280.藪をつついて
「プッ、そんなこと言ってたんだ」
エヴァロティ王城図書室にてヤヴカの件を話すと、クレアは吹き出し、ころころと笑った。
初めて見る表情だ。今でも新しい表情を追加したりしてるんだな……
ひとりでエヴァロティにいて暇すぎるのか。それとも、自治区民になりすますため擬態に磨きをかけているのか……
「あの女、あたしに言われて嫌々行ったくせに」
今度は意地悪くニタニタと笑うクレア。
「そうなのか?」
エンマを経由した日刊エヴァロティの報告で、マンティコア襲撃をいち早く察知したのがクレアだということは聞いている。暇潰しにそのへんの霊魂を引っこ抜いていて、たまたまライアン村の犠牲者を引き当てたらしい……
『つくづくロクでもない暇潰しじゃの……』
それは言わない約束だ。
「役人や魔族の皆様に報告がてら、あの女にも鉢合わせしたから、ついでに教えてあげたの」
クレアはとくとくと語る。
「『あらまあ』くらいのノリで、まるで他人事だったから、『今向かえば間に合うかもしれないのに、何もしないなんて怠け者ね。殿下が知ったら何と仰るか』と煽ってやったら、泡を食って飛んでいったわ。あれは見ものだったわね」
……自主的に動いたわけじゃなかったのか。ヤヴカの『らしくない』決断が腑に落ちたのと同時、クレアにしては珍しいな、とも思った。
クレアはアンデッド。当然ながら吸血鬼たちとは仲が悪い。エンマがクレアボディで悪態をついたせいで、ヤヴカとの関係も最悪だ。
そして、それほど好戦的ではないクレアは、ヤヴカをはじめとした吸血鬼たちとは交流そのものを避けているフシがある。
なのに、わざわざヤヴカに声をかけたのか?
今回に限って?
そんなふうに脅されたら、ヤヴカは衛兵隊を助けに行かざるを得ないだろう。それがわからないほどクレアの頭が回らないとは思えない。『
「吸血鬼たちの存在がバレたらもっと面白いことになるかな、って思ったんだけど。案外すんなり受け入れられちゃって、興醒めね」
俺の胸の内を読んだかのように、クレアは白々しくため息をついた。
……本当かな? それをわかった上で、ヤヴカたちをけしかけたんじゃないのか?
「おいおい、ただでさえ魔獣のせいでゴタついてるんだ。いたずらに情勢を引っ掻き回すのはよしてくれよ」
だが、俺はその件には触れず、苦笑してみせた。
追求するような真似は、しないよ。クレアの考えがわからないからこそ、もしも俺の願望通りだったときに、彼女を困らせたくはない。下手に藪をつついて蛇を出したくはない……
結果として、衛兵隊の犠牲は最小限に抑えられた。クレアの行動によって。
それでいい、今はそれで……。
「まあ、こればかりは吸血種たちの努力の賜物だな。衛兵隊の業務に、吸血種たちが正式に絡むようになるかもしれないそうだ」
「ちぇっ。つまんないのー」
いかにも退屈そうな顔で、両手で頬杖を突き唇を尖らせるクレア。そうは言いつつ口元が笑っているようにも見えた。
アンデッドは、意識しなければ表情が出力されることはない。だから彼女が笑って見えるのは、俺の錯覚だ。
でも――そう見えたんだ。
クレアはたしかに、笑っていた。
†††
魔王城、居住区。
イザニス族のエリアは、魔王城の東側に位置している。
人族をはじめとした昼行性の種族には、東向きの立地の方が好まれがちだ。しかし夜行性の魔族には、眩しい朝日の入ってくる東窓はあまり人気がない。
そんな人気のない東向きのエリアが割り当てられている。イザニス族の、上位氏族内での立ち位置が端的に示されていた。
夜明けが近づき、白みゆく空がよく見える回廊を、召使いを連れて歩く魔族の女がひとり。
ヒスィディア=イザニス。
居住区の片隅の部屋の扉を叩く。
「若……お食事をお持ちしました」
「ご苦労」
くぐもった声が聞こえて、扉を開けば。
ぐわん、と視界が歪んで感じられるほどの、強烈な魔力の波動が押し寄せる。
食事を載せたワゴンを押していた夜エルフのメイドが、歯を食いしばって必死に耐えていた。ヒスィズィアも防護の呪文で、全身に蛇が這いずり回るような怖気をどうにかやり過ごす。
「すまんな。まだ抑えがきかない」
カーテンを締め切った薄暗い部屋で、寝台に寝転がり読書していたエメルギアスがパタンと本を閉じる。
――その顔に浮かび上がる蛇の鱗のような痣。縦長の瞳孔も相変わらずだ。
魔界から帰還して以来、エメルギアスは『体調不良』を口実に、魔王との食事会やアイオギアス派閥の会合なども全て欠席している。魔王子でありながら体調を崩すとは惰弱の極み、などと他氏族からは笑わられているようだが、それは表向きの理由にすぎず、今のイザニス族にエメルギアスを馬鹿にするものはひとりもいない。
(また……強まってらっしゃる)
エメルギアスの放つ魔力に、半ば圧倒されながら、ヒスィズィアは胸を熱くした。以前までの、切羽詰まった余裕のない顔つきとは打って変わって、ゆったりと体を横たえるエメルギアスの表情は、穏やかでさえあった。
それでいて、禍々しいまでの力。
公爵……いや、もはや大公級と言ってもいいだろう。悪魔の権能を限界まで受け入れた結果、爆発的に魔力が成長し続けている。
魔界から戻ってきた直後は、周囲の悪魔や魔族の力を吸い取り、いつものドラゴンさえ身体の力が抜けて飛べなくなってしまったほどだ。
未だに、気を抜けば権能が暴走してしまうらしく、制御可能になるまで、あるいは対外的にもう少し力を
「何か変わったことは?」
寝台から、しゅるりと身を起こしながら、エメルギアスが軽い口調で問う。
「はっ。エヴァロティの人員より、少々気になる報告が」
ヒスィズィアは答えた。
――ぶわっ、とこちらを見据えるエメルギアスの瞳孔が、丸く拡大する。
「先日、自治区内の村がマンティコアに襲撃されたらしく――」
精一杯に背筋を伸ばしながら、ヒスィズィアは読み上げた。エヴァロティの連絡員から寄せられた、魔王子ジルバギアスの不可解な行動についての報告を――。
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