269.王者の景色


「――で、自治区民の様子はどうだ?」


 エヴァロティ王城の図書室。カーテンを締め切った薄暗い空間で、俺はクレアの手を握り、魔力を補給してあげながら尋ねた。


「特別、普段と変わった様子はないわね」


 しかしクレアの返事はそっけない。


「相変わらず、楽しく生きてるわよ」


 いや……そっけないというより、皮肉げだった。


「最近、人族が妙におとなしいと聞くが」

「あら王子さま、人族なんかを警戒しているの?」


 俺の迂遠な言い回しに、クレアが半ばからかうような、いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「……でもまあ、言われて見れば確かに、人族がおとなしいというか、やけにお行儀よくしている印象はあるかも。理由はわからないけど……」


 ふむ、と記憶をさらうようにクレアは視線をさまよわせた。


「そういえば、あたしがよく話を聞いてる衛兵隊の副長」

「タフマンとかいう野郎か」

「アレもこの間いっしょに呑んだとき、挙動不審というか、よそよそしいというか、そんな感じがしたわ」


 ……実質的な衛兵隊のトップに、異変があった、と。


『よからぬ企みでもあるのかのぅ』


 さすがに時期尚早に過ぎんか、とアンテが心配げな声を出す。


「何かロクでもないことでも企んでるんじゃないでしょうねー」


 そして、クレアもまた同じような懸念を示した。


「そう思うか?」

「うーん。あたし、一応それなりに信用されてると思うんだけどなー。それでも話しづらいことがあるとすれば、あたしが王城勤めなせいでしょうし、ということは魔王国に知られたくないわけで……」


 そこまで言って、クレアはひょいと肩をすくめる。


「とはいえ、連中が何をするにしても、タカが知れてると思うわ」

「まあな。人数的に、何をしでかしたところで、俺たちに大した被害を……いや、影響を及ぼせるとは思えん」


 ぶっちゃけ衛兵隊と元聖教会関係者が全員反旗を翻したところで、王城に隠居しているベテラノス=レイジュ侯爵ひとりで鎮圧可能だろうからな……やっぱり上級戦闘員の欠如は致命的だよ。どうにかならんかな。


 ……いや、仮に不穏な気配を漂わせているとしたら、それらの戦力に何か目処が立ったということか? 剣聖や拳聖に目覚めたやつでもいるのか。はたまた、成人の儀で聖属性に目覚めた子でもいたのか。


『子どもを勇者に仕立て上げるのは、今すぐには無理じゃろ』


 無理だなー。まず剣の握り方から教えないとだし、最低でも、ある程度身体が出来上がらないことには話にならないしな……


「ま、人族も獣人族も、無駄な努力ご苦労さまってとこね」


 どうせ何をやったって滅ぼされるだけなのにね、と退廃的な笑みを浮かべ、クレアは再び肩をすくめた。


「ありがとう、王子さま。これだけあればかなりもつわ」


 そして魔力チャージタイムも終了。俺の体温にまで温められた、本来は冷たい彼女の手が離れる。


「なに、いつものことさ。……引き続き、エヴァロティの監視を頼む。火急の要件があったら、エンマにな」

「はいはーい」


 ひらひらと手を振るクレアに見送られて、俺は図書室をあとにする。


 今回の滞在はこんなもんか。新しく入ってきた捕虜のうち重傷者は治療したし、俺の裁可が必要な要件は片付けたし、報告も全部聞いたし、主だった関係者とも顔は合わせた。


 やり残したことは、特にないな。


 俺はレイラやリリアナと合流し、魔王城に戻る準備を進めた。


「というわけで、ヴィロッサ。留守中を頼んだぞ」

「はい。お気をつけて」


 竜形態に戻ったレイラに、リリアナと一緒にまたがり、王城のテラスに増設された発着場から飛び立つ。



 早朝の空に、レイラの白銀の鱗がキラキラと輝く。



 真夏とはいえ、この時間帯の空はなかなかに冷える。俺は防護の呪文を唱えて風圧を和らげた。


 眼下、エヴァロティ自治区の住民たちも、活動を始めているようだ。モクモクと煙突から立ち昇る細い煙は、パン屋かな。


 人化の魔法を使って紛れ込み、彼らの生活を覗き見てみたいとは常々思ってるんだが、なかなか機会がないんだよな……いかんせん魔王子なので、周囲は闇の輩だらけだし、人化の魔法が使えることは一部の身内にしか明かしてないし……


『――ちょっと残念ですよね――』


 せめて、人々の営みを少しでも長く見せてくれようとしているのか、レイラが街の上空を旋回しながら言った。


 そうだなぁ。せっかくレイラも人化できるわけだし、一緒に街並みを見て回ったりしたいよな……


 ……しかし、そうは思いつつ、実際にできてしまうと、それはそれで物悲しくなってしまうのではないか、という気もしている。



『――セバスやみなが元気にやってた。それがわかっただけで、あたしゃ充分さ』



 バルバラの声が蘇る。今もアウロラ砦でひとり、新たなボディを馴染ませるため、素振りに精を出しているであろう剣聖。


 彼女も何度か、刺突剣の姿でここエヴァロティにつれてきていた。セバスチャンをはじめ、ダ=ローザ男爵家の面々も思ったより生き延びていたようで、彼らが元気にしている姿を少しは見せてあげられた。


 だが……それがわかったところで、バルバラが彼らと話すわけにもいかず。


 魔王国が滅ばない限り顔を合わせることはできず、そして魔王国が滅ぶころには、寿命の関係で彼らは亡くなっている可能性が高い。バルバラはエヴァロティ訪問にはついてこないようになり、ボディの操作訓練に明け暮れるようになった。


 まるで――1日でも早く、魔王国を滅ぼそうとしているかのように。


 俺も気持ちはわかる。そして彼女をアンデッド化して連れ戻したのは、他ならぬ俺自身だ。この件について口を挟む権利はないし、実際、何もできない。



 レイラが、旋回をやめて西へと飛び始める。



 自治区の街並みが後方へ消えていく。一瞬にして街を取り囲む市壁を越え、平野部を越え、建設が完了したという前線基地の上空に差し掛かった。


 基地の周辺で何やら作業していた人々が、こちらを振り仰いで、指差しているのが見える。手でも振ってやろうかと思ったが、魔王子らしくないのでやめた。


 人化して、軍にいたときみたいに、一緒にあれやこれやと作業できたら、どれだけいいだろう……



 ……まあ、そんなことを考えていても仕方がない。前を向こう。



 俺は、もはや原っぱと化しつつある、元デフテロス王国西部の荒れ果てた穀倉地帯を――その果てを見やる。


 何だかんだで、ここまでの経過は順調だ。自治区の運営は問題ないし、思ったよりも魔王国内の反発も少なかったし、エヴァロティ王城の周辺地域では農業も始まっている。


 前線基地という名の小さな村までできた。同時に、衛兵隊による魔獣の討伐も進みつつある。


『――あ。アレク、あっちに大物がいます――』


 そして、俺たちも。


 レイラが俺に注意を促した。エヴァロティからかなり離れ、木々がまばらに生えた平野部に入ったあたりで、デカめの魔獣の姿が目に入った。


 ナイフのように大振りな犬歯が目立つ、虎に似た魔獣だ。


 狩りの最中だったようで、鹿を追いかけ回している。よし、やろう。


『――いきます――』


 レイラが急降下し、クワッと口を開けた。


「――ガアァァッッ!」


 咆哮。白銀の閃光が放たれ、魔獣が全身黒焦げになって倒れ伏す。


 九死に一生を得た鹿は、飛来するレイラの姿に肝を潰しながら、転がるようにしてそのまま逃げていった。


 こんな感じで俺たちも――というかレイラが――魔王城との行き帰りで、脅威度の高い魔獣を見かけるたび間引いていっている。


 イザニス族のクソどもの尻拭いは面倒だが、塵も積もれば何とやら。かなり数を減らせているはずだ。


 うん、順調だな。嘘みたいに平和だ。


 ……今こうしている間も、ダイアギアス率いるギガムント族の軍勢が、アレーナ王国の領土をガリガリ削っていっていることに目を瞑れば。


 平和極まりなかった。


 願わくば、俺の次なる参戦の機会が、早く回ってきますように。



 少しでも早く……一刻でも早く。



 同盟の苦難を、魔王国を、終わらせるために。




          †††




 ――『エヴァロティ自治区』と称される領域の、どこか。


 森の奥をさまよう、巨大な影があった。


 すっかり元通りふさふさになったたてがみと、それとは対照的に、蛇の首が切り落とされたままの尻尾。



 深林の王者、マンティコアだ。



 樹上、木々の隙間から覗く、すっかり明るくなった空に、しかし王者は不機嫌そうな唸り声を発した。



 ――腹が減っていた。



 新しい縄張りで、惨めな敗者を脱し、王者の貫禄を取り戻しつつあるマンティコアだったが、近ごろは狩りで成果が上がらなくなってきたのだ。



 この地に来たばかりのころは、豊富にいたはずの食べごたえのある獲物――アスラベアのような魔獣が、どんどん数を減らしている。



 まるで――



「グォルルル……」



 マンティコアは食いだめが可能で、長期間は何も食べずに過ごせる。



 だが、それは腹が減らないということではない。



 音もなく森の中を進み、自分の数分の1にも満たない小さな鹿を発見したマンティコアは、翼を広げて跳躍し、頭上から襲いかかった。



 一気に、ほとんど一口で、バリバリと貪り食う。



「ガォルル……」



 口の端から鮮血と、臓物を垂らしながら。



 王者は、不満を表明するかのように、再び唸り声を上げて――視線を転じた。



 この縄張りは、もう駄目だ。



 ――新たな領域を探さねば。



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