253.奇跡の不在


 魔獣。


 読んで字のごとく、魔力を宿した獣のことだ。


 魔法で物の理を捻じ曲げ、普通の獣とは比にならない膂力りょりょくを誇り、特異な外見や性質を持つことが多い。


 そしてタフマンたちの前に姿を現したのは――



 熊だった。



「グオオオオォオォッ!」


 後ろ脚で立ち上がり咆哮する。


 己が存在を誇示するように――を掲げながら。


 デカい。見上げるほどだ。身の丈は、成人男性ふたりを並べてもまだ余りある。


「なんだコイツ!?」

「アスラベアだ!!」


 顔をひきつらせるタフマンに、ドーベルが切迫した声で答えた。


 多腕で知られている悪魔、アスラ族にちなんでそう呼ばれている。ただでさえ強力な丸太のような腕を4本、自在に操る凶暴な肉食獣だ。


「普通はもっと森の奥にいるやつだ! なんでこんなとこに――」


 だが、ドーベルがそれ以上、言葉を発する暇もなく。


 四足をついたアスラベアが、余りの腕2本を振り上げながら、全身に力をみなぎらせた。


 ――来る。


「密集! 盾ェ掲げェ!」


 タフマンの号令に、人族の衛兵たちが訓練で叩き込まれた通り、半ば反射的に集い隊列を組んだ。前列が前に、後列が上に、それぞれ盾を掲げて密集する。隙間から剣を突き出した構えはまるでハリネズミのようだ。


「俺たちが引きつける! その間に殺れェ!」


 ドーベルに血走った目を向けながら、タフマンは叫んだ。


 人族の強みは連携、獣人族の強みは瞬発力と個人技。このバカでかい熊に対抗するには、それぞれの強みを活かすしかない。


 もちろん撤退も考えた。全員でバラバラの方向に逃げれば、犠牲になるのは数名で済むかもしれない。


 だがタフマンの戦場勘が告げている――コイツはそんな生易しい相手じゃない! 下手に背を向ければ、俺たちはあっという間に食い散らかさられる!


 ――立ち向かうしかない。


「踏ん張れェ! 【光の神々よ我らを護り給え!】」

「「【我らを護り給え!!】」」


 ひるむことなく叫ぶタフマンに、衛兵たちも呼応する。盾兵はタフマンをあわせて16名、アスラベアの巨体の前ではあまりにささやかな防御陣――


「グルゥゥゥオオオッ!」


 地響きとともにアスラベアが突進。


 4本の腕で、まるで抱きつくようにして盾の壁を薙ぎ払った。


 バキバキメキィッと身の毛がよだつような破砕音とともに、盾が砕け、腕がひしゃげ、両端の数名が悲鳴を上げる。爪で胴をえぐられた衛兵が「ウぉぶっ」と吐血し、それをもろに浴びた隣の若い兵が「うわぁぁ!」と情けない声を漏らす。


 だが、腕はそこで止まった。


「畜生が――ッ!」


 タフマンの眼前、吐息の湿り気を感じるほど間近に、アスラベアの顔。鼻めがけて剣を突き込むが、寸前で顔を逸らされ、頬のあたりをザリザリと剣先が滑っていく。分厚い毛皮の感触、文字通り毛ほどにもダメージが通らない――


 ギロ、と黒々とした瞳がタフマンを見据えた。『盾の集合体』から、『ちっぽけな人間エサ』に認識が切り替わる瞬間。



 濃厚な、死の臭い。



「ォォォォンッ!」


 だが、そこへ吠えかかりながら、残りの獣人兵15名が群がった。爪を、牙を剥き出しにして、あるいは篭手と一体化した鉤爪を閃かせて。


「殺せェェ!」


 飛びかかって食らいつく者、爪を立てる者、頭を狙って背中によじ登る者――ドーベルもまた、アスラベアの脇腹にナイフのように研ぎ澄まされた鉤爪を叩き込む。


(――硬いッ!)


 が、ガツンと阻まれる。ただの毛皮と筋肉に! ドーベルは手に伝わる感触にゾッとした、まるで岩でも殴りつけたみたいだ――!


 わらわらと群がる獣人に鬱陶しそうに唸ったアスラベアが、まるで蝿でも追い払うようにブンブンと腕を振り回す。


「あぐっ」

「がはっ」

「ごヴ……ッ」


 その大雑把な一振り一振りが、致命的な威力を秘めていた。人形のように獣人兵が弾き飛ばされ、運悪く爪が直撃したものは空中でバラバラになった。


「ライアーン! クソが――ッッ!」


 どう見ても即死、ドーベルは悲鳴のように名を叫びながら、眼前、赤褐色のアスラベアの毛皮を睨む。


 集中しろ。集中しろ。集中しろ。


 こんなところで食われてたまるかよ!!


 ライアンの仇を討て! 全身全霊で打て!


「おおおおォォォォ――ッッ!」


 脇腹、毛皮の向こうの肋骨をイメージする。拳に全神経を集中させ、隙間に差し込むように、今一度鉤爪をブチ込んだ。


 ぐりぃっ、と刃が潜り込む感触。


「グゥオオオォッ!」


 倒れた衛兵に食らいつこうとしていたアスラベアが、ビクッと身体を跳ねさせて、反射的に腕を振るう。


 猛スピードで、焚き火の明かりでてらてらと光る爪が、迫る。


「――っ」


 腕の刃をめり込ませたまま、跳び上がって、かろうじて爪の直撃をさけられたのは日頃の修練の賜物だった。


 が、爪は避けても丸太のような腕が直撃、ドーベルは子どもの玩具のように吹き飛ばされる。鉤爪の篭手はアスラベアの脇腹に刺さったまま、手からすっぽ抜けた。


「がっ――はっ……」


 地面をバウンドし、そのまま木の幹に激突。全身に激痛が走り、ガツンとまぶたの裏に星が散って、そのままドーベルの意識は暗転した。


「ドーベルッ! この野郎ッちょっとデカいからっていい気になりやがってェ!」


 振り落とされそうになりながらも、アスラベアの背中にしがみついていた狼系獣人が、どうにか頭部までよじ登る。


「死にやがれェェェ!」


 そして後頭部から腕を回すようにして、目のあたりに爪を閃かせた。


「――――ッッ!!」


 右の眼球を抉られ、アスラベアが形容しがたい絶叫を振り絞る。このような痛手は想定外とばかりに、ブルンブルンと勢いよく頭を振り、当然、頭にしがみついていた狼獣人も堪えきれず振り落とされた。


「ガぁっ――てめェッ」


 したたかに背中を打ちつけても、即座に跳ね起きようとした狼獣人だったが。


「あ」


 彼が最期に目にしたのは、怒りに燃える黒々とした左目。


 ブチィッと繊維が引き千切れる音を立て、狼獣人の胴が食い破られた。身にまとったレザーアーマーなどお守りにもならない、まるでサクサクのパイ生地のように噛み砕かれ、飲み込まれていく。


「グウオオオオオアァァァァ――――ッッ!」


 右目からは自身の、口からは獲物の血を滝のように流しながら、アスラベアが吼えたける。


 ビリビリと夜の森が震え、鳥たちがザァッと一斉に飛び立った。


 弱者の心胆を寒からしめ、浮足立たせる捕食者の咆哮。


 果敢に抵抗していた衛兵たちも、思わず一歩、二歩と後ずさる。


 だが。


「おおおおおおぁぁぁ――ッッ!」


 威嚇の叫びを返す者がいた。


 タフマンだ。


 陣形の真ん中で何度もアスラベアの腕を受け止めた結果、盾はひん曲がり、左手はひしゃげ、かろうじてぶら下がっているような有様だ。反動でぶつけた額からはだらだらと血が流れ、その目はどこか虚ろでさえあった。


「かかってこいやァァァ――ッ!!」


 ところが、満身創痍と言っていい惨状でありながら、その闘志はいささかも衰えていない。いや、闘志を奮い立たせたままであることを、自らに強いている。


 この期に及んで、『勝てる』とは思っていなかった。 


 しかし弱気を見せてはならない。殺すに易しと侮られてはならない。


 かかってこいよ。こちとらボロボロだけどなぁ。


 大人しく食い殺されると思ったら大間違いだ!


 歯向かうぞ! 最期まであがくぞ!


「おおおおおおォォォ――ッ!!」


 タフマンは剣を振り上げて叫ぶ。



 焚き火の明かりを反射して――ギラリと剣呑な光を放つ、刃。



「グゥゥォォォォォ……」


 アスラベアは唸った。


 小さくて食べやすいエサかと思ったが……妙な甲羅たてを持っていて、存外にしぶとい。それに思ったより爪も鋭いようだ。


 ちくりと、脇腹が痛んだような気がする。


 目の前のエサも、血だらけで弱っていて、軽く小突いただけで殺せそうだが……


 アスラベアは残った左目で周囲を見回した。獣人たちが、爪や牙を剥き出しにして唸りを上げている。



 ――馬鹿らしい。



 そう思った。雑魚で小腹を満たそうとしたら、酷い目に遭ってしまった。コイツら全員を血祭りに上げてやりたいところだが、これでさらに手傷を負ったら、割に合わない。


「グゥゥォォォ……」


 アスラベアは、自らの右目を抉った忌々しいエサの下半身を、バリボリと噛み砕いて飲み込んだ。


 そして、足元で踏み潰されていた別のエサの頭を咥え、そのままズルズルと引きずっていく。


 背中を見せたら何をされるかわからないので、警戒しながら。


 ずる……ずる……と肉が地面をこする音。




「…………」


 じっ、とアスラベアを睨み続けていたタフマンは、その姿が森の奥に消え、さらに数分待ってから、ようやく力尽きたように膝をついた。


 思い出したように、全身から脂汗が吹き出す。左手がほとんど動かない。つながっているかどうかさえ怪しいが、これだけ痛いので多分つながってはいる。


「タフマン! 大丈夫か!?」

「何人……やられた……?」


 駆け寄ってきた仲間に、タフマンは逆に聞き返す。


 撤退ではなく、迎撃を選んだのはタフマンだ。リーダーとして。


 その方が、結果的に被害が少なくて済む、との判断だったが、それは今となっては直感に過ぎなかった。


「ライアンと……デューイと、ゴトルはもう……」

「レナトーっ! しっかりしろー!」

「ヤバい、ホーガンの血が……包帯! 包帯わけてくれ!」


 見たところ、獣人兵3名が即死。他数名が重傷。人族の盾兵も2名が圧死、他数名が重傷。


 現時点で5名がやられ、怪我人も半数以上は助かりそうになかった。


「タフマン……」


 腹を押さえて、脚を引きずりながら、ドーベルが近づいてくる。


「ドーベル……すまん……」

「いや……判断としては、正しかったと思う……」


 沈痛の面持ちのタフマンに、ドーベルは静かに首を振った。


「アスラベアはかなり執念深いし、足も速い。スタミナもあるから、たとえ全員で逃げても、かなりの数が食われていただろう。獣人オレたちならなんとか逃げ切れたかもしれないが……たぶん、お前たちは……」


 人族は、逃げ切れずに壊滅していた可能性が高い。


 だが、それは裏を返せば、タフマンたちを犠牲にすればドーベルたちは安全に離脱できていた、ということでもある。


「おい、そんな顔するなよ」


 ドーベルが耳をピンと立てて、心外そうに目を細めた。


「お前たちを見捨てて、オレたちだけノコノコ戻ってみろ。とんだ恥晒しだ、そんな真似ができるかよ」


 わざわざ口には出さなかったが――もし、ドーベルたちがタフマンたちを見捨てていたら、自治区の人族と獣人族が真っ二つに割れていただろう。


「これで良かったんだ。オレたちは……最善を尽くした」


 断言するドーベル。食べ残し――噛み千切られて転がっている、狼獣人の足首を見つめながら――


「…………」


 タフマンは、それ以上は何も言わなかった。流石に全身が痛すぎて、何も言えなかったこともあるが。



 勇者も、神官も、剣聖も拳聖もいない衛兵隊。



 わかってはいたが、人も獣人も、加護なしではあまりに……脆すぎる。



 魔獣1頭と正面からぶつかり合っただけで、これだけの被害が出てしまった。



 しかも、このまま生きて帰れたところで、自治区の見習い神官では治療しきれるかどうかも怪しい。



(こんな調子で……)


 タフマンは、思い描いた。あの青肌の、狂気的な若き魔王子の姿を。


 見習い神官マイシンが言っていた。あの魔王子は、聖教会では見たことがないほど強大な魔力の持ち主だった、と――


 ジルバギアスなら、今のアスラベアは……問題なく倒せたのだろうか。


 ……倒せるのだろう。あっさり、仕留めてしまうのだろう。


(俺たちは……)


 無事な右手で、どすんと地面を殴る。


(なんで、こんなに……)


 弱いんだ。


 タフマンは、ぎりぎりと歯を食いしばった。


 そうしていつまでも、アスラベアが消えた、森の暗がりを睨んでいた――



          †††



 ――森の奥。


 鬱蒼と草木が生い茂る中、ゆらりとうごめく巨大な何か。


 それは、バカでかい獅子、とでも言うべき存在だった。


 ――マンティコアと呼ばれる魔獣。


 ふさふさのたてがみに、コウモリのそれに似た翼、尻尾は毒蛇になっている――はずなのだが。


 少し様子がおかしい。たてがみは胸のあたりでバッサリと切断されているし、尻尾の毒蛇は頭がなく、尻部分には治りかけの裂傷が走っていた。


 ――このマンティコアは、敗北者だった。


 今でこそ、我が物顔で森を闊歩しているが、小さくて恐ろしい者たちに縄張りを追われ、無我夢中で駆け続けて、この地にたどり着いたのだ。


 しかしこの辺りは、存外に良い。マンティコアは静かな雰囲気を気に入っていた。


 ただ、少し腹が減った。スン、と空気を嗅げば、どこからか漂う血の匂い。


 導かれるままに、夜の森を、すり抜けるようにして歩いていくと。



「グウゥゥォォォ……!」



 鉢合わせた。四本腕の熊だ。



「…………」


 向こうは唸って威嚇してくるが、意に介さず、マンティコアは観察する。どうやら手負いらしい、右目から血を流しているし、脇腹にもキラリと月明かりに輝く何か。爪か牙でも刺さっているのか?


 血の匂いは、いくつか混ざっているように感じる。この熊が大量出血しているわけではなく、狩りの帰りと言ったところだろうか。獲物が存外に手強くて、しっぺ返しでも食らったのだろう。



 ――ちょうどいいな。



 マンティコアは、そう思った。デカくて、食いでがありそうだ、と。



「グゥゥ……オオァァァァァァッッ!!」



 唸っても全く動じる気配がないマンティコアに対し、4本腕の熊は後ろ脚で立ち上がって、本格的に威嚇した。


 それが、合図となった。


 トンッ、と地を蹴ったマンティコアが、翼を広げて跳躍する。


「グゥオァッ!?」


 ギョッとしたように仰け反る熊、そのがら空きの胴体に、マンティコアは爪を叩き込んだ。


 バリィッとキャンバスが破れるような音を立て、毛皮と肉が深く切り裂かれる。


「グオオッ――」


 そして、それ以上苦痛の叫びが続く前に、マンティコアの大顎が首に食らいつく。



 力任せに、引きちぎる。



 噴水のように鮮血がほとばしり、脊髄ごと首を引っこ抜かれた熊が、その胴体が、4本の腕をバタバタと振り回しながら倒れ伏した。



「グルル」



 ポイッと頭を放り捨てて、上機嫌で唸り声を上げながら、肉肉しい熊の身体にかじりつくマンティコア。



 まずは、この腕を味わってみよう。ポキポキと骨が爽やかな歯ごたえだ。



 うまい。前にも似たような熊は食べたことがあったが、こいつは若いのだろう、肉が柔らかくて味がいい。



「グゥ~ルルォ~」



 しかも量はたっぷりだし、幸い、マンティコアは食いだめができる。



 寝そべりながら、のんびりと久々の食事を満喫するマンティコア。



 胴体にもかじりついて、モゴモゴと咀嚼して、ペッと硬いものを吐き出す。



 からんからん、と。



 乾いた音を立てて、鉤爪が地面に転がった。

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