、穏やかな森が。



 さらにその向こうには、街が見える。街道も。畑も。骸骨ではなく生きた馬が引く馬車や、野良作業をする人族の姿も――



 涙が出てくるほどに、普通だった。



 振り返れば、こちらにも青々とした森は広がっている。だけど、どことなく荒涼とした、よそよそしい空気。魔王国の風。



 ――おき。



 そう、言われた気がした。



「……さよなら」



 遥か彼方、見えるはずもない、あのひとの顔を思い浮かべながら。



 リリアナは稜線を――超えた。



 ドラゴンの哨戒飛行がある以上、まだ気を抜くことはできないが。



 それでも、その瞬間、リリアナはたしかに。



 同盟圏に、足を踏み入れたのだった。

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