284.鎌首をもたげる
――ところ変わって、魔王城。
ツカツカと足早に回廊を行く、緑のドレスに身を包んだ女魔族。
ネフラディア=イザニス。
苛立たしげに、ノックもせず、とある部屋の扉をバンと乱暴に開いた。
「おや、母上。いかがなさいました」
飄々と声をかけてきたのは、ひとり息子のエメルギアスだ。
「アナタねえ……!」
顔をひきつらせるネフラディア。
なぜならエメルギアスはボン=デージ・スタイルの上に骨の複合鎧をまとい、今にも戦場に出そうな格好をしていたからだ。
「やめなさい! 何を考えているの!」
「何、とは? ただ狩りに出かけるだけですが」
そらとぼけるエメルギアス。胸ぐらを掴みかねない剣幕のネフラディアとは、まるで対照的な態度だった。
「…………」
しばし、睨み合う。
いつも不貞腐れて卑屈だった息子が、このときばかりは全く動じず、真正面から目を見返してきた。
――息子が再び魔界に赴いたことは知っていた。
何かしら『力』を得たらしいということも聞いていた。
だがネフラディアは、それほど気を払っていなかった。息子のことは見限っていたし、これまで似たようなことを言っては、自分の気を引こうとしていたこともあったからだ。今さら『強くなる』といっても、どのみちタカが知れている、と思っていたこともある。
だから帰還後、顔を合わせるのはこれが初めてだったが……
――どうしたことだ、これは。
息子の身体の節々に鱗のような痣が浮かび上がり、蛇のような縦長の瞳孔が、酷薄にこちらを見据えていた。
何よりも、その魔力。
息子はこれほどまでに――大きかったか?
「そういうわけで、オレは失礼しますよ」
固まるネフラディアを一瞥し、さっさと出ていこうとするエメルギアス。ハッと我に返ったネフラディアは、「待ちなさい!」とその手首を掴んだ。
「なんですか母上」
エメルギアスは鬱陶しげに振り向く。
「アナタ、いったいどれだけ一族に迷惑をかけたら気が済むの!」
先ほど、ネフラディア子飼いの部下が伝声呪を送ってきた。息子が、ジルバギアスの砦に殴り込みをかけるつもりらしい、と。
背景にはジルバギアスが研究している可能性が高い、高速通信技術があるようだ。それが事実ならば、確かに、イザニス族にとって脅威ではある。しかし確定情報でもないのに、いきなり武力行使は軽率すぎる!
「一族を思ってこそですよ」
叱責しているのはネフラディアのはずなのに、幼子に言い聞かせるような口調で、エメルギアスは言う。言葉の節々に滲む、嘲笑うような響き。
「オレは、側仕えとともに狩りに出かけるだけ。母上は何もご存じなかった。それでいいではないですか」
「そんな言い訳が通るものですか! これ以上、第1魔王子や第7魔王子との関係が悪化すれば――」
「おや、そんなことをお気になさるとは」
エメルギアスが、唇をめくりあげて笑う。
「他氏族の顔色を窺うのが、随分とお上手になったようで」
その言い草に、ネフラディアの視界がカッと赤く染まった。
「――誰のせいだと思っている!!」
考えるより先に、バチンッとその頬を
「誰が好き好んで、ヴェルナス族なんかに頭を垂れるものですか!! しかし一度は傘下に加わった以上、氏族同士の取り決めは遵守しなければならない! アナタの軽挙に振り回される、こっちの身にもなりなさいッ! 元はと言えば、アナタが使い物にならなかったせいよ!」
「――そう、オレのせいだ」
エメルギアスは、地の底から響くような声で、認めた。
「全てはオレのせい。オレが無力で、どうしようもなく、魔王の器ではなかったのが原因だ。だからこそ、オレが清算する。清算しなければならない――」
まるで呪文を唱えるように語る息子に、ネフラディアは得体の知れない、不気味なモノを感じ取る。
「アナタ……何を……」
「それほど強い息子がお望みだったのであれば、母上」
ずい、と息子が不意に距離を詰めた。
「母上にも協力していただきましょうか」
肩を掴まれる。剥き出しの肌に、化け物じみた鋭い爪が食い込み――
「【献上せよ】」
身構える暇もなく、全身が燃えるように熱くなった。
「ああ……ッ?」
だがそれも一瞬のこと、力が抜けて、残されたのは――寒さだ。
ゾッとするほど、世界が冷たく感じられた。
本来の『寒さ』が熱の欠如とするならば、この感覚は、力の欠如。
「な……あ……!?」
愕然とする。信じられないほど己が薄っぺらくなっていた。大公妃の魔力が、ごっそりとなくなっていた……!
「これはいい」
対する眼前の息子は――圧倒的。一回りも二回りも、存在が大きくなっている。
「ありがたい、母上。血は争えませんね、実によく馴染みますよ」
「かっ……返しなさい!! わたしの力! なんてことを……ッ!」
すがりつくネフラディアを、しかし息子は浮浪者か何かのように振り払った。
「よいではないですか。念願の『強い』息子ですよ。あなたの子だ」
ぎらぎらと目を輝かせて、エメルギアスは笑う。
「これで、他の連中からも奪いやすくなった。実にありがたい……」
「そんな……そんな手段で強くなっても、認められるものですか……!!」
「認める? オレは認可なんて求めてない。歯向かう奴から、ことごとく奪ってやるのみですよ」
歯を剥き出しにして唸るように言うエメルギアスだったが、ふと天井を見やって、
「ただ……父上は別格だ。父上がご存命のうちは大人しくしておかねば。まあそんなわけで、母上にもご理解いただけたでしょう。今のオレは、謹慎なんて怖くも何ともないんですよ。戦場に出ずとも、力はいくらでも稼げますから」
「……だけど、それはアナタの力じゃない。わたしのモノよ!」
ネフラディアは、腰に吊り下げていた携行状態の魔法の槍を引き抜いた。そして、いつでも展開できるようにして自らの首に当てる。
「無駄なことはやめて今すぐ返しない――さもなくばこの命を断つ!」
ネフラディアは知っていた。息子の権能は、対象から力を奪い取ることができる。しかしそれは一時的なモノに過ぎず、対象が死亡すれば奪った力も消えてしまう。
だから、中途半端なのだ。奪うというより『借りる』に近い。そんな不完全な権能で魔王になれるほどこの国は甘くない。力が奪われた犠牲者を殺して回れば、エメルギアスも勝手に弱体化するのだから。
「――どうぞ? ご勝手に」
しかし、エメルギアスは鼻で笑った。
「そうそう、言い忘れておりましたが。魔界で権能に磨きがかかりましてね……」
エメルギアスは、ネフラディアの顔を上から覗き込む。
「――対象が死んでも、力が消えなくなったんですよ」
ネフラディアは、絶句した。あの致命的な欠点を克服したというのか。
「う……嘘よ」
「では、試してみてはいかがですか?」
エメルギアスは余裕を崩さない。その瞳に浮かぶ、ある種の愉悦の色は、息子の言がハッタリなどではなく、真実なのだと雄弁に物語っていた。
「それでは……それでは、本当に……」
強力極まりない能力の持ち主になったことになる。
曲がりなりにも大公妃であったネフラディアから、こうも容易く力を奪い取れたのだ。部屋にこもっている間に力を増大させ、侯爵級を超えつつあった息子に、さらにネフラディアの魔力が加算された現状。
魔王以外に、エメルギアスの格上と呼べる存在は、数えるほどしか存在しない。
その『格上』――アイオギアスやルビーフィアでさえも、今後エメルギアスが魔力を肥大化させていけば、あっという間に――
「…………」
だが、引き換えに、ネフラディア自身は角が生えたての子どものような、弱々しい魔力になってしまった。
「覇王の器を持つ息子がほしいと、あれほど仰っていたではないですか」
床にへたり込み、力なくうつむく母を、エメルギアスは高みから見下ろす。
「――喜んでくださいよ」
ネフラディアは、答えない。
いや、答えられない。弱体化したところ、エメルギアスの強烈な魔力にあてられ、呼吸すらままならなくなってきた。
フン、と鼻を鳴らしたエメルギアスは、そのまま部屋を出ていく。
『――いい気味ねぇ』
聞き慣れない、ざらついた女の声。
ネフラディアはどうにか顔を上げるも、声の主は見えず。
ただ、遠ざかっていくエメルギアスの後ろ姿に――
とぐろを巻く蛇のような、毒々しい魔力が蜃気楼のように揺らめいていた。
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