263.魔界再訪


『――旦那、そろそろですぜ』


 馴染みのグリーンドラゴンの、金属質な声にハッとした。


「あ、……ああ」


 エメルギアスは、鞍の上でしゃんと背筋を伸ばす。


 魔王城を飛び立ってから30分ほどしか経っていないが、いつもなら寝ている時間帯なので、少しぼんやりしていたようだ。


 荒野の果て、虹色に揺らめく蜃気楼のようなものが見えた。


 プリズムのような、美しくもどこか禍々しい輝き。そしてその下に広がる雑多な街――コスモロッジ。


 現世入りしたばかりの悪魔と、魔界帰りの魔族たちの逗留所。物の理を嘲笑うかのような、奇妙な家屋が建ち並ぶ街の中心部へ向かう。


 真っ黒な、世界の穴。


 魔界への入り口、ダークポータルだ。


「すぐに戻る」


 踏み込む前に、エメルギアスはお供のヒスィズィアに告げた。魔界の方が時の流れが早い。『お目当ての悪魔』の居場所次第だが――現世ではそれほど時間が経つ前に戻ってこれるはず。


 何事もなければ。


「……はい。お気をつけて」


 心配げなヒスィズィアの声を背に。


 エメルギアスは迷いなく、真っ黒な穴に飛び込んだ。



          †††



 気がつけば、暗く明るい大地に立っていた。


 頭上には黒い太陽が滲む。さざめく影の木立、赤黒い地平。


「やあ、こんにちは」


 懐かしい声が聞こえた。


 見れば、燕尾服を着込んだ杖がそこに立っていた。そうとしか表現のしょうがない存在だ。古びた木製の杖が、そのまま燕尾服に差し込まれた状態で直立している。


 初めて会ったときは、面食らったものだ。


「オディゴスか」


【案内の悪魔】――魔界に踏み込んだ魔族が、まず最初に世話になる悪魔。彼は魔界への訪問者を適切な方角へ導くことで、力を得ている。


「あなたは、初めてではないようだね」

「これで3度目だな」


 ――魔界を訪れるのは。


 成人前に初めて魔界に足を踏み入れ、【嫉妬の悪魔】と本契約し、その後、魔力が伸び悩んで再訪した。


 今のエメルギアスの魂には、もうほとんど余裕がない。


 おそらく、これが最後の訪問になるだろう。


「私の導きは必要かな?」

「もちろんだ」

「では、道を指し示そう。あなたに相応しい道を」


 オディゴスは、フッと操り人形の糸が切れたかのように倒れた。


 ころん、ぱさっ。


 転がる杖。及び燕尾服。


 その先が指し示すのは――鬱蒼とした影の森。


「あちらへ向かわれるとよい」


 ふわっと起き上がり、燕尾服の裾を叩いて土埃を落とすオディゴス。ありがとう、と礼を言い、エメルギアスは歩き出した。


 半透明な影の草木をかき分け、森の中にザクザクと踏み入っていく。全身に絡みつく茂みがあまりに鬱陶しいので、風の刃を放って刈り取ろうとするも、散ってはすぐにもとに戻ってしまう。


 ……毎度のことだった。前回より魔力が上がったのでどうにかなるのではと思ったが、そんなことはない。『生い茂る鬱陶しい茂み』という概念を壊すことはできないのだ。エメルギアスは嘆息し、苦労しながらもどんどん進んでいく。


 茂みをかき分けていくことしばし。やがて、森の中の泉のような場所に出た。


 油のようにどろどろとした黒い液体が、こんこんと湧き出る泉だ。


「久シぶりだねぇ……エメルギアす」


 と、頭上からシューシューとかすれた声がかかる。


「おう」


 大して驚きもせず見上げると、そこには逆さ吊りになった女。


 極めて中性的な顔つきだが、上半身の輪郭から女性に近いことがわかる。服らしい服は着ておらず、代わりに細かい鱗がところどころを覆っている。白目のない、黒々とした瞳に、細長く伸びる赤い舌。


 何よりも特徴的なのは、その下半身だった。ヒト型の上半身と違い、木の幹のように太く丸い、鱗に覆い尽くされた胴が長く長く――果てしなく伸びている。


【嫉妬の悪魔】ジーリア。


 初めて出会ったときは異形の姿に驚いたものだが、まだ成人前で、魔界の何もかもにビビり散らしていた当時とは違う。エメルギアスは平然としたものだった。……少なくとも見た目は。


「本当に久シいねぇ……500年ぶりくらいかなぁ?」


 親しげに、馴れ馴れしく、ポンとエメルギアスの肩に手を載せながらジーリア。


「現世じゃ15年くらいしか経ってねえよ」

「あらァ、たったソれだけ?」


 目をぱちくりとさせたジーリアは、じっとりと目を細める。


「いいなぁ。現世は楽シソうで。私もこんなにながぁぁぁい身体じゃなければ、一緒についていきたいくらいだよ。いいないいなぁ」


 しゅるしゅるとジーリアが樹上から降りてくる。もっともその一部だけが。エメルギアスを取り囲むように、しゅるしゅるととぐろを巻いて。


「ソれにシても、大きくなったねぇ」


 しげしげと、様々な角度からエメルギアスを観察し、にんまりと笑ったジーリアはよしよし……とその頭を撫でる。舌がチロチロとうごめき、鋭い牙をのぞかせた笑顔は、お世辞にも人好きのするものではなかったが。


 エメルギアスは……されるがままに撫でられていた。


「……頼みがあるんだ、ジーリア」

「うん、何かなぁ?」

「お前の権能を、限界まで受け入れたい」


 エメルギアスの頼みに、ジーリアの手が止まる。



 15年前の話だ。



 魔力が伸び悩んだエメルギアスは、ジーリアに相談した。もっと効率を上げられないか、と。


 普通、魔族が悪魔と本契約――魔族側が魔力を育てられる契約――を結ぶ際は、他に使い魔として悪魔と使役する場合に備えて、魂の器に余裕を持たせておくものだ。


 ジーリアは、その『余白』にも、自身の権能を注ぎ込むことを提案した。一度契約したら解除は不可能だが、契約を強化することは可能なのだ。


 この提案はうまく機能し、エメルギアスの力はぐんと伸びた。……しかし、その後また成長は鈍化して、現在に至る。


「……足りねえんだ」


 ちょっとやそっとの効率化では。もっと……もっと、力が必要だった。


「言っちゃ悪いけど、エメルギアすにはもう余白がないよ」


 唇を尖らせて、自分の胴体に頬杖をつくジーリア。


「スでに私の権能で、魂の器はほとんど満杯サ。完全に満たシちゃったら、もう二度と魔界にも来られないシ」

「構いやしねえ」


 ぎらぎらと緑の瞳を輝かせて、エメルギアスは答える。


「これが最後になっても構わねえ」

「…………ふーん。私より、ほんのちょっぴりの強化を優先スるってワケ」


 舌をチロチロとさせながら、ジーリアはあからさまに不機嫌になった。



 だが、エメルギアスは、そんな彼女の肩を掴み、詰め寄る。鬼気迫る形相で。


じゃダメなんだ。それじゃあ困るんだよ、足りねえんだ!」

「だから、きみの魂の器は――」

「そんなもん、どうなっても構わねえ!!」


 据わりきったエメルギアスの目に、ジーリアはそのときようやく、眼前の契約者が正気ではないらしいことを察した。


「魂の器がどうなろうと知ったこっちゃねえ。それでくたばったらそれまでだ、オレはもう、オレ自身なんてどうでもいいんだよ……!!」


 だから。


「ありったけを注いでくれ。お前の権能を、オレに!!」


 息巻いて頼み込むエメルギアスを、しかしジーリアは、白けたような顔で見つめていた。


「はぁーァ。……きみが初めてじゃないよ、そういうの言い出シたの」


 呆れたように。


「ソんなことで簡単に強くなれたら、誰も苦労シないよ。身の丈に合わない力を求めた者は、みんな、パーン! ってはじけちゃった。きみもソうなるよ」

「そんときはもう、諦める」

「めちゃくちゃ苦シむよ? きみが思ってる千倍は酷いよ?」

「どうせ死ぬなら一緒だ。そして今のオレは……死んでいるも同然だ」


 ぎりっ……と手を握りしめる。強く、強く。


「……できるんだろ!? 限界を超えて権能を注ぎ込むことは!? オレは!! 今の、この、忌々しいオレをブチ壊してェんだよ!!」


 そしてその手で、胸をドンドンと叩いた。必死で、切実で……だがどこか、幼子が駄々をこねているような滑稽さと、悲痛さを滲ませる姿だった。


「……あぁ、はいはい、わかったよ。要は手の込んだ自殺ね」


 取り付く島もないとお手上げのポーズを取るジーリアだが、にんまりと笑う。


「ま、そこまで言うなら……いいよ。注いであげる。どの道これが最後なら、きみが私の腕の中で砕け散るのも一興だシね」


 しゅるりと……エメルギアスを取り囲むように、とぐろを巻いていたジーリアの胴体が、収縮する。



 一瞬にして、獲物を締め上げるように、エメルギアスを拘束した。



「うおっ!?」

「セっかくだから、締め付けておいてあげる。コッチの方が長持ちスるだろうから」


 エメルギアスにぴったりと密着して、そっと背後から抱きしめたジーリアは。


「じゃあ、いくね」


 大口を開けて――その毒牙を、エメルギアスの首筋に突き立てた。


「――――ァ」


 注ぎ込まれる。嫉妬の悪魔の権能が、心を蝕む猛毒が。


 目を見開いたエメルギアスが、声にならない叫びを振り絞る。身体の、深く深く、奥底にサァッと冷たく広がっていった権能が、あっという間に全身に満ち満ちるのを感じる――


「ゥ――っぷ」


 自身が、何倍にも膨れ上がるような感じがした。目が血走り、口からも鼻からも耳からも、ドロドロとしたものが噴き出す。


「――ァ――ガァ――ッ」


 ジーリアは、ますます強くエメルギアスを抱きしめる。その上半身の腕でも、下半身の胴体でも。


 簀巻きにされたエメルギアスは、万力のごとき力で外から絞め殺されそうになりながら、同時に内側にとめどなく濁流のように権能を注ぎ込まれ、破裂しそうになっていた。


 その結果、行き場を失った力は――


 エメルギアスを破壊し始めた。


「ァァ――ギァァ――ッ」


 その青肌が沸騰するように泡立ち始め、ぽつぽつと血の玉が全身に浮かぶ。皮膚の下を無数の蛇が這いずり回っているかのように血管が暴れ回り、ぶちぶちと音を立てて皮膚が引きちぎれていく。


 エメルギアスは、もはや痛みだの苦しみだのという次元を通り越して、ただひたすらに暴れ回っていた。だが、ジーリアががっちりと全身を固めているため、細かく痙攣し、指先やつま先を無茶苦茶に動かすことくらいしかできていない。



 それでもなお、ジーリアは止めない。



 他でもないエメルギアスがこれを望んだのだから。



 めきめきめき、と不気味な軋みがエメルギアスの中から響く。



 ぷはっ、とエメルギアスの首筋から口を離したジーリアは、


「サよなら、エメルギアす」


 ちゅっと首筋に口づけてから、とどめとばかりに牙を――


「【我が……名、は……】」


 ごぽごぽと水気のある音を立てながら。


「【エメル、ギアス……イザニス……】」


 かすかに、うわ言のように、エメルギアスがつぶやく。


「【魔王、国に……覇を、唱え……る……者……】」


 もはや意識があるかさえ怪しいのに。どくん、どくんとまるで心臓のように、ジーリアの腕の中でエメルギアスが脈動している。


「……健気な子」


 ジーリアは、愛しげににんまりと笑う。


「でも、これで終わり」


 再び毒牙を突き立て、力を注いだ。



 そしてとうとう、耐えかねたかのように。



 ばつんっ! と音を立て、エメルギアス=イザニスは弾け飛んだ。

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