264.嫉妬の悪魔
青黒い液体が撒き散らされ、ジーリアの上半身をてらてらと濡らす。
かつてエメルギアスだった肉塊が、どちゃ、ばしゃっと地に落ちた。
そして。
「ゥ……あ、ァ……」
――うめいた。
「……あら」
意外そうに目をパチクリさせたジーリアは、それを拾い上げる。
ずりゅっ、と皮膚が剥がれ落ちて、危うく取り落とすところだった。舌を伸ばし、青黒い血を舐め取ってやると、そこには――
「まサか、生き延びるとは思わなかったわ」
魔族特有の青肌ではなく、びっしりと細かい鱗。
エメルギアスの容姿は、変わり果てていた。爬虫類じみて全身を覆う鱗、虚ろに開かれた黒に染まった瞳、縦長の瞳孔。何よりも異常なのは、文字通り骨抜きにされたように、あるいは蛇のように――その体はぐにゃぐにゃになっていた。
「ぁ……ぅー……」
そして視線は定まらず、口の端から青黒い液体を垂れ流す。どう見ても自我に異常をきたしている――。
「あらあら……可哀想に。おバカになっちゃった」
眉をハの字にするジーリアだったが、気を取り直したように微笑む。
「でも、これならずっと一緒にいられるね。可愛がってあげる」
血まみれのエメルギアスの頭を愛しげに撫でながら、再び、獲物を締め上げるように、胴体でがんじがらめにするジーリア。
「う……オレは……どうなった……?」
が、その瞬間、エメルギアスが意識を取り戻した。
「あら」
驚いて拘束を解くと、また、エメルギアスの目から理性が失われ、「ぅー……」とうめき始める。
「…………」
何度か、抱きしめたり離したりを繰り返すジーリア。抱きしめると意識が覚醒し、逆に離すと理性が失われ。
「やめろ……オレで遊ぶな」
やがて抱きしめている間に、エメルギアスがあえぐようにして苦言を呈した。
「意識はあるのね」
「わからねえ……。ジーリアが離れたら、頭がぼんやりするっつーか、馬鹿になったみたいだ……」
「うーん、やっぱり無理があったのよ。魂の器が壊れちゃって、自我が維持できなくなったんだわ」
ジーリアの胴体にぐるぐる巻きにされた状態で、エメルギアスは唯一自由に動かせる首をかしげた。
「じゃあ、なんで今オレは話せてるんだ?」
「私が押さえてあげているからよ。こうやって優しくね」
ぎり……っと胴の締め付けを強くしながら、エメルギアスの髪を撫でてジーリアは艶やかに笑う。
「壊れた器を拾い上げて、割れた面を押さえてくっつけてあげているの。手を離したら、途端にぱかっと割れちゃうわ。きみの自我もあやふやになる……」
「それは……」
エメルギアスは絶句した。
限界以上にジーリアの権能を受け入れて――己の『殻』を破った感覚があった。以前よりも魔力がもっと身近に感じられる。権能が全身に満ちているのがわかる。
だが、その殻は『エメルギアス』を維持するために、必要なものでもあったのだ。今のエメルギアスを構成する要素、あやふやで形がない魔力の塊に、生みの親であるジーリアが手を添えて、支えてやることで、かろうじて元の自我が取り戻される。
「そんな……じゃあ、このまま現世に帰ったら……オレは……」
「精神だけ赤ちゃん状態ね」
くすくすとジーリアが笑った。
「ソもソも、ダークポータルを通っても、帰れるかどうかわからないわよ?」
「……何?」
「だって今のきみ、もう半分くらい悪魔だもの」
あっけらかんと、ジーリアは衝撃の事実を告げた。
「きみ、ひとりで来たでシょ? 向こうで誰かが待っているなら話は別だけど、ソうでもなきゃ――」
「身内がオレを待ってるはずだが……」
「……ふーむ。ソれならたどり着くことはできるかもね」
エメルギアスを背後から抱きしめ、その頭に顎を載せながらジーリアは考え込む。
「……どうシても帰りたい?」
「当たり前だろう……! ……だが、自我がなくなるようでは……」
噛み付くようにして答えるが、エメルギアスの言葉は尻すぼみになる。皮肉なことに、こうしてジーリアに拘束されてロクに身動きも取れないというのに、体はどこまでも軽やかで、まるで風になったみたいだった。
力の扱い方が、あり方がわかる。魔法の何たるかを感覚的に理解できていた。このまま現世に戻れば、以前とは比べ物にならないくらい、悪魔の権能を上手く使いこなせる自信があった。
だがそれも……思考力がなければ……
「――手がないこともないわ」
そこでジーリアが、フフフ……と不穏に笑う。
「私も一緒に、現世に行くの。そして、きみの魂の器をかっちりと縛り上げて、自我を維持シてあげる」
エメルギアスはバッと顔を上げた。そんなことが可能なのか。
「これだけきみが権能を受け入れてくれたんだもの。きっと魂の中に、私の居場所を作れるわ。実体化セずに済むなら、魔力を節約しながら現世に滞在できる」
「…………お前の居場所を、オレの中に?」
頭上――いや樹上、森と一体化したような、尻尾の先が見えない蛇の胴体を見上げて、不安げに問うエメルギアス。
「もちろん全部はムリよ、森ごと引っ越スようなものでスもの。でも、一部だけなら何とか入るかも。私も頑張らないとだけど、たぶんできるわ。今のきみとなら」
そしてエメルギアスの顔を覗き込み、ニタリと笑う。
「というわけで、きみの中に居場所を作るから。
「……ッ」
思わず顔をひきつらせるエメルギアス、あの苦しみが、全身を引き裂かれて丹念に細切れにされるような苦痛が、再びもたらされるというのか……!?
「ま、待っ――」
かぷっ、とジーリアがエメルギアスの首筋に噛み付いた。毒牙から注ぎ込まれる、権能という名の猛毒、エメルギアスの中身が作り変えられていく――
「がぁぁぁ――!!」
ガクガクと痙攣しながら、エメルギアスは絶叫を振り絞るほかなかった。
†††
――ぐったりとした鱗に覆われた男が、下半身が蛇の女にズルズルと引きずられていく。
エメルギアスは、定まらない思考の中、他人事のようにそれを感じていた。
「おや、これは珍しい。ジーリアが森から出るとは」
ダークポータルの近くに待機していた、燕尾服を着込んだ杖が振り返る。
「ジーリア、少し短くなったかい?」
「一部だけ、どうにか切り離シてきたの。彼と一緒に現世に行くわ」
「それはよかった。楽しんでくるといい」
ひらひらと服の袖を振る杖。
「良き契約者に恵まれたようで、羨ましいよ」
「あら、嫉妬の悪魔を羨むなんて。私も負けていられないわね」
クスクスと笑った蛇女は、「それじゃあまた」と言い残してエメルギアスを小脇に抱え、ためらいなくダークポータルに飛び込む。
全てが揺らめき、蠢き、白と黒が裏返る。
エメルギアスが感じていた、嫉妬の悪魔のぬくもりが消え去って、いや溶け合ってひとつになって、そして――
「がはっ」
硬い地面に投げ出される。硬くザラザラとした感触。おぼろげに、自分が石畳の上に転がっていることを悟った。
「若!!」
聞き慣れた、しかし今となってはどこか耳慣れない女の声。
「どうしました!? 大丈夫ですか!?」
「う、……大事ない……」
助け起こそうとする手を、半ば無意識で拒みながら、エメルギアスは答える。
まるで自分の体が、自分のものじゃないみたいだ。……悪い意味ではない。軽い、とにかく軽いのだ。
まるで自分自身が風に変わったような、清々しい感覚はそのままに。ひょいと起き上がる。物の理を捻じ曲げるのが、いつになく容易く感じられた。あまりにも世界に融通がききすぎて、慣れるのに時間がかかりそうだ――
と同時に、己が問題なく、思考できていることにも気づいた。
「若……!?」
エメルギアスの側近、ヒスィズィアがはっと息を呑む。こちらの顔を凝視して、目を見開いている。
エメルギアスは、ダークポータルを取り囲む手近な店に近づき、窓ガラスの反射で自らの状態を確かめた。
肌は青いまま変わらない。が、ところどころに、鱗を思わせるあざができていた。
そして、目。
黒く染まり、瞳孔が縦長い。まるで蛇のような――
『ウフフ。うまくいったみたい』
胸の奥から、ジーリアの声が響く。
『――これからもよろシくね、エメルギアス』
そうして、第4魔王子エメルギアス=イザニスは、無事現世へ帰還を果たした。
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