277.夜闇に駆ける
エヴァロティ市街地から飛び立つ、黒々とした霧の塊がみっつ。
それらは市壁を越え、平野に降り立って人の姿を取り、ズンと勢いよく踏み込んで加速する。
ドレスやマントをはためかせながら、人影は宙を舞い――ザラァッと霧化。
まるでつむじ風のように空を駆け、勢いが弱まればまた人の姿を取り、地を蹴っては加速を繰り返す。
夜闇に紛れて、まるでコウモリの群れが飛んでいるかのようだった。吸血種特有の高速移動――
「マンティコアとは、また間が悪いことですな」
針金のように痩せこけたちょび髭の紳士、アーヴ準男爵が地を蹴りながら唸るようにして言う。
「せめてあと数日遅ければ、ライアン村にも何名か潜んでいたでしょうに……」
くるくると金色のステッキを回しながら嘆息する。有無を言わさずヤヴカに連れ出され、こうして移動中に詳しい事情を聞かされていたのだった。
「さて、それはどうかなアーヴ卿」
おどけて、まるで茶化すように口を開いたのは、もうひとりの吸血種、ぽっちゃり体型のマヴィル男爵だ。
「我らも含め、上位の者は寒村行きなんて御免だったろう? どうせ立場の弱い若手が派遣されていたさ、そしてマンティコアは彼らの手には余る」
典型的なナシ型の体型で、張り出した腹肉のせいで貴族服もパツパツ、顔も吸血種と思えぬ血色の良さで赤子のように丸々としているマヴィル男爵だったが、その加速力は眼を見張るものがあり、滑空する時間が3名の中で最も長い。
こうして移動しながらも、ヤヴカやアーヴ準男爵を気遣ってペースを落としている気配すらあった。自信満々な態度、そしてヤヴカに勝るとも劣らぬ魔力――実力者であることが窺い知れる。
「確かに、騎士級にも満たぬ者たちでは、厳しかったかもしれませんわね」
ヤヴカもまた、宙を駆けながら渋い顔で首肯した。
「それでも、
「致し方ありますまい」
「それも込みでの『間の悪さ』ということで」
歯噛みするヤヴカを気遣って、アーヴとマヴィルは慰めとも気休めとも知れぬ言葉をかける。
「それに、ここからでも被害を最小限に抑えられれば、殿下より褒美があるかもしれませんぞ!」
じゅる、と口元を拭いながらアーヴ。
「まさに。あの極上の美味が再び!!」
丸顔に恍惚とした笑みを浮かべるマヴィル。
ふたりとも、ジルバギアスの血の味は知っている。そして、その至上の味わいに心奪われた哀れな被害者でもあった。
「……間に合えばいいのですけれども」
だがヤヴカはふたりほど楽観的ではなく、険しい顔で進行方向を見つめている。
現時点で、ヤヴカにとって最善の結末は、衛兵隊が到着する前にライアン村のマンティコアを撃退・討伐することだ。
どうせ生き残りはほとんどいまい。吸血種の存在を気取られることなく、衛兵隊が無駄な死者を出す前に片付けてしまうのがベスト。
だが、こうして高速で走り続けていても。足跡と、人の汗の匂い、獣人たちの体臭をたどり続けていても、一向に衛兵隊が見えてこない。
――いや。
「見えましたな……」
むむ、とアーヴが唇を引き結んだ。
視界の果てにライアン村。月明かりの下、家屋が火の手を上げて、煌々と照らし出されていた。グオォォ――ッと遠く、獣の咆哮も響く。耳を澄ませば、わぁぁと鬨の声も聴こえてきた。
「一足遅かったか……」
マヴィルもまた、顔を曇らせた。
衛兵隊はもう到着しており、交戦中だったのだ!
「なぜもっと早く……ッ」
教えてくれなかったのか、と毒づこうとして、その馬鹿馬鹿しさにヤヴカは口をつぐんだ。これこそまさに、あの腐れ人形の思惑通りなのだろう。ヤヴカたちがどうあがいても衛兵隊の先を越せないよう、ギリギリまで遅延させて情報を渡してきたに違いない……!
(畜生!! 畜生ですわ!!)
部下たちの手前どうにか飲み込んだが、夜空に罵倒のひとつやふたつ叫びたい気分だった。
遠巻きに見守っていても仕方がないので、さらに村に接近。簡素な堀と土壁を超えると、そこには――
「【
――驚くべき光景が広がっていた。
村の真ん中の広場で整然と隊列を組み、盾を掲げた人族の衛兵たちが、銀色の光に包まれている。
「グオオオォォァァァ――ッ!!」
その眼前には、身の毛がよだつような恐ろしい咆哮とともに、爪を振り上げるマンティコア。家屋がそのまま動いているのかと見紛うばかりの巨体、その突進を受ければひとたまりもない、はずだが……
「踏ん張れ――ッ! 【光の神々よ我らを護り給え!】」
「「【護り給え!!】」」
バチィッと銀色の閃光が弾け、盾の壁がマンティコアの爪を受け止める。盾がひしゃげ、悲鳴じみた絶叫も聴こえてくるが、それでも隊列は――崩れない。持ちこたえている……!
「あれは……!?」
「聖属性……!!」
アーヴとマヴィルがそろって顔をひきつらせ、盛大に仰け反った。あの危険な輝きは――吸血種の天敵そのものだ!
ヤヴカもまた、目を見開いていたが、隊列の後方で剣を掲げる法衣を身にまとった人物に気づく。
「【
ジャッ、と空気の灼ける音を立てて、光の矢がマンティコアの顔に直撃。
「神官ですわね……」
遠目だが、あの顔には見覚えがある。たしかシンマイだかマイシンだか……そんな名前で、自治区の監視対象のひとり。聖教会の生き残りだったはず。
色々と合点がいった。衛兵隊が懲りずに出撃したのは、今回は神官が同行していて聖魔法の援護が期待できたからか。
「姫様、いかがします?」
くるくるとステッキを弄びながら、アーヴが尋ねてきた。
「そうね……」
何の魔法的な援護もない、惰弱な人族と獣人族の集団ならば蹂躙されること必至だったが――こうしてみると、案外持ちこたえているようにも見える。
加護を受けた人族の盾兵がマンティコアを引きつけ、同じく神官に強化された獣人兵が四方八方からマンティコアに一撃離脱を仕掛けている。同盟軍の教本通りの戦法と言っていい。
あれなら、マンティコアさえ倒せてしまうか……? ならば、わざわざ自分たちが姿を晒す必要は……
「ゴガァァァァッ!」
しかし、マンティコアが苛立たしげに吼えて、そんな甘い考えは打ち消された。
ぐるりとその場で回転し、崩れかけた家屋を薙ぎ払うマンティコア。飛び散る木片に獣人兵の何人かが吹き飛ばされ、人族の隊列にもバラバラと瓦礫が降りかかる。
「ぎゃぁあぁ!」
「クソおおッ!」
「怯むなぁァ!」
それでも踏ん張る隊列だったが、さらにマンティコアが再突進。爪で薙ぎ払うのではなく、胴で押し潰すような一撃。かろうじて、全員が盾を掲げて必死で支えているが、聖属性の輝きがみるみる失われていく――聖属性の力を得た人族たちの耐久力は目を見張るものがあったが、魔獣相手には決定打が足りない。
「…………」
ヤヴカたちは顔を見合わせた。「このままだと駄目っぽいな」と全員の目が口ほどに語っていた。
「――自治区の始動から、はや数ヶ月」
半ば諦めたような口調で、ヤヴカは言った。
「殿下のお心遣いと、わたくしたちの自制の甲斐あって、吸血による死人はひとりとして出ていませんわ。ここで恩を売れば、自治区民もわたくしたちの存在を頭ごなしに拒絶はできないでしょう」
屋根の上に身を潜めていたヤヴカは、立ち上がる。火災で吹き上がる熱波にドレスがはためく――
本音を言えば、自分たちを灰に還しかねない、聖属性を身にまとった連中になんて近寄りたくもなかったが。
「――行きますわよ、ふたりとも。彼らを援護します」
「承知」
「それでは、お先に失礼!」
言うが早いか、マヴィル男爵が目にも留まらぬ速さで飛び出した。
「ヒョーーーーッ!!」
奇声を発しながら腹の贅肉を揺らし、まるでボールが弾むように、マンティコアの顔面に両足を揃えた蹴りを叩き込む。
「グォァッ!?」
バシィンッと凄まじい衝撃に横面をはたかれ、驚愕の叫びを上げるマンティコア。
そこへ今度はアーヴ準男爵が迫る。全身からどす黒い血が噴き上がり、ステッキにまとわりついて――ステッキを柄とした、身の丈をも超える血の大剣を作り出す。
「ダンスはお好きかな?」
くるくると空中で回転し、マンティコアの背中の翼に華麗な斬撃を見舞うアーヴ準男爵。片翼が一撃で切り飛ばされ、激痛に身をよじるマンティコアは、まさしくその言葉通り無様な舞を舞うかのようだった。
「誰だ!?」
「いったい何が……!?」
突然の闖入者と、悲痛な鳴き声を上げて悶え苦しむマンティコアに、困惑する衛兵たち。
だが終わらない。
ドレスをはためかせる、ヤヴカが。
がら空きになったマンティコアの胴体に、右手を閃かせる。
指先の赤黒い血の爪が、深々とマンティコアの腹部を抉った。ビリィィッとキャンバスが引き裂かれるような音を立て、獅子の身体に5本の赤い線が走る。
「グオァァァァッ!」
噴き出す返り血に、ヤヴカの全身が赤く染まった。豪奢なドレスが血で汚れるも、しかしヤヴカは気にするふうもない。
それもそのはず、全身に浴びた血がうごめいて、ひとりでに右手へと集まっていくではないか。
マンティコアの血は、細く鋭く束ねられ――
その手の中で細剣を形作った。
れろ……と血の刃に舌を這わせるヤヴカ。
「まあまあですわね」
ほころぶ口元。赤い唇から鋭い牙がのぞく。
「吸血鬼……!?」
隊列の後方、神官のマイシンが驚愕とともにつぶやき――
「あああああッ!?」
野太い男の叫びが響いた。
隊列のど真ん中で、銀色に輝く男が目を丸くしている。
「お前! 夢に出てきた美酒の精!!!!」
男――タフマンがビシィッと指差すと、勢いのあまり、銀色の光の欠片がパラパラと飛び散った。
そして、うちいくつかがヤヴカに降り掛かった。
ジュッ。
「
くわっと目を剥いて叫ぶヤヴカ。
「グルウウウオアアアァァ――ッッ!!」
そこへ激昂したマンティコアの爪が叩きつけられた。
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