292.行末と決断


「えっ、あっ、いや、すみません! そうですよね、手足が戻ったのなら、自我も戻ってますよね……!」


 リリアナがハイエルフであるという前提を思い出したか、レイラが赤面して、わたわたと手を振っている。


「あのっ、そのぅ、リリアナ……さん。本日はご機嫌麗しく……?」

「あははっ。前みたいに、普通にリリアナでいいのよ」


 かしこまるレイラ(【キズーナ】のみ装備でほぼ全裸)に、思わずクスクスと笑うリリアナ。


「たしかに、自我は取り戻したけど、あなたとの思い出が消えてなくなったわけじゃないわ。いっしょに過ごした日々は、ええと……、全部……」


 背後、リリアナの言葉がだんだん尻すぼみになっていく。


「ぜんぶ……覚えてるから……」


 消え入りそうな声。こつん、とリリアナの額が後頭部に当たる感触。


「…………」


 沈黙。


 俺は、じわ、と額に汗が滲むのを感じた。


 全部……覚えてるんだ……。いや、かくいう俺も、自我を封じ魔王子ジルバギアスとして活動していた間の記憶はあるから、当然といえば当然なんだが……。ぺろぺろヒーリングのみならず、同衾、風呂、ウッ、頭が……


 レイラは、笑みの成分を限界まで薄めた愛想笑いみたいな曖昧な顔をしているし、アンテは酒場のエロオヤジみたいな目で必死に笑いを噛み殺している。


 不意に、リリアナが俺の肩を撫でた。


 いや…………違うッ! これは、肩じゃなく……


 俺が装備しているボン=デージ・スタイルを……!


「私の皮なのよね……」


 ボソ、と。


「…………」


 俺は、汗がダラダラと流れ落ちるのを感じた。


「おほォ」


 アンテが妙な声を上げる。禁忌の力を計上してんじゃないよ……!! 誰か……誰か、助けてくれ……!


 ……いや。どの面下げて助けなんて求めてやがる。それを選択したのは、他ならぬ俺自身。ならば全ての責任は、俺にある……!


「その――リリアナ」

「いいの」


 リリアナが、再び後ろから抱きしめてきた。


「……から連れ出してもらえて、私がどれだけ救われたか。たぶん、あなたにはわからないと思う」


 ふるっ、とその身が震える。


「もう、消えてしまいたいと思っていた私に、おひさまの暖かさを、生きる喜びを、何気ない幸せを――あなたがぜんぶ、思い出させてくれたの」


 ぎゅっ、とリリアナの指に力が入る。


「そしてあなたに……もう、二度と会えないと思ってたあなたに、また会えた。私、幸せだったわ。あなたといっしょにいられて、幸せだったの。だから謝らないで」


 ありがとう――


 震える声で、リリアナは囁くように言った。


 …………。


「俺だって……俺の方こそ、めちゃくちゃ救われた。ただ、ケガを治してくれたってだけじゃない。あのときの俺には、アンテの他に誰も味方がいなかった。リリアナが生きてるって知って、リリアナといっしょにいられて……」


 どれだけ、救われたか。


「本当にありがとう」


 リリアナの手を撫でる。



――いっしょにいてくれて、ありがとう」



 はっ、と息を呑むのが聞こえた。


 振り返る。俺は――リリアナの顔を。すらりとした足が元通りに生えて、今や、彼女の方がちょっぴり俺より背が高いのだ。



 これまでのようには、もう、いられない。



「帰りたいんだろう。森に」


 リリアナは顔を青ざめさせて、言葉を失って――それでも、否定はしなかった。


 彼女は、もう、犬であることをやめたのだ。


 これまで犬になりきっていられたのは、あくまで、本人がそれを望んでいたからに過ぎない。


 仮に今から、禁忌の魔法で自我を再封印しようとしても、俺自身もアレクとしての本性を封印しなきゃいけないし、魔法が解除されればリリアナは再び自我を取り戻すだろう。


 あるいは、リリアナの四肢を切り落とし、理性ある状態で犬真似をさせたところで――狡猾な夜エルフたちの目を欺けるとは思えない。これまでのように魔王城で暮らすことは難しい。



 ずっと考えてきた。



 もしもリリアナが自我を取り戻したら、どうするのか。



「俺としては――聖大樹連合の女王陛下に、現状をお伝えしたいと考えている」



 今、森エルフたちは岐路に立たされようとしている。



 おそらく10年以内に、前線とエルフの森が接続するからだ。


 リリアナがこのタイミングで自我を取り戻したのは、俺を援護するためだけじゃなく、故郷が戦火に見舞われることを薄々察していたこともあると思う。


 そこで、俺という切り札ジョーカーの存在。


 さらには魔王国の現状、国家戦略に、夜エルフ諜報網。


 聖大樹連合に――その指導者層に、これらの情報がもたらされれば。


 今後の意思決定に大きな影響が出るはずだ。


 少なくとも、森が防衛しきれそうにないから自暴自棄になって突っ込んだり、同盟から脱退して森エルフだけで引きこもろうとしたりは、しなくなる。


 俺がのし上がれば、魔王国は必ず傾く。それを希望に、戦略的撤退や、遅滞戦術を選べるようになる。長命種の極みたるハイエルフたちは、100年後、200年後を見据えて行動できるからだ。


 そして、森エルフたちが諦めずに支援を続けてくれるなら、同盟軍はまだ戦える。


 前線が持ちこたえれば持ちこたえるほど、同盟圏東部は戦火から守られる。


 ――無辜の人々が犠牲にならずに済む。


 ……できれば、聖教会にも知らせたいところだったが、夜エルフの諜報網のせいでできない。当時、最重要機密だった魔王城強襲作戦でさえ、全貌は隠しおおせたものの、ホワイトドラゴンや各国の代表団などの大まかな動きは掴まれていた。


 この方面で、同胞たち――人族を頼れないのが、口惜しくてならない。だが、俺が当の工作員ヴィロッサから聞き出した、傀儡商会などについての情報をハイエルフの女王に伝えられれば、諜報網にもそれなりの打撃を与えられるはず。


「……アレク」


 アンテが、先ほどまでとは打って変わって、極めて冷徹な顔で口を開いた。


「我は、反対じゃ。その娘の手足をもいででも、手元に置いておくべきじゃ。万が一情報が漏洩すれば、破滅的な結果を招きかねんぞ」


 ――俺にとって最悪のシナリオは、俺の情報が漏れて、魔王国に伝わること。


 何をバカな、同盟の下らぬ撹乱工作だ――と一笑に付し誤魔化すことは可能だが、俺は存在が特異すぎる。疑念の目で見られるだけでも、けっこうヤバい。


「お主の気持ちはわかる。リリアナの気持ちも、な。……一応、禁忌の魔神として、お主らの苦しみは相応の魔力を生むであろうことを告げておく」

「それは、人族の奴隷何人分だ?」


 俺は、皮肉げな笑みを自覚しながら聞き返した。


「――リリアナが去れば、俺は以前のように、転置呪に奴隷を利用することになる。それをわかった上で、彼女を送り出そうとしているんだ。……たぶん、1ヶ月もすれば、リリアナを苦しめる禁忌を遥かに上回る魔力が稼げるさ」

「…………」


 アンテは沈黙した。この上なく雄弁な肯定だった。


 かつての仲間から再び四肢と自由意志を奪い、苦しめ、利用する禁忌。それは確かに、相応の魔力を生むだろう。


 だが、勇者おれにとっての同族殺しに比べれば、禁忌としては弱い。たったひとりの、かけがえのない前世からの仲間ではあるが――裏を返せば、たったひとりにすぎないのだ。


「俺だって、無駄な死者は出したくない。でも、ここでリリアナが情報を伝えられるなら、同盟の行末に大きな影響が出て、結果的に死者を減らせると思う」

「うぬぅ……。しかし、情報が漏洩した場合のリスクはどうする」

「笑ってごまかすさ! ……というのは冗談としても、リリアナが無事にエルフの里にまで逃げ延びれば、漏洩する可能性は低いと考えている」



 ――もしも彼女が普通の森エルフだったら、俺は逃さなかっただろう。



 しかし、実際はハイエルフの聖女で、女王の娘のひとりだ。他の森エルフを介在させず、直接女王と会って話せる数少ない人員なのだ。


「機密情報の担い手として、これ以上相応しい存在が他にいるか?」


 もしくは、俺についての情報は明かさない、という手もある。魔王子のペットにされていたリリアナが、自身の死を偽装して脱出した、というふうに森エルフたちさえ欺くのだ。


 そうすれば俺の身バレは最小限に押さえつつ、同盟圏に有益な情報を流せる。


「いずれにせよ、聖大樹に守られた里の深奥には、闇の輩は決して忍び込めない」


 機密情報が、ハイエルフの女王や、ごく一部の重鎮たちのみに共有されれば、漏れ出す可能性は限りなく低い。聖大樹連合の意思決定に関わるハイエルフたちは、ほとんどエルフの里の外に出ないからだ。


「今こそが千載一遇の機会だ。これ以上の好機となると、それこそレイラに脱走してもらうくらいしかない」


 俺が目を向けると、レイラが泣きそうな顔で唇を引き結んだ。


「…………そうじゃな。そして、絶対的に信頼できる飛行能力は、他のドラゴンでは代替できん。しかしリリアナの治療は、転置呪で代用できる、と」


 アンテが露悪的な口調で、しかし同時に、半ば自嘲するように言った。


「……ああ」


 わかってるよ。いつもこういうとき、嫌われ役を買って出て、気を引き締めてくれてありがとう。


 俺が微笑むと、アンテは諦め顔で首を振った。


「リスクについては重々承知の上で、か。よかろう、話を戻そうではないか。問題は山積しておるし、話し合わねばならんことは多い。じゃが、いちばん大切な前提条件を忘れておる」

「……それは?」

「本人の意志じゃよ」



 俺たちの視線が、リリアナに集中した。



 彼女は、歯を食い縛り、ぎゅっと目をつむって、うつむいていた。



 ……もし、国外脱出を実行するならば、時間との勝負だ。



 こうして悩んでいる時間さえ惜しい。それでも、彼女の返事を待つ。



「わ……私……」



 神々の贈り物のような美貌を、くしゃっと歪めて。



「……あなたと、ずっといっしょにいたい……!」



 リリアナが俺を見つめる。



 青い瞳に、じわ、と涙が浮かぶ。



「……でも、」



 そう、だよな。



 それで終わりなら、こんなに苦悩する必要は、ないもんな。



「故郷を……みんなを…………放っては、おけない……!」



 わかっていた。



 ――知っていた。



『聖女』リリアナ=エル=デル=ミルフルールは。



 同胞たちの危機に、じっとしていられるような人物ではないのだ、と。

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