237.覚めても尚
「墓守とかそもそもいねえだろ、この街」
「だよねー」
俺の言葉に、「知ってた」とばかりにうなずくエンマ。
クレアのボディは、年若い女のそれだ。この細腕で墓守は無理があるし、そもそも大規模な墓場が街中にない。その設定で行くなら、せめておっさんボディにするべきだったな……それはそれでクレアが気の毒だが。
「ボクら、実は嗅覚がほとんどないんだけどさー」
トントンと鼻の頭を指で叩くエンマ。
「どうかな。そんなに臭う?」
俺の腕を掴んで、グッと身を寄せてきた。
そしてふわりと香るのは――柑橘系の香水。
そうか、これは……クレアが選んだ匂いなのか。
『ね! アレクーっ!』
不意に、幼いクレアの声が蘇る。
『お父さんがオレンジピール入りのパン焼いてくれたんだー』
ある昼下がり、クレアが家を訪ねてきて、満面の笑みでパンを差し出した。
『一緒に食べようよ!』
……俺は、警戒しながら、その大きなパンを手に取る。
『もー! 心配しなくても、変なものは入れてないって!』
『普段の行いが悪いんだよ!』
ぷっくりと頬をふくらませるクレアと一緒に、近くの原っぱまで出かけて。
『おいしいね!』
『うん、おいしい!』
本当に、いたずらじゃなくて、真っ当なパンだった。
オレンジピールの甘酸っぱい香りと、ハチミツのほのかな甘みと。
ふたりで半分こして、日向ぼっこしながら食べて。
――そんな記憶が、おぼろげに。
でも……あのときの記憶はあまりに遠く。
クレアの笑顔も薄ぼんやりとしていて、よく思い出せなくて――
眼前の、エンマのニタリとした笑顔が、
――ぼやけた記憶の中にスッと収まった。
「!!」
気づけば、ドンッとエンマを突き飛ばしていた。
「……え?」
表情を消すエンマ。俺はハッと我に返る。
「いや……すまん、ちょっとびっくりして」
俺はぎこちなく笑みを浮かべ、エンマの手を取った。
「急に近寄ってきたから、ドキッとしちゃってさ。
……敵だと割り切ってるから。
「その体は、クレアじゃないか。だからさ……」
耐えられなかったんだ。
「ああ、なるほど。ボクもびっくりしちゃったよ、でも確かにそうだね」
おどけた笑みを浮かべるエンマ。
その顔で!
笑うんじゃねえ……!!
俺は必死で、ありし日のクレアの笑顔を思い出そうとしたが、それはもう……どうしようもなく、上書きされていた。
「またまたうっかりしてた、配慮が足りなかったみたいだ……」
常に配慮が足りてねえよお前は……!!
「それで、臭いについてだが……」
俺はゆっくりと呼吸して、自らを落ち着ける。
「……俺には、アンデッドらしい死臭みたいなのは、よくわからない。ただ、犬獣人まで誤魔化せるか、と問われると謎だな」
実際、エンマにこうベタベタされても、臭いがキツくて不快という感じはしない。しかし犬獣人たちは話が別だ、アイツらほんとに異次元だもんなぁ。勇者時代、彼らの嗅覚にどれほど助けられたか。
仮定するのも失礼だが、もしも彼らが魔王軍側だったら……
……もっと恐ろしいことになってただろう。いや、猫系獣人族もパワーと瞬発力がすごくて、脅威なんだがね。
「うーん、クレアの体は『肉』をそんなに使ってないから、臭いはそれほど強くないはずなんだよね。ボクの経験上、他の臭いが強い場所にいたらバレにくいとは思う。酒場とか色街とか」
え……色街……?
怪訝な顔をする俺に、エンマはハッとしてわちゃわちゃと手を振った。
「いや、その、ボクも同盟圏をさすらってたとき、色々とあってね? 街に潜伏するとしたら、流れ者も多くて、料理やらお香やらの臭いで溢れてる場所の方が楽だったんだよ。まあ滅多に潜伏なんてしなかったんだけど、さ……あはは」
……そうだよな。
行く先々で、住民をまるごとアンデッドにしてしまうから、お前は長年、聖教会に追われ続けていたんだ……!
「はぁ。研究不足だなぁ」
観念したように、頭をかきながらエンマは溜息をついてみせた。息なんてしてないのに。
「面目ない。難しいけど、ちょっと色々と考えてみるよ。自治区が賑わいを取り戻すまでは、クレアは城の中にいた方がいいかもだね」
クレアが派遣された意味よ……まあ、俺には都合がいいからいいんだけどさ。
「そういうわけで、名残惜しいけど、ボクは戻るよ」
「そうか……」
下手に「残念だな」などと言葉にするとエンマが残りかねないので、俺はせいぜい名残惜しげな表情を作って、相槌を打った。
「じゃ、またね!」
エンマはぱちんとウィンクし、チュッと投げキッスしてから――
スッ、とその表情が抜け落ち、カクン、とクレアがその場に尻もちをついた。
……一瞬だ! 注意深く観察していたから、霊界の門が開いたらしい魔力の揺らぎを、かろうじて知覚できたが……!!
ってか、このままじゃクレアが倒れる! 俺は咄嗟に駆け寄り、その華奢なボディを抱きかかえた。
「ん――」
クレアが声を上げ、ぱちぱちと目をしばたく。
あ、いかん、意識が戻ったか。誤解を招きかねない状況……
「――いやぁぁッ! いやっやめて助けて助けて助けて――」
クレアは。
半狂乱に、もがき始めた。
凄まじい力! 爆発的な膂力に、不意を突かれた俺は弾き飛ばされた。
「あああぁッ! やだやだやだ痛い痛いッああ――ッ!」
床にうずくまり、もがいていたクレアは、そこでハッとしたように顔を上げ――
「ひっ……」
俺を見て――反射的に、後ずさった。
ガラス玉のような瞳に映り込む、青肌の魔族の姿……
「……あ、……ああ、着いたんだ」
一瞬、無表情で茫然としていたクレアは、肩の力を抜いて立ち上がった。
「ここがエヴァロティ?」
何事もなかったかのように問うクレアに。俺は……
「ああ……そうだよ」
馬鹿みたいに、ただうなずくことしかできなかった。
「へー。あっという間だね。思ったより綺麗に城とか残ってたんだ」
作ったような笑顔で言うクレア。
どんな夢を見ていたのか、なんて……
聞けるはずもなかった。
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