262.真なる望み
――眼下をジッと見つめるエメルギアス。
その顔は痛々しく腫れ、あざになっている。
腐っても第4魔王子である彼に、そんな無体を働ける者は――魔王国広しといえど数えるほどしかいない。
『――この大馬鹿者が!!』
あのあと、しこたまアイオギアスに絞られた。エメルギアスの言い分も全て聞いた上での鉄拳制裁。
こんなふうに顔面をぶん殴られるなど、いつぶりだろうかと、痛みはまるで他人事のようにそんなことを思った。
『なぜ不用意に刺激した』『懐柔策で行くと言っただろう』『お前は馬鹿なのか』と叱責を――いや罵倒を浴びせられた。デザートをもそもそと食べ続けるスピネズィアも、白けたような顔でそれを眺めていた。
『これで、ジルバギアスがルビーフィアの派閥に転がりでもしてみろ』
エメルギアスの胸ぐらを掴み、アイオギアスは険しい顔で言った。
『……きたる魔王位継承戦では、責任を取って、お前はまっさきにジルバギアスに当たらせてやる』
お前に相手が務まるものならな、と吐き捨てるように。
『なぜ優秀な弟は向こうに行くのか……』
などと当てつけがましく嘆いてもいたが、エメルギアスには響かなかった。
――好きでお前の部下になったわけじゃねえよ。
ある日、唐突に、母から一族の決定として告げられただけだ――イザニス族は、ヴェルナス族の傘下に加わる、と。
それまで魔王位を目指して、血の滲むような鍛錬を積み続けたエメルギアスの努力は、まるで顧みられることなく。
母は自分に見切りをつけ、新たな子を宿そうとまで画策して、そして――
めき……と、エメルギアスの手の中、バルコニーの欄干が軋みを上げた。
『いやはや、頼りになるなぁジルバギアス! 自慢の息子だ!』
不意に、ある日の父の声が蘇った。
あれは、忌々しい末弟が、ハイエルフ皮のボン=デージを披露した日だったか。父に末弟ひとりだけが残るよう命じられて、エメルギアスたちは退出したが――どうせ防音の結界に阻まれるだろうと思いつつ、ダメ元で、扉の外で聞き耳を立てていたのだ。
会話は、聞き取れなかった。だが最後に、父の称賛が聞こえた。
父は、魔王として、魔王子間のパワーバランスにいつも気を配っている。あけすけに褒めたり、贔屓したりはしない。
そう思っていた。そういうことになっていた。あの日までは。
初めてだった。父が誰かを、手放しで褒め称えるのは――それを聞くのは――
めきめき……と軋みを上げる。
そして今。眼下には、凄まじい槍捌きで死合に臨む末弟と、その母の姿。
互いに血まみれの生傷まみれ。母と子で、このように真剣で致命傷を叩き込み合うなど、魔族をして常軌を逸した鍛錬と言わざるを得ない。魔王国において治療を一手に担うレイジュ族ならでは――いや、それだけではない。
「うわんわん!」
あのハイエルフの存在も大きい。母の腹をブチ抜いた傷さえも引き受けて、あっという間に完治し、何事もなかったかのように訓練を再開する末弟。
一端の魔族であれば、たったあれだけの所作でも、末弟の脅威を感じ取るだろう。斯様な重傷を負いながらもまったく動じることのない胆力、淀みのない転置呪の行使――実戦であれば、どれほど手強い存在になるか。
何よりも異様なのは、あれだけ鬼気迫る殺し合いを演じながらも……
そこには、一切の憎しみがなかった。
「――――」
「――――」
休憩中、水を飲みながら笑顔で言葉を交わすふたり。
血まみれのままで。何を語り合っているのか。ほぼ無意識に、気づかれない程度に魔法を使って、風を引き寄せていた。
「――あな――自――子よ――」
ほとんど聞き取れなかった。
だが、プラティフィアの見たこともないような穏やかな微笑みと、愛しげに頭を撫でる動作から。
何を言っているのか……一目瞭然で。
めきめきめき、と軋みを上げる。
「……ッ」
苦しげに、今にも血反吐を吐きそうな顔で、エメルギアスは胸を押さえた。
こんなに……こんなにも、胸の内が荒れ狂っているというのに。
これっぽっちじゃ足りない。そう感じている。わかってしまっている。
40年近い歳月をかけて、エメルギアスは侯爵に至った。だが……次はどうだ?
公爵に昇格するには、どれだけ時間がかかる?
足りない。
足りない、足りない、足りない!!
こんなものじゃ……こんな成長度合いじゃ……
「ぐ……ぁ……ッ!!」
エメルギアスの手の中で、バキンッと石の欄干が砕け散る。
どんなに求めても。
どんなに焦がれても。
これっぽっちの力じゃ、足りやしない。
それと同時に、理解している。たとえどんなに力があっても。
――魔王になりたかった?
――最強の戦士を目指していた?
――それとも栄誉と名声を求めていた?
いいや、どれも違う。自分は……本当は、自分は……
自分が、本当に欲しいものは。
「ふ……ふ、はは」
絶対に、手に入らない。
なら。
力を、手に入れるしかないじゃないか。
エメルギアスには……もうそれしか、残されていないのだから。
「…………」
血走った――ある種の決意を秘めた目で、ゆらりと、エメルギアスはその場を立ち去った。
「若……」
側仕えであり、幼馴染でもあり、姉のような存在でもある魔族の女・ヒスィディアが、尋常ならざる様子のエメルギアスに、心配げな声をかける。
「竜の手配を」
彼女に、簡潔に命じた。
これ以上の力を、成長を求めるならば。
「――ダークポータルに向かう」
エメルギアスが差し出せるものは
己の魂しかなかった。
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