289.覚醒の時
(いたい……)
砦の奥の倉庫で、リリアナはまどろんでいた。
竜巻の直撃でも受けたかのように、周囲には資材が散乱している。リリアナ自身も血塗れだった。最初にエメルギアスが放った風の魔法は、砦の内部を吹き荒れて隅々まで蹂躙し、普段着のリリアナもズタズタに引き裂いていったのだ。
レイラとバルバラは竜鱗で弾き、アレクは防護の呪文で無効化した。だがリリアナは何もできず、無抵抗に受けるほかなかった。攻撃魔法への対処の仕方なんて、わからなかったからだ。犬なので。
それでも、アレクたちが大して心配していないのは、あの程度の魔法でリリアナが死ぬはずもないとわかっているからだろう。
事実、床に寝転がるリリアナの傷はふさがりつつある。犬なので?
いや違う。
本当はハイエルフの、聖女だからだ。
「…………」
リリアナは目を閉じて寝転がっている。たかが全身を切り刻まれる程度、リリアナにとっては苦痛ではない。もっと恐ろしいモノを知っているから――知っている? 本当に? わからない。
わかりたくない。
(ねむい……)
リリアナはただまどろんでいる。このまま眠りに落ちて、気がつけば暖かなベッドに寝かされていて、アレクが優しく微笑んで撫でてくれる。そうなってくれればいいのにと、切に願う。
目覚めたくない。
だから何も聞こえないままでいる。部屋の外から聞こえる咆哮や、剣戟の音も、何も聞こえないふりをしている――
『……わかるわ』
不意に、そっと、誰かに抱きかかえられるような感覚があった。
『怖いわよね。このままずっと、何もわからないままでいられたらいいのに……』
頭を撫でられる。知らないようで、知っている。他人のようで、その手の感触は、誰よりも馴染みがある。そんな気がした。
「……くぅん」
リリアナも、本当はわかっているのだ。
いつまでも、このままではいられない、と。
この頃はずっとそうだった。お昼寝をしていても、ご飯を食べていても、アレクと一緒にのんびりしていても。
心の片隅に、焦りに似た何かがくすぶっていた。戦争、森エルフ、聖大樹連合――そんな言葉を拾ってしまう。
わかっているのだ。踏み出さなきゃいけないときが迫っていると。
でも――そうしたら、今の自分は――
『だいじょうぶ』
優しい言葉。
『あなたは消えない。だって、わたしであることに変わりはないんだもの』
慈しむように、頭を撫でられる。
『わたしも怖いの。イヤなことや、辛いことだっていっぱいあるし。でも、あなたといっしょなら、頑張れる気がしてるの……』
リリアナは、目を開いた。
『……わたしといっしょに、来てくれる?』
金髪のハイエルフが、精一杯、強がるように微笑んでいる。
「――わん!」
行かなきゃ。
そう思った。
『ありがとう――』
ふたりは溶け合い、ひとつになる。
……リリアナが、夜エルフ監獄を脱して以来、これほど肉体を激しく損壊させられたのは初めてのことだ。
全身をズタズタにした風の刃は、当然、手足も切り裂いている。
だから。リリアナの四肢を封じていた金具も、また――
からん、からんと金属片が床に落ちる音。
「楽しい――夢だったわ」
眼前に、手を掲げる。
すっかり日焼けも消えてしまった、新品の手を。
ぐっ、と握りしめる。だいじょうぶ。怖くない。ね、そうでしょう?
『――わん!』
行かなきゃ。
リリアナ=エル=デル=ミルフルールは――
2本の足で、立ち上がった。
†††
戦場じゃ、目と頭がいくつあっても足りない。隊列を組む一兵卒なら目の前の敵に集中できるんだが、上級戦闘員になるとそうもいかない。
だから、俺から一瞬目を離して、後方を確認せざるを得なかったエメルギアスが、特別不用意だとは思わなかった。
それでも、隙は隙だ。
踏み込む。狙うは近くの女魔族。大した魔力じゃないが、これ以上吸い取られる前に殺す。
「――――」
ドラゴンたちが無力化されたことを悟ったエメルギアスは、当然、俺の接近も察知していた。チラ、とその視線が女魔族に向けられる、させねえ――
「【収奪を禁忌とす!】」
制定。
最大限に魔力を込める。エメルギアスは禁忌の魔法に抵抗できるようにはなった、だがそれは、常に無効化できることを意味しない。抗うにはそれなりに気合を入れる必要があり、相応の隙を生む――
「チィッ」
舌打ちするエメルギアスは、しかし俺の予想とは違う行動を取った。傍らの女魔族を抱きかかえ、そのまま砦の扉へ走ろうとしている。ここに来て逃げるか!?
『【逃走を禁忌とす!】』
アンテが制定。エメルギアスの足が、蜘蛛糸に絡め取られたかのように鈍る。それでも輝くボン=デージ、風を放って無理やり離脱するつもりか――!
「若ッ!」
腕の中で、女魔族が悲鳴のように警告を発す。
その瞬間、同時に、いくつかのことが起きた。
ヒュカァンッと鋭い音が響き渡る。砦の外で機を窺っていたバルバラが刺突を放ったのだ。
ドヒュッ、と突風が吹き荒れる。エメルギアスがボン=デージの機能を使い、禁忌の魔法を振り払いながら加速。
「【
そして女魔族が、自らとエメルギアスを覆い隠すように闇の魔力の外套を掲げ。
バルバラの剣は
「グっ……ォォッ!」
修羅の顔と化した女魔族が、血を吐きながら素手で剣を掴み、刃を喉に食い込ませながらバルバラに組み付く。
「若ァ!」
「――クソおおおォォッ!」
ヤケクソじみて叫んだエメルギアスが、槍を突き込んだ。
女魔族の背に。
彼女ごと、バルバラを槍で刺し貫く。胸部の装甲を打ち砕かれたバルバラが、内部の魔石をこぼしながら崩れ落ちる。
「若……ご無事で……」
血みどろで微笑む女魔族に、エメルギアスが何やら喚いているが。
その首へ、俺は背後からアダマスを振り下ろす。
「――【
ぶわっと闇の魔力の衣が広がる。
構わず剣を振り抜き、本来頭があるはずの部分を切り裂く。だが手応えがない。
「【アアアアアアアアアァァァッッ!!!!】」
突風。砦の外から猛烈な風が吹き寄せた。バルバラと、事切れた女魔族も吹っ飛ばされていく。俺は床にアダマスを突き刺し、飛ばされないよう凌ぐ。
闇の衣がうねうねと不気味に蠢いている。この一瞬で血統魔法を奪った? 幸い、魔力の増加は大したことがないが、俺の記憶が正しければあの【安息套】は――レイジュ領の角折れおじさんことゲルマディオスも使っていたやつで、魔法に対する抵抗力を持つはず。
バサァッ、と翼の音。
「――ガアアアァァァッッッ!」
突風に翻弄されながら砦の前に着地したレイラが、間髪入れずにブレスを放った。ジャッと【安息套】が白熱する、しかし――
「【うるせェな】」
ザラついた声。
「【吹き散れ、トカゲ】」
無数の風の刃がレイラに襲いかかった。光の魔力をまとい、竜のうろこで全て弾き飛ばすレイラだったが。
「【いいよなドラゴンは。生まれつき強靭な身体を持ち、鱗に翼まであってよォ】」
――こいつ! アンテ!
「『【【収奪を禁忌とす!!】】』」
禁忌の魔法が波動となって打ち寄せる、しかし闇の衣に、蛇のように魔力が絡みつき、呪詛が上滑りしていく――
「【献上せよ】」
「【……いやです!】」
レイラは全力で魔力を振り絞り抵抗を試みたが、不意にザラァッと砂の城のように崩れ落ちた。
「あぐっ」
なぜか人の姿になったレイラが、びたんと地面に叩きつけられる。
「え……うそ……」
愕然。自分の、人の手を見て呆然とするレイラ。そしてレイラから引き剥がされた魔力が、白銀にきらきらと輝く燐光が、闇の衣に吸い込まれていく――
「【クク。クハハッ。ハハハハハハッ!!】」
闇の衣から、狂ったように笑いながらエメルギアスが顔を出す。
いや――鎌首を、もたげた。
首が、長い。そして鱗のようだった痣が、本物の鱗と化している。さらに側頭部の角だけではなく、額にまで捻じくれた角が生えていた。チロチロと先の割れた舌を伸ばしながら、エメルギアスは笑う――その表情は、正気のものとは思えなかった。
「【アア――全てが妬ましい。みんなみんな恵まれてやがる。ならば、オレはもっと恵まれるべきだ! オレより恵まれたヤツは、存在するべきじゃないィィ!】」
戯言を喚き散らしながら、闇の衣が形を変えていく。まるで翼のように。そして露になった身体からは、魔力の長大な尻尾が伸び、とぐろを巻いていた。
蛇――いや、もはやドラゴンに近い。
魔族ですらない異形の怪物に、エメルギアスは成り果てていた。
しかしこの魔力――なんだ? 強大なのは確かだが、輪郭が曖昧だ。変わったのは容姿だけじゃない、存在感というか、このあり方は――
『悪魔のそれじゃの』
アンテが、どこか哀れむように言った。
『権能を歪めすぎたか、あるいは魂が擦り切れたか。器として完全に使い物にならなくなったようじゃの。見よ、どれだけ魔力を奪っても、得た先から漏れ出しておる。もう保持しておくことができんのじゃ』
今のエメルギアスは強烈な魔力の波動を放っているが、これは威圧しているというより、単に発散しているだけなのか――
『契約者をなくした悪魔のようなものじゃ。しかし悪魔でもなければ、魔族でもない中途半端な怪物。これが悪魔なら、数日で枯れ果て消滅するんじゃろうが……』
ズオオッ、と巨大な獣が息を吸い込むように、エメルギアスが周囲の壁材から魔力を奪い取った。砦を構築するコルヴト族の【石操呪】が効力を失い、ボロボロと風化していく。エメルギアスの存在感が再び膨れ上がるも、魔力のあり方がさらに不安定なものと化していく――
そして、怪物は、俺を忌々しげに睨んだ。
「【妬ましい……なぜオマエは特別なんだ!? オマエは、オレが欲しいものを全部持ってやがる! 許せねェ……許せねェ! オレのものにしてやる! オレのだ! オレのなんだァァァ――!!】」
バサァと翼を広げたエメルギアスは。
「【アアァアァァァァァッッッ!!】」
絶叫しながら、俺に突っ込んでくる。
あの翼、見掛け倒しじゃなくて本当に飛べんのか。滅茶苦茶速いが、動きは直線的でわかりやすい。アダマスで槍を弾き、突進の勢いを受け流すように倒れ込みながらエメルギアスの胴体を蹴り上げた。
「【グゥぉッ】」
吹っ飛んで天井に叩きつけられるエメルギアス、キッとこちらを睨むが、このタイミングで尻尾だろう? そうだと思ったよ。
転がって回避し、ついでに剣を払って尻尾の先を斬り飛ばす。
「【グガアアァァッ!】」
図体がデカくなった分、斬れる部分も増えたな。
「ふはは……っ」
俺は笑う。愉快で愉快でたまらなかった。
「【……ナニがおかしい!?】」
槍を突き込みながら、エメルギアスが叫ぶ。
「いやなに、ようやくまともに打ち合えると思ってな」
アダマスで槍をいなしながら、軽口のように答えた。
こいつ、自分から不意打ちを仕掛けてきたくせに、さっきまで逃げの姿勢ばかりで話にならなかったんだよ。
だけどようやく、やる気を出しやがった。
「部下の魔力を奪い、側近の魔法を奪い、竜の鱗と翼まで奪って、ようやく正面から戦う気になったか?」
俺は眼前、異形と化したエメルギアスを鼻で笑った。
みんな恵まれてる? 贅沢言ってんじゃねえ。生まれついての魔力、地位、悪魔との契約まであったじゃねえか。
俺が前世で、魔力がなくてどれだけ苦労したと思ってやがる。今のお前も、魔力で言えば大したもんだが……前世で魔王を相手取ったときの絶望感に比べりゃ、鼻クソみてえなもんだ。
こうしてかかってきてくれるのは、心底ありがたいよ。翼を得た現状、俺の情報を持って逃げられるのが一番困るからな。
「どれだけ着飾ろうと、どれだけ魔力を得ようと」
ガィンッ、と槍を弾きながら、俺は嘲笑った。
「――お前の性根は変わりゃしねえのさ」
挑発。せいぜい殺意を滾らせてくれ。
「【……黙れェェェェッッ!!】」
激昂したエメルギアスが目にも留まらぬ速さで槍を突き込んできたが、ギリギリでかわしてアダマスを叩き込む。バリィッと腕の鱗が何枚か剥ぎ取られ、青い血が飛び散った。
「【クソがアァァァァッッ!】」
もはや痛みなど感じないかのように、ただただ怒り狂いながらエメルギアスは槍を振るう。
同時に、邪悪な魔力が絡みついてきた。
「『【【収奪を禁忌とす!】】』」
もはやほぼ意味をなさないが、禁忌の魔法を使いつつ抵抗。エメルギアスの強烈な嫉妬の対象になっているだけあって、完璧には抗しきれず、ほんの少し――薄皮1枚剥がされるように魔力を奪い取られた。
が、奪った先から発散してるので、彼我の差はそれほど開いていない。
どちらが先に枯れ果てるか――枯れる前に相手を殺し切るか。
その勝負だ。
「【ウオオオォォォ――ッッ!!】」
とはいえ、常に呪力を放ってくる上、尻尾や翼による奇襲、さらに馬鹿力が相まって気が抜けない。
味方も敵もほぼ全滅した以上、俺は全身全霊でエメルギアスの動きに集中する。
――こいつが本当に欲していたのは、きっと力じゃねえんだろうな。
哀れな化け物と斬り結びながら、俺はそんなことを感じた。
「性根は変わらない」と挑発したが、たぶんその通りなんだ。こいつに必要なのは、魔力じゃなくて、もっと違う精神性――気骨みたいなモノだったんだろう。
どれだけ鍛えても、魔力を奪っても、戦功をあげても、こいつの精神性は変わらなかった。これまでも、そしてこれからも。本当に欲しいものは、どんなに手を伸ばしても決して手に入らないんだ――
だけど、それは俺も同じ。
今の俺は力を求めているが、それは魔王を倒すためだ。俺が本当に求めているのは人族が安心して暮らせる世界で、もっと言えば――
――平和な村の風景。おやじ。おふくろ。笑顔で手を振るクレア。
「俺が恵まれてるだと?」
ふざけんじゃねえぞ。
「テメェが全てを奪ったんだろうがァァァッッ!!」
こいつだけはブチ殺す。
俺の想いに応えるように、アダマスが打ち震え――
エメルギアスの槍を退けながら、鱗に覆われた腕を切り裂いた。
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