274.馴染みの彼
人口が増えたこともあり、とっぷりと日の暮れたエヴァロティは活気づいていた。
家々からは灯りが漏れ、食事の音や歓談の声が響いてくる。すぅ、とクレアは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。どこか懐かしい夕餉の匂いを、存在しない嗅覚で感じ取った気がした――
そもそも、呼吸の必要すらないというのに。クレアに備わっている肺は、単に声帯を鳴らすための空気袋に過ぎなかった。
「…………」
大通りを歩いて、いつもの酒場を訪れる。
ホブゴブリン亭。そういえば財布はちゃんと持ってきたっけ、などと確認しながら、扉を開けた。
「よう、お嬢ちゃん」
そしていつも通りに、あの陽気な男の姿があった。
「こんばんは。今日はえらくご機嫌じゃない」
クレアは愛想よく笑って答える。
――この、タフマンという名の酔っぱらいのことは、嫌いではなかった。
明るい笑顔が、今は亡き、遠い昔の父の姿に重なるからだ。
今となっては、ハッキリと思い出すこともできない。それでも、確かに似ていると感じていた。彼と話していると、無性に懐かしい気持ちになるのだ。自分が
タフマンが、他の客とは違って自分に色目を使うでもなく、まるで親戚の子どもに接するような態度を一貫していることもあるが。
彼のくだらない、他愛のない世間話に耳を傾けている間は、この作り物の体にも、体温が戻ってくるような気がするのだ……。
「ははは、めでたい日だからな。いつもおごってもらってばかりだけど、今日は俺におごらせてくれよ、お嬢ちゃん」
おーい、とウェイターを呼んだタフマンが、飲み物と、クレアの好物(という設定の)激辛料理を頼む。
「え? なんでまた急に」
――食べるフリをしても無駄になるだけなのに。
「いや、だって、今日はライアン村の本格始動の日だからよ! みなでお祝いしようと思ってさ」
文字通り、クレアの呼吸が止まった。
何も答えられなかった。冷水を浴びせられたような心地だった。屈託のない、何も知らないタフマンの笑顔。
「そんな……。悪いわよ」
ぼそぼそと答える。言えるはずもない。もうすでに、壊滅しているなんて……
「はっはっは、遠慮しなくていいって。今日は珍しく、衛兵隊の仲間も来る予定なんだ。みんな気のいい奴らだから、よかったら一緒に――」
ドタドタドタ、と外から足音が聞こえる。
「おっ、噂をすれば」
「タフマン! いるか?!」
バンッと酒場の扉がけたたましい音を立て、息を荒げた黒毛の犬獣人が顔を出す。
「……どうしたドーベル」
「魔獣だ。ライアン村が襲われた」
ざわっ、と酒場の客たちがどよめく。タフマンの表情が一瞬で引き締まる。
「今しがた、ゴンデンの坊主が駆け込んできた。バカでかい魔獣に襲われたらしい、グシヌスの野郎がどうにか引きつけてる間に、救援を呼ぶためにひとりだけ逃がされたんだと」
「――またアスラベアか?」
スクッと立ち上がるタフマン。
「わからない。とにかくデカいとしか……坊主も走り通しで、言うことを言うなり気絶してしまった」
「わかった、すぐに行こう。幸い1杯しか呑んでねえ」
思い出したように盃を置き、タフマンは唸るようにして言った。
「次は負けねえ……」
ギリギリと手を握りしめ、そのままクレアには目もくれず出ていこうとする。
「待っ――」
思わず、その背中に手を伸ばすクレア。
――アスラベア? とんでもない、村を襲ったのはマンティコアだ。ただの人族が何人束になろうと敵う相手ではない。どうせ今ごろ全滅しているはず、助けに向かっても意味はない、無駄死にするだけ――
……などと、言えるはずもなく。
「悪いな、お嬢ちゃん。お祝いって感じじゃなくなっちまった。帰ってきたら改めて呑み直そう」
少し振り返り、ニッと笑みを浮かべてみせたタフマンは、「支払いはこれで」とウェイターに財布を丸ごと押し付けて、慌ただしく出ていってしまった。
「気をつけて、ね……」
クレアはぎこちなく笑みを浮かべ、それを見送ることしかできなかった。
静まり返っていた客たちが、ボソボソと心配そうに会話を再開する。
「あの……お待たせしました」
いつまでも立ち尽くすクレアのもとに、ウェイトレスが料理を運んできた。
クレアの大好物とされる、激辛料理。タフマンのおごり――
できたてで立ち昇る湯気が、ただただ虚しかった。
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